第3話 撲殺

 今年で二十五になる青年、佐藤は、ハロウィンイベント準備会の一人として運営本部の天幕の中にいた。商工会議所の職員であり、イベントの立ち上げからずっと関わってきた男である。

 佐藤は忙しく働きながらも終始上機嫌で、つらそうな様子は一切見せなかった。というのも、酒の席で先輩に「友達も誘ってみたら」と言われたので誘いをかけてみたら、長い付き合いの旧友たちがイベントに来てくれることになったのだ。その中には、わざわざ青森から来てくれることになった小野田もいる。

 あと一時間で、イベント開始時刻だ。何事もなくイベントが終わりますように……けれども大いにこのイベントが盛り上がってほしい……そう願う佐藤にとってハロウィンは緊張を要する日であり、それゆえ限界まで自分の便意に気づいていなかった。


「悪い、ちょっとトイレ行ってくる」

「おう分かった」


 佐藤はすぐ傍にいた同僚にそう告げると、トイレに向かった。一番最寄りのトイレを覗いてみたが、あいにく個室には鍵がかかっていた。


「おいマジかよ……」


 使用中で鍵のかかった個室が、便意の限界と戦う佐藤をどれほど落胆させたかは想像に難くない。佐藤は括約筋に力を込めて排泄を押しとどめながら、別のトイレに向かって急いだ。公園の北端にあるトイレはあまり使われていないから、個室が空いている可能性は高い。便意と格闘しながら、佐藤は北へ向かって走った。

 たどり着いた北端のトイレは、まるで忘れ去られたかのように古ぼけていた。中はあちこちに蜘蛛の巣が張っていて、不快な匂いが鼻を突いてくる。それでも背に腹は代えられない。便意を押しとどめるのは、もはや限界であった。

 素早く個室の戸を開けると、そこには現代において淘汰を受けつつある和式便器があった。佐藤はほんの少しだけためらったが、我慢の限界に達していた彼に引き返すという選択肢はない。

 排便を終えた佐藤は、洗面台の蛇口ハンドルをひねった。白い水垢のついた蛇口からは勢いよく水が出てきて、手から跳ねた水がTシャツを思いっきり濡らした。

 ハンカチを持っていない佐藤は、洗い終えた手をこれでもかと振って水を落とした。さて、本部に戻るか……と思って顔をあげた佐藤は、鏡の中に奇妙なものを見た。


「ん……?」


 佐藤の背後に、ジャック・オー・ランタンの被り物をした人物が現れた。カボチャの下は全身黒タイツというその人物は、入り口の方からだんだんと佐藤に近づいてきている。

 「おいおい、仮装パレードはまだだぞ」と思いつつ振り返ったその時、近づいてきたカボチャ頭は、拳を振りかぶって左頬を思いっきり殴ってきた。重量感のある衝撃が頬骨まで響いてくる。まるで布で巻いた鉄球で殴られたかのようだ。


「っ……いってぇなぁ!」


 何の理由があって殴られたのかは分からない。だがいきなり喧嘩を売られたことは確かだ。かっとなった佐藤は、振り向きざまにカボチャ頭へと拳を振るった。

 しかし、その拳はカボチャ頭の体には届かなかった。拳の一撃は、この奇っ怪なカボチャ頭の右手に受け止められてしまったのだ。


「え……」


 カボチャ頭は、万力のような物凄い握力で、ぎりぎりと佐藤の拳を握ってくる。握りつぶされる痛みから逃れようと拳を引っ張るが、びくともしない。


「離せよ!」


 佐藤は拳をぐりぐりさせて逃れようとするが、このカボチャ頭の握力は梃子てこでも動かぬほどに強く、がっちりと掴まれてしまっている。

 カボチャ頭はそのまま佐藤の右腕を掴み、背負い投げの要領でその体を放り投げた。佐藤の背中はトイレの壁に叩きつけられ、鈍い痛みが胴体に響いてくる。


「いってぇ……」


 あまりの痛みに、佐藤はすぐに起き上がることができなかった。突然現れた仮装野郎に、理不尽な暴力を振るわれている……なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、全く理解できなかった。

 起き上ろうとした佐藤に、カボチャ頭は馬乗りになった。佐藤の怯えた顔に、カボチャ頭の容赦ない拳が叩き込まれる。左右交互に打ち込まれる拳によって、佐藤の顔はあっという間に痣で青くなってしまった。殴られる度に佐藤の口から悲痛な叫びが漏れるも、この正体不明の暴行魔は全く手を緩めない。口の中が切れたのか、佐藤の口の端からは鮮血が伝って床に落ちている。

 やがて殴るのをやめたカボチャ頭は、両手を佐藤の首にかけ、思いっきり絞めた。強い力で首を圧迫されて息ができず、叫ぶこともできない。目の前の怪人が殺意を持っていることは明らかであった。

 喉を潰され、声すらも出せない。やがて佐藤の四肢から力が失われると、立ち上がったカボチャ頭は追い打ちとばかりに腹を思い切り踏んづけた。

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