第74話 記憶の味

 白い空間に椅子が二脚ある。それ以外は何もない。此処は会話をするためだけの空間だから、余計な物は何も置かれていない。入れるのは、鍵を持つ者とこの空間を作った者のみだ。

 その椅子に座っているのは、二人の人物だった。

 私達と女性だ。彼女は誰かの記憶よりも落ち着きと美しさに磨きが掛かっている。


「食べて欲しい」


 そう言って、女性が鞄から取り出したのは、プラスチックの箱だった。

 左右の留め具を外し、蓋を開ける。途端に良い匂いが鼻腔を擽った。これは醤油の匂いか。それに肉の匂いもする。酷く懐かしい心地になる。


 女性は弁当箱と箸を私達に差し出した。

 私達は逡巡した。受け取るべきなのか、拒否すべきなのか。食べてみたい気も、食べたら何かが起きてしまいそうな気もして、決断出来ない。

 すると、彼女は「人に勧められたものを理由なく断るのは失礼にあたる」と、更に私達の鼻先へ箱を突き付けた。


 彼女の言うことも一理あると思い、私達は渋々受け取った。


 弁当箱の中に入っているのは、馬鈴薯、肉、人参、白滝、さやえんどうで、それらはさやえんどうを除き、全て茶色く煮込まれている。匂いからして、醤油で味付けされている。

 記憶の底から一つの名前が浮かんで来る。この料理の名前は肉じゃがだ。家庭料理の一つで、所謂お袋の味というものだ。

 だからと言って、どうということもない。


 目の前の女性は早く食べろと急かす。

 私達は好き好んでこの場にいる訳ではないが、此処にいなければならない気がして此処にいる。だから、この場に居続けるために、この面倒を解決しておいた方が良いだろう。


 箸の使い方は理解している。

 私達は肉の欠片を摘んで、口へと入れた。


 やや硬めの牛肉だ。噛むと僅かに甘辛い醤油の味と、肉の旨味が溶け合う。次に、馬鈴薯に手を伸ばした。四分の一にカットされているが、口を大きく開くのが嫌なので、それを更に箸で半分にしてから、また口へ放り込んだ。

 柔らかくて、甘い。ほくほくとしている。噛み続けると滑らかになっていく。何につけても、この甘辛い醤油の味が、食材を全部染めてしまっている。


「美味しいかい?」

「分からない。味はするが、それにどのような評価をつければ良いか判断がつかない」


 口の中を変えるために、さやえんどうを食べる。食感がまだ残るくらいの火の通りだ。少し苦味のある感じが、口直しになる。

 最後に白滝を吸い込んだ。つるつるとしたそれは、よく味が染みていた。ご飯と絡めて食べたら良いだろうなと思った。


 そうだ。肉じゃがを食べるなら、白米が必要だ。

 だって、彼の作る肉じゃがはお米と合わせるために、少し味を濃いめに作っているのだから、此処でご飯をよそわないでいつよそうのかという話だ。


「美味しいかい?」


 彼女がもう一度、問い掛ける。


 私は答えた。


「やっぱり、美味しいよ」


 如月がほっとしたように、笑った。それを見て、私も笑った。


「楽號の肉じゃがを、また食べられるとはね」

「やっと会えたな」

「そうだね。ごめん。手間を取らせた」

「まさか、本当に効くとはね」

「美味しいからね。私は肉じゃがに思入れなどなかったのだけど、彼が思い出を作ってくれた」

「本当に千佳だね?」

「嗚呼、そうだよ。記憶の海から浮上した。如月と楽號の肉じゃがのお陰でね」


 今は、私は私だと分かる。

 境界そのものとなり、世界と溶けた私は、自我の境界を見失い、元々持っていた記憶群へと落ちて行った。海の底にいるようだった。私という自我は浮上することなく、その他多くのものと紛れて、唯、終わりを待っていた。

 その間、私の身体は境界という超自然的な人格を与えられていたようだ。オートマティックな動きをするだけのもので、私がまだ私であった時に設定した、一年毎に如月と会うという約束を守るだけの存在になっていたのだ。


「こうしてあなたは戻って来た。このまま、現世へと戻れるのか」

「冠水の町との繋がりは確立しているのかな」

「そのように茜藏さんは言っていたが」


 私が此処までして成したかったこととは、冠水の町と現世を繋げ、行き来しやすくすることだ。それが成されているのならば、これ以上、身を境界に近付けなくても良いのだろう。海にも沈まず、唯、普通の人のように生きるひと時があっても良い。


「よし、帰ろう」

「共に行こう」


 如月が席を立ち、私に手を差し出す。

 白く滑らかな手はいつかと同じだ。私はその手を握り締めて、同じように立ち上がる。少しひんやりとした手が、熱い私の手との境界を際立たせる。


「体調とかは大丈夫なのか」

「不思議なことに普段と変わらない感覚だ。お腹は少し減ってるかもしれない。嗚呼、これ、出口は何処にあるんだ?」

「鍵を使えば、入るのも出るのも自由なようでね」


 如月が鞄から鈍色の鍵を取り出す。すると、目の前に扉が現れた。不可思議な現象ではあるが、如月は行きに見て来たため、それほど驚いた様子はなかった。扉に鍵を挿し込み、捻る。軽やかな金属音が響いて、扉が開かれる。


 開かれた先にあったのは、何処か見慣れた部屋だった。


 白を基調にした、シンプルな部屋だ。必要最低限の物しかない、と思わせて、無駄に大きな鯨のぬいぐるみが飾られている。鯨の頭は少し凹んでいた。

 そして、リビングに置かれた机の上には、ご馳走と言っても良い品数の料理が並んでいた。

 それに目を奪われていると、如月が手で制止する。


「まだ、あまり見ないでやってくれ。おや、姿が見えないな」

「もしかして、此処は私の家なのか?」

「そうだ。嗚呼、いや、今は楽號さんの仮住まいになっている」

「部屋を借り続けられたのか」

「名義は変わらず、あなたの叔父さんだよ。楽號さんは姿が見えないから、幽霊部員ならぬ、幽霊住人だと周りには思われているだろうな」


 よく見れば、キッチン周りだけ備品が整っている。楽號らしいのかもしれない。

 部屋を見渡す。置かれている物が多少変わっているが、私の家だ。今いるのがダイニングで、キッチンと一体化していてる。そして、間仕切りで閉められている奥には寝室があるのだろう。トイレや風呂といった水回りは玄関からダイニングまでの間に集約されている。収納スペースを開けると、私の荷物が綺麗に納められていた。此処は完全に私の家だ。


「楽號さん、何処だ」


 如月が呼び掛けると、やや間があった後に、間仕切りが開かれ、懐かしい顔が現れた。


「失礼。少々、転寝をしてしまいました」

「芒聲さん。どうして此処に」

「どうしてと言われても、私も取り敢えず来いとだけ言われましたので。しかし、あなたの姿があり、机の上にこれだけの馳走があるということは、そういうことなのでしょうね。それでも、私が呼ばれた理由は分かりませんが」

「芒聲さんにはお世話になったのでね、今回、お呼びしたのだよ。それで、楽號さんは何処に行ったんです」

「買い出しと言っていましたね。部屋でじっと待っているのが、性に合わなかったのでしょう。この近くには、死神にも使える店が幾つかあるようですし」


 その会話で、私はうっすらとこのご馳走の意味を理解した。

 彼等は、私が戻って来たことを祝おうとしているのだ。必ず戻って来ると確信していてくれたのだ。黙って消えてしまった私のために、一年間も待って、対抗策を練っていてくれたのだ。

 申し訳なさと嬉しさが胸の内に湧いた。嬉しさの方が優っている。しかし、同時に恐れも出て来た。

 如月はあまり他人を怒らない性格で、そういう時は淡々と詰めて来るタイプなのだが、楽號は怒る。本気で怒られたことは数える程だが、言い知れぬ迫力があるのだ。


 芒聲さんが私をじっと見つめる。


「えっと、何でしょう」

「いえ、無事で何よりだと思っただけです」


 感情を窺わせない口調で呟くと、珍しく眠たげな表情を隠し切れないまま、芒聲さんはダイニングの四脚ある内の一つに座った。


 その時、がちゃりと玄関の方で音がした。扉の開く音の後、聞き慣れた声が響く。


「ただいま」

「おかえりなさい」

「如月がいるってことは、もう終わったのか」


 そう言いながら、ダイニングに出て来たのは、スーパーの袋を手に持った楽號だった。彼はいつかと同じ顔のままで、いつかと同じような白いシャツを着ている。如月も芒聲さんもそうだが、年を取っていない。一年が経過していることを、まだ実感していないが、彼等を見ていると、まるで昨日の続きのような気がして来る。


 楽號は私を見て、動きを止めた。それにつられるように、私も彼を見て、動けなくなった。


 間に横たわる沈黙が、身を刺すように痛い。針の筵とまではいかないが、肌の表面がぴりぴりとする。

 私は耐えきれなくなり、しどろもどろになりながら、話し掛けた。


「えっと、ご無沙汰しています。その、この度、戻って来れました。大変ご迷惑をお掛けして、申し訳ないと思って」

「嗚呼、本当にね。大迷惑だ。それに、君は何遍言っても分かってないんだなということが、よく分かったよ。冠水の町で僕が君と千鶴に何て言ったか、覚えてないんだろ」 


 冠水の町での楽號の発言を思い返す。ずっと記憶の海に沈んでいたからか、自分の記憶が埃を被っているようで、なかなか目的のものが見付からない。

 しかし、それらしいものが不意に手元に戻って来た。恐る恐る口に出してみる。


「勝手にいなくなるな的な、やつですよね」

「そうだよ! いなくなるなよ。いなくなるにしても、事前に一言あるのとないのとじゃ、全然違うだろ。いや、そもそもいなくなるなって話なんだけど」


 話しながら、楽號はダイニングへと入り、袋を床へと置いた。中に入っているのはペットボトルだ。水滴が表面を覆っている。

 そういえば、暖房がついていないのに、今日は寒くない。春になったのだろうか。


「本当に、本当に肝が潰れるかと思ったんだ。また、失うのかと怖くなるんだよ。僕だけじゃない、皆がそう思うんだよ。分かる?」

「いや、本当すみません。でも、わざとじゃないんです。今回の件は、もうちょっとで出来ると思ってやってみたら、許容量を超えてしまったみたいな、ある種の事故みたいなもので」

「言い訳は聞かない」


 取り付く島もなく、楽號は腕を組んで仁王立ちをする。目元は険しく、睨んでいるかのようだ。

 考えれば分かることなのだ。楽號と母がいなくなった時、或いは楽號が連行された時、自分がどういう気持ちになったのか。きっと、それと似たものを楽號も感じた筈なのだ。

 私は頭を下げた。


「……本当にごめんなさい。大切な人がいなくなる恐怖を私も知っています。考えが足りなかった。申し訳ない」

「全くね。……でも、戻って来てくれて良かった。戻って来る筈だと分かっていても、こうして目の前にいる姿を見るまでは、何も安心出来なかったから」


 そう言って、楽號は私を抱き締めた。


「嗚呼、うん。君は此処にいるな」

「はい。います」

「もう、どっかに行かないでくれ。勝手に消えたりしないでくれ」

「肝に銘じます」

「なら、よし」


 楽號の体が離れる。顔を見ると、其処にはいつもの楽號の顔があった。

 如月が一歩、此方に近付く。


「という訳で、一件落着だな。千鶴さんと叔父さん達には、後日、改めて会いに行くってことでよいかな」

「君、多方面に迷惑掛けたからな。しっかりそこはやっとけよ」

「はい、直ぐに連絡するし、会いにも行きます」

「では、此方でそのように手配しておきましょう」

「じゃあ、無事解決ということで、千佳おかえりパーティを始めようじゃないか。ふふ、パーティなんて、いつかの餃子パーティ以来だな」


 如月が嬉しそうに言うと、先程までの硬い空気が和らいだ気がした。

 私は席に座らされる。楽號が袋の中の飲み物を取り出し、お茶を飲む人と訊いて来たので、私は手を上げた。如月は皿を配ると、缶のサングリアをいそいそと開け、グラスに注ぐ。芒聲さんは自分のグラスにスパークリングの日本酒を注ぎ、働く二人を見遣った後、私の視線に気付くと、そっと微笑んでくれた。


「グラスを持ってくれ」


 如月の言葉に、三人がそれぞれのグラスを掲げる。

 それを見渡した後、如月はこう続けた。


「今にして考えてみても、この縁とは実に奇妙なことだ。そうでしょう。だって、私達はてんでばらばらで、接点なんて見当たらないのだから。でも、こうして結ばれ、時間を重ねられた。そのことを喜ばしく思う。そして、何より、大切な友人が戻って来て、また関係が続くことがとてもとても嬉しい。では、その喜びを分かち合うために、乾杯」

「乾杯」


 口々にそう言って、私達はグラスをぶつけ合う。軽やかな音が部屋に響き、パーティが始まる。

 ローストビーフに、筑前煮に、餃子に。和洋中が揃い踏みの卓で、私はより腕の上がった味に舌鼓を打つ。変わらぬ友の食欲に懐かしさを覚えたり、初めて楽號の手料理を食べると思わしき芒聲さんの率直な褒め言葉に、まるで自分のことのように誇らしく思ったり、本当は言われて凄く嬉しいけど、それを表面に出さないように努める楽號に笑ったり。いつかと同じような、それでいて違う時間に、私は漸く自分は戻って来たのだと実感した。そして、記憶群のように、私の内側に入って来ていなくても、彼等が自分の中でも生きていることを知った。


「もっと食べなよ」

「食べてます」

「ほら、おかわりするだろ?」


 催促をされて、茶碗を差し出す。彼は受け取ると、手際良く小さめに盛って、私へと返した。


「ありがとうございます」

「たんとお食べよ、千佳」


 楽號が私を呼ぶ。唯、それだけのことなのに、そこに行き着くまでにどれ程時間が掛かったのだろう。もしかしたら、戻って来なかったかもしれない。もしかしたら、出会わなかったかもしれない。

 そう思うと、今、こうして言葉を交わし、笑顔が咲く時間のなんて素晴らしきことか。奇跡だなんて陳腐な言葉でしか表せられないなんて、己の語彙力のなさを猛省する。


 彼等は生きている。私も生きている。いずれ過ぎ去る今という時間を、私は必死で繋ぎ止めようとしている。だが、それは指の隙間からするりと抜けて、過去になる。


 明日になれば、今日のこの宴は、私の記憶の中の出来事になるが、それでも、きっとこんなにも鮮やかに思い出せる。忘れたくないと思える。目を閉じて思い出せば、彼等の様々な表情が、声が蘇るのだろう。


 それが私の生なのだと、失いたくないと感じているのだと、だから、簡単に自分自身を手放してはならないと、賑やかな宴の席で私は思い至った。





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