第4話 嵐の邂逅


ガキン、という音を立てて、彼女が足をかけていた足場が折れた。



「痛っ!」


バランスを崩した彼女は、足場へ倒れかかる。だがその勢いに錆びついた足場は耐えられず、彼女の倒れ掛かった衝撃で弱っていた足場の各部が断末魔を上げ、足場そのものも大きく傾く。


「え、う、嘘……っ」


倒れこんだ姿勢で逃げることもできない。


錆と雨水を散らして、長年放置された足場が音を立てて奏多に崩れ落ちてきた。


彼女にできた行動は頭を守ってうずくまることだけ。しかし、そんなもので重い金属の雨から身を守ることなどできるはずもない。彼女は次の瞬間襲い掛かる痛みに備えて目を固く瞑った。


響き渡る轟音。ビクリと奏多の体が揺れるが……


「…………?」


痛みが、こない。それどころか自分に何かが当たった感覚すらない。


破砕の音はほとんど一瞬。疑問に思う頃に残っているのは木霊だけ。恐る恐る彼女が目を開けると、そこにはオレンジの奇妙な服装に身を包んだ青年が彼女に背を向けて立っていた。ボロボロの服装や伸び放題の髪も相まって、一瞬奏多は目の間に立っているのが人間であるという理解すら遅れた。


夢か何かかと一瞬思うが、周りを見れば確かに崩れ落ちた足場の残骸が彼女の周囲に散乱している。そう、彼女の周囲だけに。


あれだけ雨に交じって降り注いだ鉄屑たちが、ただの一つも奏多に当たらず、彼女のいる場所だけが綺麗に円を描いて瓦礫が落ちてきていない。彼女と、そして青年の周囲にだけ。不思議なことはそれだけではない。さきほどまで殴りつけるように降りつけていた雨も、暴力的な風も全く消えていた。遠くからの雨音が響くだけの凪いだ空間が彼女の周囲に出来上がっていた。


「あんた……」


最初に口を開いたのは、青年のほうであった。その声は酷く掠れていて、ほとんど人間の発する声に聞こえないほどだった。奏多へ向けた顔は酷く汚れていて表情に乏しい。だが、その空より青い瞳の奥には小さな光が瞬いている。


「俺が……見えてるのか……?」


驚き半分、疑い半分、そんな声色。


いまだ放心状態から脱しきれない奏多は返答ができない。青年の青い瞳を見返すことで精一杯であった。ただ、それだけで青年にとっては十分だったようで、彼は尻もちをついたままの奏多の前に膝をついて、奏多の瞳を覗き込んだ。


ふっと奏多の心に去来する恐怖を、青年の瞳に湛えられた光が祓った。


「あんた、何者だ?」


「そ、それは……こっちのセリフ……よ……」


やっとのことで奏多は言葉を紡いだ。


二人を避けるように散らばる鉄骨。そして今もなお遠くへ押しやられている雨と風。この現象を起こしているのが青年であることは明らかだった。


「あなた……何者?」


「……!」


自分から話しかけたはずなのに、青年は奏多が言葉を返したことにひどく驚いていた。彼はしばらく言葉を探した後、ポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。


「俺、は……ユルカ……。俺は……」


と、言葉を紡ぎかけた青年の目から、ダバーっと涙が溢れだした。


「え、えぇ?」


「あ、いや……違っこれは……」


青年もまた自分自身の涙に動揺したようで、隠すように顔を背けて目を擦る。


「人と……話すのが……本当に久しぶりだから……」


その体格に合わないその仕草はどこか子供じみていて、奏多の警戒心がどこかにいってしまう。


とりあえず奏多はその場から立ち上がった。


「はぁ。もう、本当にわけわからないけど……とりあえず、あなたが助けてくれたんでしょ? ありがと」


奏多のその言葉に、青年はまたも驚いた表情をしたが、頬を掻いて「ああ……」と答えた。


奏多は周囲に散らばる鉄骨に見渡す。


「ていうかこれ、何したの? こんな風になるなんて……」


「別に何も……」


 喋りなれてきたのか、彼の声や話し方はだいぶ聞き取りやすくなっていた。


「いろんなものが俺を避けるんだ。落ちてくるものも、雨も、人も……」


 そうして彼は空を見上げる。彼が見上げる先には、曇天の空とそこから降りしきる雨が見える。降り続く雨は彼の頭上数十メートルで見えない壁に阻まれているかのように軌道を変えており、まるで透明なドームの中から見るような光景が二人の頭上に広がっている。


 奏多は初めて青年と会った時を思い出していた。


 あのとき、確かに青年の言う通り、彼を中心として人も雨も彼に寄り付かなかった。人だけでなく、意思のない雨や落下する足場まで彼を避けるなんて信じられない話ではある。しかし現にその現象を目の当たりにしている。


「でも、あんたは違う」


青年が空から奏多へ視線を戻す。


「あんたは……俺を認識している。普通、誰も俺がいることにすら気づけず俺を避けていくのに……あんたこそ何者なんだ?」


「私っ? 私は普通の女子高生だって! そんな特別な力ないって!」


「でも、現にこうして俺を認識できてる」


「そんなこと言われても……」


そんな科学を超越した力を持つ心当たりはない。この17年間普通に生きてきたのだ。


「ホントに私何にもないって。私は……」


と、そこまで話したところで、広場の入り口付近が騒がしくなる。足場の崩落であれだけの大きな音がしたのだから、当然と言えば当然だ。


近所の住人らしき人数人が、何事かと眉を潜めて路地から広場に入ってくる。


「あ、やばっ」


事故とはいえ、これだけの倒壊を起こしたのだ。奏多が問い詰められることは必至であろう。


しかし、


「うわぁ、こりゃ派手に崩れてやがる。風のせいかぁ?」


広場を見に来た大人たちは、手前の路地から入ってこず、やや遠巻きに広場の惨状へ視線を向けるのみ。見えていないかのように奏多にも長身の青年にも目もくれない。


奏多は、青年の顔を見上げる。


「これ……あなたの力のせい……?」


「言ったろ。みんな俺を避けるって」


 低い声でそう言った彼は、奏多に背を向けると、廃墟の入口へ歩を進めていく。


「騒がしくなってきたし、離れよう」

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