第3話 雨中の憂い

「ハイッ ラスト1セットー!」


「「ハイッ」」


奇妙な体験をした翌日。


いつにも増して強い雨音が響く体育館端で、奏多含む女子陸上部の面々が荒い息を吐きながら快活な声を返す。両肘を前について、腕立て伏せにも似たポーズを維持するこのトレーニングはプランクと呼ばれる体感を鍛えるものだ。


奏多の所属する陸上部は、火曜と木曜の雨の日はこうして筋トレをすることになっている。緑色のネットに隔たれ、半分はバスケ部、もう半分はバトミントン部が使う端で、奏多たち陸上部は筋トレをしている。


「くぅ……」


1分間続けるプランクは見た目に反して結構きつい。奏多の頬を汗が伝い、冷たい床に彼女の汗が何滴も落ちる。


筋トレは好きじゃない。もとより走ることが好きで始めた陸上部。それと対極的なこうしたじっと体に負荷をかけるトレーニングはどうにも彼女の性に合わない。


「ハァ……キッツ……」


そう隣でぼやいたのは、短めのポニーテールを揺らす部員の人一人だった。彼女は、プランクをしているようでこっそり膝をついていた。


「ハイ終了ー!」


ガクリと部員から力が抜ける。


次のトレーニングのインターバル中に、隣の部員も息を吐きながら奏多に笑みを向ける。


「奏多さ、今度フォレスト行かない? 新メニュー出たらしいよ! 奏多の好きなベリー系で」


「え、マジ! 行く行く! 今週日曜なら空いてるよ!」


「あー、土日はウチきつい。明日雨なら部活ないし、明日は?」


「いいねっ。行く行く」


行きつけのカフェの雰囲気と新メニューの味を想像し、奏多の頬が思わず緩む。


走れないのは残念だが、雨の日の練習は嫌いではない。なんだかんだこうして普段の練習より友達と雑談できるうえ、トレーニング内容も晴れている日のものと比べれば楽だからだ。奏多も含め数名の陸上部員の雰囲気は緩い。が、


「ちょっと、もう始めるよ」


と、部長からの鋭い言葉が全体に飛び、再度体幹トレーニングが始まった。






「オッケー! 練習終わり!」


結局、練習終了時刻の18時を少し過ぎたくらい今日の練習は終了した。


滴る汗をぬぐいながら、奏多は大きく息をついた。


練習が終わり、それぞれが更衣室で着替えを済ませていく。奏多は背中の傷を隠すように羽織った制服の中でもぞもぞと着替えていく。


「奏多。この後ミスド行かない? 作戦会議」


そう声をかけてきたのは、陸上部の部長で同級生の藍沢 朱音だった。スポーツ少女らしい耳の見えるベリーショートヘアと晴れの日のような明るい笑みをいつも湛えている少女。彼女とは中学校からの付き合いで、ずっと同じクラスだったこともあって仲のいい友達だった。


「作戦会議?」


その言葉に思い当たることがないでもなかったが、一応奏多は訊き返す。


「『もっと部活をやろう計画』! 美鶴も来るよ」


同じく中学のころからの同級生の名前を挙げ、朱音はニッと笑って見せるが、対する奏多は曖昧な笑みを返す。


「ごめ、今日チーと約束があるんだ。また今度で」


「えー」


「ごめんって」


『もっと部活をやろう計画』安直だが目的のはっきりとしたその計画は、朱音が部長になった当初からずっと言っていた計画だった。


奏多の高校、公立日ノ江坂南高校の陸上部はいうなれば弱小部活だ。練習も平日は六時まで。休日は土曜練習のみ。雨が降った日は火曜と木曜なら体育館の空いたスペースで筋トレとなるが、それ以外の日は休みとなってしまうような緩さだ。大会で結果を残すようなこともない……最近までは。


今年から部長となった朱音は中学のときから400メートル走で結果を残しており、今年はインターハイに出場したほどの実力を持っている。相当練習が緩いこの部活では快挙も快挙。それだけ彼女は部活後も自主練をしていたということなのだろう。


そんな彼女からすれば、今の陸上部の練習は物足りなさすぎるらしい。部長になった暁に、先生と掛け合って陸上部の練習をもっと増やそうとしている。『もっと部活をやろう計画』とはそれのことだ。


着替え終わった奏多は、朱音たちに申し訳なさそうな笑みだけ返して、更衣室を後にする。体育館に併設された更衣室は出てすぐに外に面しており、昨日に劣らず強い風が横殴りに雨を叩きつけてくる。強風のせいで ひさしはほとんど役に立っておらず、顔を濡らす雨にたまらず奏多は顔を顰める。赤い傘を開いて足早に帰路へとついた。


風に飛ばされないように短めに傘を持って校門を出ていく。彼女の表情はほんの少しだけ浮かない。それは、靴下を濡らしてくる雨を疎んじているわけではない。


チー、すなわち親友の内藤 千草と約束があると朱音へ言ったのは嘘だった。写真部の彼女はとっくに帰っているだろう。


正直に言うと、奏多は朱音の『もっと部活をやろう計画』に素直に賛同できないでいた。奏多が異端というわけではなく、今の陸上部のメンバーの半数以上がそうだろう。もとより中学からの延長で何となく続けている部員がほとんど。陸上をやりたくないわけではないが、今の平日に早く帰れて日曜に休める状態から変わるのが嫌なのだ。部員の大半がそんな状態では、顧問も朱音の独りよがりな練習時間とメニューの変更に対して首を縦には振らないだろう。


それがわかっているから、新部長となった朱音は練習を強化することに賛成するメンバーを集めて顧問を説得しようとしているのだ。半数とまではいかなくても朱音に賛成する部員が多ければ、顧問も大会で結果を残している朱音の要望に応えようとするはずだ。そのためのメンバーとして、同じ中学校出身であり、友達である奏多は朱音に声を掛けられたのだ。……奏多の心とは裏腹に。


奏多は雨に濡れて冷えた手で傘を握りこむ。


陸上が嫌いなわけではない。走るのは好きだしこのまま続けていきたいという思いはある。しかし……、


(そこまで本気でやれないよ……)


それが奏多の本音だった。


嫌いなわけではない。しかし、本気なわけではないのだ。


練習はちょっと面倒だと思うし、雨でなくなる日はうれしい。


こんな風に思うようになったのは高校生になってからだ。いや、旅行やイベントに参加することが趣味になってからか。


陸上は好きだが、休みの日にどこかに遊びに行くことはもっと好き。練習がハードになってそれがなくなるのが嫌。言ってしまえばそれだけのシンプルな感情だが、それを朱音たちに言えずにいる。


駅について傘を畳みながら改札をくぐる。部活帰りの生徒などでホームは賑わっており、普段自転車で通っている生徒もいるのか普段より人口密度は高い。雨の日が嫌になる理由の一つだ。


ちょうどついた電車に乗り込み、奏多は窓から街の様子を眺める。降りしきる雨に町は灰色に塗られ、コントラストの薄い街並みが雫とともに窓を流れていく。


朱音とは友達だ。休みの日に遊ぶこともしばしばある。朱音だけでなく、同じく朱音に協力しようとしている美鶴だってそうだ。仲がいいからこそ、違う立場に行きづらい。


協力して練習がハードになるのは嫌だ。でも、朱音たちに協力しなくて関係が気まずくなるのも辛い。協力するにしてもしないにしても、練習がハードになったらどうするのか? 陸上部をやめるのか? そんなことまで頭に浮かんでは、それ以上考えたくなくてその先の思考に蓋をしてしまう。


電車を降り、強風の中再び帰路を進む。その間も悶々と同じようなことを繰り返し考えていた奏多であったが、自宅マンション近くまで来たところで突如強い風が吹いた。


「あっ!」


 強風の勢いに傘を奪われてしまう。彼女の手から離れた赤い傘は宙を舞ったところでさらに風に捲られて空と踊り、運の悪いことに道脇の路地へと入っていく。


「ちょっとちょっとちょっと!」


即座に雨に全身をずぶぬれにされながら、奏多は宙を舞う傘を追いかける。もちろん気分は最悪だ。


器用に細い通りの間を抜けた傘は、その先にあった廃墟を囲む金属の足場に引っかかって動きを止めた。


「もー! なんなの!」


 足を踏み入れた場所は、建物と建物の間に挟まれてできた広場のような空間。方々に生えた雑草は生い茂り、打ち捨てられた電化製品やガラクタが錆と雨に埋められている。


今の彼女にそんな余裕はないが、この場所は彼女にとって少し懐かしい場所であった。というのも、この広場は子供のころによく秘密基地のように遊び場として使っていた場所だったのだ。もっとも、広場が誰の敷地ともわからないことや、子供たちこの広場に面しているボロボロの廃墟の中にまで入って遊びはじめたこともあって、ここで遊ぶことは早々に禁止されたのだが。


奏多の傘は、その件の廃墟の周りを囲んでいる工事用の足場に引っかかっていた。


一体どんな事情があったのか知らないが、この足場は奏多が子供のときからずっとこのままだ。作業の途中で建設業者が潰れたのか、取り壊そうした際に所有者と業者が揉めたのか……。誰からも手放された足場は廃墟の一部となって錆に塗れながら、雨の隙間にため息を挟んでいる。


周囲が建物に囲まれているとはいえ、廃墟の隙間や小道から吹き入ってくる風に、足場は危なげなく揺れている。不気味な軋み声が奏多の耳に入ってきていた。


子供のころは大人たちがこの場所を危ないと言ったことに納得できなかったが、今ならそれが十分にわかる。


足場に引っかかった傘は、手を伸ばしただけでは届かないような高さにあった。もう服も荷物も雨に殴りつけられたままの奏多は全てを嘆いてその場に寝っ転がりたくなった。だが、そんなことをしても傘は戻ってこず、体も荷物もさらに濡れるだけ。彼女は大きなため息をつくだけにする。もう傘を諦めて帰ろうかなんて考えが一瞬よぎるが、


(ナイナイ。チーとお揃いで買った傘だよ?)


友達との思い出は重い。先日なくした傘とは話が違う。


ぐっと覚悟を決めて傘を見上げてから、彼女は荷物を雨に当たらないところに置く。手を伸ばしても届く高さではないのは明らかなので、ガラクタの中から手ごろな金属の棒を取り出して傘に向かって棒を伸ばす。


棒の長さは絶妙に傘に触れる程度の長さ。背伸びして棒を振っても傘の柄にカツンと当たるだけ。その衝撃では柄の部分が支柱に引っかかっている傘は外れない。


ギシギシと錆びついた足場が不穏な音を立てる。なかなか取れないイライラが募り、手に錆の汚れまでついてしまっていることも苛立ちを助長させる。低い位置にある足場に足をかけて棒を振り回したそのとき——、




ガキン、という音を立てて、彼女が足をかけていた足場が折れた。


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