第9話 それは泡沫のように
目的地の銀座駅で電車を降り、デジタル水族館の会場まで徒歩で向かう。
高層ビルが立ち並ぶ街並みを二人は歩いていく。大都会の大通りに沿って歩いているはずなのに、彼らの周囲には人気はない。都会のど真ん中にいるのに、風すら吹かないこの空間には、遠方から車や人の雑多な音だけが響いてくる。
数十分も歩いたころ、二人はある建物の前にまで来ていた。ハイスピア銀座という名前のその建物は、銀座の高層建築群に埋もれないほどの高さを誇るビルであり、「デジタル水族館」が、この建物の7・8階のイベントスペースを貸し切って開催されている。
円柱の表面がほとんどすべてガラス張りとなっている特徴的な建物は。青空を映したガラス群に眩しく太陽を煌めかせている。
「ちょっとここで待ってて」
服を買うときに学習した奏多は、デジタル水族館が開催されている会場に入る前にユルカにそう告げる。
「ここで? なんで?」
「チケット買わなきゃいけないけど、あなたがいたらまたスタッフさんがいなくなって買えないでしょ。先に買ってくるから待ってて」
「あのな、服屋でも言ったけど別に買わなくていいだろ。俺と一緒に行けばチケット買わずに入ってもバレないよ」
ごく当たり前のようにそう言うユルカに奏多は半目で視線を彼に向けた。
「あのね。服屋さんでも言ったけど、気づかれないから盗むって考え方おかしいから。普通に迷惑でしょ」
「迷惑じゃないだろ。入ったことも認識できないんだからさ」
「私が嫌なの。いいから待ってて!」
と、ユルカを待たせて奏多はエレベーターに乗って会場である7階へ向かったが、しばらくすると戸惑いを隠しきれない表情でユルカの元に走って帰ってきた。
「どうかした?」
「り、り……」
「り?」
「臨時休館だったー!」
嘆く奏多の目には涙が浮かんでいる。
「あー」
「なんで! なんで⁉︎ 今朝サイト見た時はやってるって書いてあったし、昼に見たニュースの特集でもやってる様子映されてたのに!」
「いやぁ、俺のせいだろ。どう考えても」
うんざりした様子でユルカは空を仰いだ。
奏多も気づく。昨日はユルカが近づく前から車両から人がいなくなっていた。あれと同じで、ユルカが行こうとする場所はそもそも人がいなくなるわけで、人がいなくなるということは、イベントの開催スタッフもいなくなると言うこと。すなわち、イベント自体が休みになると言うことではないか。
「嘘でしょー……」
かなり楽しみにしていた奏多はガックリ肩を落とした。
「勝手に入れないの?」
「扉閉まってた」
はぁ、とため息をつく奏多。
そんな彼女を見たユルカは、少しだけ周囲に視線を巡らせた後に口を開いた。
「一回その会場に俺も言ってみていい?」
「え? なんで?」
「いいから」
そう言ってエレベーターへ向かうユルカに、奏多も後をついていく。
「扉壊して入ろうとか考えてない?」
エレベーターで向かう途中にそう聞くも、ユルカは苦笑いして「考えてねぇよ」と返してくる。
一体行ってどうするつもりなのか、と思っているうちにエレベーターは7階についた。
ビルの貸し会場となる7階を丸々使ったイベント会場は、エレベーターから降りてすぐに、明るい色のカーペットが敷かれた縦に広いロビーが広がっている。右手には券売所、左手は一面窓ガラスとなっており、車が行き交う都会の景色を写している。当然、ロビーには誰もいない。シンと静まった空間に、陽光を受けた僅かな埃が舞っており、エレベーターが閉まる音が悲しく響く。
本来この縦に長い空間は、人が長蛇の列を作って待つためのものなのだろう。黒い金属のポール同士を赤いバンドで繋げて列を整理するパーテーションポールが、役割を果たせないまま蛇腹の道だけ作って立ち尽くしている。
「会場ってあの先?」
青年は赤いバンドで作られた道の先にある大きな赤い扉を指差す。
「そうだど……」と奏多の返事を受けて青年はパーテーションポール間の赤いバンドを潜って扉へと一直線に向かっていく。同じように彼の後を追う奏多には彼の意図がわからない。
青年は扉の前に立つと、大きな扉を見上げた。金色の取手に手をかけるもやはり鍵がかかっていて開かない。
「ね? 閉まってるでしょ?」
「待って、何か聞こえる」
「え?」
青年が扉に耳を近づけてそう言うので、奏多も耳を澄ましてみれば、確かに何やら音楽のようなものが扉の向こうから聞こえる。
「音楽? なんでだろ。やってないはずなのに……」
「いや、多分やってるんだよ。中で」
「やってるって休館で誰もいないのに?」
ユルカは肩を竦める。
「突然休館にはしたけど、中で動いているものをそんな急に全部止めることはできなかった、ってところじゃないか。結構あるんだよ。こういうの。俺がいく先々でイベントやら祭りやらは中止になるけど、参加者もスタッフも突然その場を離れなきゃ行けないわけだから、片付けなんて十分にできてないままなのが」
「な、なるほど」
ここに来ようとユルカが言い出したのは、まだ中でデジタル水族館が開催されているかもしれないと思ったからだったのか。
確かに、今日は午前中まで通常通り開催していて、入館者も大勢いたのだから、スタッフが無意識にユルカを避けて臨時休館にしようとしても、同じくユルカを避けようと帰っていく入館者が全て退館しないと鍵もかけられないし、内部の電源も落とせないはずだ。入館者が全て会場を去るような頃には、同じだけスタッフもこの場から去りたくなっているだろう。会場内の電源が入ったままなのはそう考えると不思議ではない。
ただ……、
「それなら鍵もかけないでよぉ……」
結局鍵をかけられたしまっては意味はない。
ガックリ肩を落とす奏多であったが、ユルカの目はまだ明るい。
「奏多。紙と書くもの持ってる?」
「え、うん……」
唐突にそう言われ、戸惑いながらも彼女はポーチに入っていたメモ帳とボールペンを渡す。
受け取ったユルカは、メモ帳の数ページ切り取ると、壁を使って何やらペンで書き込み始めた。
「……?」
一体何をし始めたのか、とメモを覗き込もうにも、彼の身長が高すぎて何も見えない。
しばらく何か書き込んだユルカは、近くにある一本のパーテーションポールの周囲に、書いた紙を円状に並べ始める。
並べられたメモ帳の切れ端には、奏多には全く理解できない文字や模様が図形を成すように並べられている。
奏多は息を飲んだ。
「これってまさか……!」
「ねぇ、この繋がってる赤いベルト、切り離せる?」
「え、う、うん」
奏多は、パーテーションポール同士を繋いでいるベルトを外し、ベルトをポールの中に収納する。かくして円状に並べられた紙の中心に金属のポールが一つ孤立する構図が出来上がる。
ユルカが目を閉じて紙の一つに指先を置く。その姿を奏多は息を止めて見ていた。
始まりは唐突だが静かであった。
フッとどこから吹いてきた風を感じたかと思えば、紙もポールも一瞬だけ淡く光る。次の瞬間、紙もポールも灰のようにボロボロに崩れ去り、ポールがあった場所にはその白い灰のような物体の小山ができていた。
「いっ、今の!」
止めていた息と共に、奏多の心から湧き出てきた言葉が堰を切って溢れ出した。
「まさか、魔法⁉︎ つ、使えるの⁉︎ 」
「ああ。簡単なやつなら使える」
「うっそぉ……」
奏多は興奮して目眩を覚えるほどだった。
だって魔法。魔法なのだ。そんなもの、正真正銘この世界で見られるものではない。
「この世界でも使えてよかった」
薄ら浮かんでいた額の汗を拭いながらユルカはそう言った。
「ねえっ、今何したの⁉︎ なんの魔法だったの?」
目を輝かせてそう言う奏多の質問に直接ユルカは答えず、ポールが姿を変えた白い灰の山に手を突っ込む。灰の山の中から2枚の板が取り出される。ポールと同じ黒い金属でできていると思われるそれは、表面に先ほど奏多が見たような不思議な紋様が刻まれており、不思議なことに金属光沢を持ちながらも半透明であった。不思議な金属板の向こうに反対側の景色が透けている。
「それは……?」
「さっき大きな乗り物に乗ってたとき、魔法が発達した世界の話しただろ?」
「え、うん。どの建物も高くて、みんなが飛んで生活してるから、飛べないユルカは普通に移動するだけでも大変だったって……」
「そう。俺は飛ぶ魔法は使えない。でもやりようがないわけじゃなかったんだ」
そう言いながら、半透明な板を奏多へ見せる。
「この魔法は、ものの位置を入れ替える魔法。片方の
「こいつをうまく使えば好きな場所に一瞬で移動できる。つまり、こうすれば……」
彼は
「この中に入れる」
「うわお……」
そうじゃないかと思っていたせいもあって、その言葉を聞いた奏多から、そんな感嘆符が漏れた。
思わずニヤけてしまいながら、彼女はユルカにキラキラと輝く瞳を向ける。
「そんなことできるんだ……。飛ばなきゃいけない世界ではそれを使って移動してたのね」
「ああ。行きたい建物に向かって片方の
「なるほどね……」
行きたい場所がかなり限られるが、擬似的な瞬間移動ができる魔法ということだ。今も、差し込んだ扉の先の
「それで、扉の向こう側に行けるってわけね」
「そういうこと。じゃあ、早速――」
「ちょっと待った!」
奏多が手を向けてユルカを制す。
「何?」
「チケット代払ってくる」
「チケット代払ってくる」
と言って、彼女は踵を返すと赤いバンドを潜って券売所に駆けていく。
「おい、そんなのいらないって。大体、券売所閉まってるだろ」
「閉まってたって、お金を置いてくるだけはできるでしょ。やらなきゃ私が気持ち悪いの!」
適当な封筒もなかったので、奏多は近くのパンフレットを下敷きに、入場料金2980円の二人分、6000円(細かいのがなかった)を置いて、すぐにユルカの元へ戻った。
ユルカは、若干憮然とした表情で「そんなことしなくていいのに」と言ったが、「まあいいじゃん」と言って軽く流す。
「じゃ、行こうか!」
再び輝きを取り戻した瞳をユルカに向ける。彼は、小さくため息ついた後、
「奏多こっち来て」
言われるがままに、奏多はユルカに近づく、が、
「いや、もうちょっと」
と言って彼はおもむろに抱き寄せるように奏多を自分へ近づけた。
「ちょっ!」
反射的に顔が熱くなることも恥ずかしくて、即座に抗議の声を上げようと顔をあげた瞬間。奏多の視界に映る景色が一変した。
「あっ⁉︎」
突然視界が暗闇に塗りつぶされた、と思ったのは一瞬。暗闇ではない。薄暗いが光がある。視界のほとんどを遮っていたユルカが奏多から離れると、その空間は淡い照明に照らされた黒い部屋であることがわかった。部屋の正面と左右には次の部屋への入り口がポッカリと口を開けている。
ともすれば不気味とも思える空間が目の前に広がっていたが、部屋の向こうからは楽しげな音楽が響いてきており、振り向けばそこには金色の取手がついた大きな赤い扉があった。見間違えようがない。先ほど、奏多たちの行く手を阻んでいた扉だ。
つまりここは、さっきいた扉の向こう。デジタル水族館の会場の中なのだ。
「うわぁ、ほんとに中に入っちゃったよ……!」
一瞬の体験だったが、人生で初めての魔法の実体験に、興奮を隠せなかった。ドキドキといつもより早いペースの鼓動を奏多は耳の裏に感じていた。この早鐘をついているのは、魔法の体験だけじゃないかも……と一瞬よぎった思いは、驚いただけだと瞬時に心の奥に押しやった。
「すごいね……。……あっ! ねえ! これ、もしかして私も使える?」
「多分、無理だと思う。この世界には、俺以外に魔力を全く感じない。魔力という概念自体がこの世界には存在しないんだ。だから、どう頑張っても不可能だと思う」
「そっかぁ……」
もし奏多も使えたら、旅行から帰る時に一瞬で家に帰れて、帰りの交通費も移動時間も削減できると思ったのだが、そう上手くはいかないらしい。
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