殺戮オランウータンを巡る論議

歩弥丸

殺戮オランウータンを巡る論議

 今や我が帝国の版図たる昭南島シンガポール英国人ブリティッシュの作った端正な博物館があり、マライ通を自認するさる侯爵が、それをそのまま接収し保護している。そうなれば、私の部隊が直面している問題に一番通じているのは彼の館長侯であろう。

 そう考えて、殺戮猩々オランウータンの問題を持ち込んだのだ。

「殺戮猩々、かね。少佐殿、それは前世紀の探偵小説では?」

 館長侯は言う。

「いえ、それが。諸侯スルタン麾下の故老の語るには、マライ奥地にそのような、食べもしないのに人を好んで殺す猩々が出るとかで」

「馬鹿げておる」

 私の言を、館長侯は言下に否定した。

「いいか、余はこれでも自らマライを探検しておる。虎を撃ち猩々を捕らえすらしておる。だがな、あれらは野生の獣だ。此方からおそえば牙を剥きもしよう。此方から人の肉の味を教えれば狩りもしよう。だがそれだけだ。獣が為すのは、防御の為の戦いか、狩りの為の戦いだ。断じて、好みのためだけに虐殺を働く獣などおらぬ」

「獣なら、そうでありましょうな」

 湿り気を帯びた風が窓から入る。幾ら植物園を整えたところで、暑気までも誤魔化せるものではない。

「では……殺戮猩々とやらがそもそも『人』であるなら如何か。釈迦に説法と存じますが、そも猩々を指すオランウータンとは、マライの言葉で『森住の人』の謂いと聞きます」

「無論存じておるよ。それが『森の中にいる非マライ系の人』との混称で、本来適切でない呼び名だということもな。さらばこそ敢えて猩々と言っておるのではないか」

 自然、汗が滲む。なかなか慣れるものではない。

「猩々ではなく、『森住の人』、非マライ系のまだ知られぬ原住民であったならば?」

「何?」

「それが仮に猩々に匹敵する運動能力・膂力と、殺戮を好むほどの知性を兼ね備えているならば。それが仮に我々の調教に従うならば! 匪賊に対抗する秘密兵器とすら成りうるのではないでしょうか」

 館長侯もまた汗をかくが、しかし、それを気にとめる様子すらない。

「それこそ馬鹿げておる。獣なればこそ調教に従う。人が調教に易々従うならばそれはもう人ではない。人と戦う戦力として期待する方がどうかしておる」

 暫くの沈黙の内に、外では俄に黒雲が立ちこめ、大粒の雨が降り始めた。

「いかんな。もうスコールの時刻か。窓を閉めよう」

 館長侯は自ら窓を閉め、言った。

「それにな、余は人類学は専門外だ。仮に野人だと言うなら、特に助言出来ることなど有りはせんよ」

 そうは言いつつこの館長侯、爵位と位階とマライ諸侯との伝手を梃子にして軍政に折々に介入してくるので私達の立場からすれば質が悪いのであるが。

「では、まことに猩々であれば?」

「まあ、軍用になるかどうかは兎も角、調教法くらいは助言してもよい」

 要は、この一言を求めに来たのだ。『殺戮猩々を捕らえた場合の軍事研究への協力』、その言質が取れれば我々としては館長侯への面談の目的は、半分以上果たしたも同然である。

「有り難い御言葉、確かに承りました。では、我が部隊が事を果たした暁には、是非御協力賜りたい」

「……果たせるとは思わんがね」

 小声で言うのを敢えて無視して、私は博物館を辞去した。


 ※ ※ ※


 こうして我が部隊は『館長侯の協力を取り付けた』旨を司令官に言上し、司令官からの密命を受けた体でマライ奥地のさる密林に向かった。

「この奥で村人が殺されていた」

 案内人は英語で言う。英国支配下で英語を学ぶ程度には上層の出で、平素から帝国軍にも協力的な男だ。既に集落からは遠い森の中である。

「何故それが猩々……オランウータンの仕業だと?」

 私は聞き返した。

「刃物の傷も矢の傷も銃弾の傷も牙の傷も無かった。こう、首が曲がっていた。グニャっと、でなければボキっと」

 互いに母語では無いのでなかなかあやふやな所はあるが、頸の骨を折られていた、という所だろう。

「齧られた跡などは無かったか?」

「無いね。虎ならこうはならない」

「そうか……この辺りには普通のオランウータンは出るか?」

「出る。だけど村人は普通ここまで来ない。よほど何か珍しい獣でも狩ろうとするんじゃなければ、オランウータンの居所はマライ人がわざわざ来るところじゃない」

 つまり、村人が何かを狩りにここまで来たか、……村人が此処まで連れ去られたか、だ。

「死体のあった場所は?」

「そこだ」

 案内人は蔓を持ち上げて言った。

「と言っても見つかったのは二週間ほど前のことになるし、死体は村に持ち帰って埋めたと聞いている。跡形も無いと思う」

「ふむ……」

 そこは日のささない、それ故に日本の森ほどには下草の無い場所だった。些か泥濘のようになっている。だが、よく見ると、少し下草の濃い所がある。

「あの辺りが死体のあった場所か」

「そうらしい。自分は直接見ていないので、村人からの又聞きだけど」

 そう思って見ると、下草の形が人の形のように見えなくもない。

「その死んだ村人は、死後何日くらいで見つかったのか?」

「よくは知らない。村から姿を消して、村人が探し始めて一週間くらい経ってたと聞く」

「一週間、か」

 必ずその初日に死んだとは限らないが、これだけの高温であるから、腐敗していても不思議ではない日数だ。

「少し掘ってみるか」

 部下に指示して、その人型の地面を軽く掘り返させてみた。

「掘ったらそれを篩にかけろ」

 三十分ほど作業をしただろうか。

「そろそろスコール降りますよ」

 案内人が言うので、作業を止めさせ、一旦天幕をはることにした。無いよりはましだろう。


 ※ ※ ※


「少佐殿」

 天幕の下でここまでの記録を記帳していると、副官が話しかけてきた。

「何か見つかったか」

「それが……我が軍の軍票です。軍票が土に埋まっていました。財布ごと」

「何?」

 妙だ。確かに昭南島では軍票を使っているが、マライ本土ではさほど行き渡っていないはずだ。それは諸侯の支配に遠慮して無理には軍票を使用していないからなのだが、それをこのような辺地でまとまった枚数使っているのなら。

「我が軍の、間諜だというのか」

 思わず小声で言った。雨音の方が大きいほどの小声で。

「間諜か、そうでないならば余程我が軍に近い立場の、例えば出入りの商人などではないかと」

 副官もそれに合わせて小声で話す。

「そもそも村人では無かった、ということか」

「財布の作りからしても、単なる奥地の村人とは考えにくく」

 どういうことだ。案内人が我々を謀っているのか、それとも案内人も村人に謀れているのか? いずれにしても、仮に帝国軍に近い者を狙って殺しているのだとしたら、これは猩々の仕業などではない!

「ここはハズレだ。撤退の用意を」

 告げた途端、頸に絡まるものがあった。

「がっ!」

 投げ縄だった。猩々では有り得ない。匪賊だ。匪賊がスコールに紛れ、木々を伝って我らを襲ったのだ。そうに違いない。

 必死に縄を切ろうとする。軍剣を。いや、スコールで錆びると考えて軍剣は置いてきた。スコップは。それは兵が持っている。ここには無い。小刀は無かったか。懐を探るうちにも意識は遠のいていく。

 眼前では同じように副官が頸を絞められている。縄で。いや、縄なのか? 蔓のようにも見え、その蔓を引く腕は人にしては妙に長く、毛深く、頬は異様に丸く……


 ※ ※ ※


「侯爵殿。これは一体どういうことか」

 戦後、余は英国軍の囚われの身となった。

「貴方は特務部隊の●●少佐と共謀し、『猩々』なるコードネームの下、何らかの人体実験を目論んでいた。違いますか?」

「何を莫迦な。『猩々』というのはそなたらの言うところの『オランウータン』であるぞ。何が暗号名か」

「ではこの手帳は何だ!」

 英国軍の査問官が取り出したのは陸軍の野帳だ。随分と泥汚れておるが、少佐の名が辛うじて読みとれた。

「『猩々』はヒトで、それを『訓練する方法』を貴方が指導すると書いてある!」

「それは幾ら何でもそなたらの読解力に問題が有りすぎる。余は確かに少佐から相談を受けた。ただ、それはマライの山奥に『人を殺戮する猩々』がおるというだけの話であり、『人を殺戮する猩々』とはヒトなのではないかというのは少佐の憶測に過ぎん。余は、『動物としての猩々』なら調教するにやぶさかでない、と述べたまでのこと」

「むう……我々も博物館を全き状態に保った貴方に手荒いことはしたくない」

「動物に何か調教を試みることが、何かの戦時国際法に触れるかね?」

「……触れません」

「ならばもう行っても良いな?」


 ※ ※ ※


 余は思う。

 恐らく、少佐はあの後実際に現地に向かい、『殺戮猩々』の捜索を試みたのだろう。その結果、猩々の手に掛かったのか、匪賊の手に掛かったのか、或いは単なる事故死なのかは分からぬが、兎に角死に、その結果、野帳は最終的に英国軍の手に落ちた。

 しかし、『食べるためでもなく身を守るためでもなく殺す』生き物だとしたら、『殺戮猩々』が生物学的には猩々だったとしても、そうでなかったとしても、最早『ヒト』と変わるところは無いのかも知れない。だとすれば、いずれ『殺戮猩々』か、或いはその子孫が人類と出会うときには、殺戮だけでなく、何か別の会話を出来るのかも知れない。

 そうなれば、その時は余も罪人ということに或いはなるのだろうか。 

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