第73話 約束

 夢現、まろびつ落ちた先。


 此処は何処でもなく、同時に何処でもある。空間と空間の狭間、つまる所、境界の中だ。それ故に、私達は何処にもおらず、そして、何処にでもいる。


 貴方が此処にやって来たのは、約束を守るため。私達が記憶の海より浮上したのも、約束を果たすためだ。

 私達にとって、その約束は大したことではない。だが、この存在そのものに設定されているがために、私達はそれに従うしかない。かつて私達は自らに課した。一年おきに、貴方に会って話すことを。自我が霧散した今でも、その約束だけは身の内に残されている。

 数多の記憶に埋もれず、確固たる存在でもって、その約束はある。もうありはしない自我が其処までして、守りたかったものなのだろう。美しいことだ。


 等しく価値がなく、等しく価値のある記憶群は、どれも優位性を持たない。全て等しく、唯、沈んでいるもの。かつての自我とは、それらを取りまとめいた主人格のことで、私達の方向性を決定していた。

 だから、自我なき後も、その設定が活かされている。


 つまり、私達は此処で貴方と話をしなければならない。


 何者でもあるが故に、もう何者でもなくなった私達だが、物語ばかり沢山揃えてある。もしや、此処に消え失せた物語があったのやもしれない。しかし、それも最早溶け合い、判別がつかない。


 さて、では、ある女性の話でもしようか。忘れ難い人の話だ。


 彼女には想い人がいた。しかし、それが周囲に知られると、彼女は追い詰められることになった。

 その恋が所謂、一般的なものとは異なっていたからだ。私達にはそれがどう特異なことなのかは分からない。恋愛感情を持てば、それは恋になるだろう。そこに性別が関係あるとは思わない。

 しかし、周りはそうは思わなかった。あることないことを吹聴して、多くのレッテルを彼女に貼り付けた。だから、彼女はその苦しみから逃れるために、自ら高台から飛び降りた。


 彼女の魂は、死神に回収されることもなく、その場所に留まり、同じ毎日を繰り返していた。

 毎日飛び降りていたのだ。ルーティンとして。

 私達が彼女をちゃんと見たのは、そのルーティンが行われた時だ。潰れた肉塊が逆再生のように、人の形へと戻って行くのを見たのだ。


 そこで、私達は……。


 貴方はこの物語を既に知っているのだろうか。あまり興味があるように見えない。

 別の話にしようか、否、そうではない。


 貴方は何か話したそうな顔をしている。

 


 ────────────────────



 そうだ。話したいことがあるんだ。


 一年前の春、あなたは消えた。

 あまりに唐突であったから、また、何かの事件に巻き込まれたのかと思った。でも、楽號さんも誰も知らないと言うから、きっとそういうものではないのだろうと分かった。


 見るに、あなたは境界そのものになってしまったのだね。


 慌てる死神達に、あなたが話した夢のことを伝えたよ。楽號さんは怒り心頭に発すると言った様子だった。普段は物腰柔らかだけど、彼は怒るととても怖いんだね。


 彼等が調査をしてくれて、結果、冠水の町は私達のいる現世へと繋がったことが分かった。出入りには条件があるが、簡単なものであるから、神様に門を返した後、行く手段もなかった時に比べれば、大分行き来しやすくなったと。道は作られたんだ。でも、安全に行き来するには条件が幾つか必要だから、今、それを皆で話し合っている所さ。まだ、混乱が大きい印象だけど、前には進んでいるよ。


 そうだよ。あなたの望みは叶えられた。


 私も彼方側を見せて貰ったよ。

 とても美しい場所だった。黄昏の世界はひたすらに美しくて、其処があの世だなんて思えなかった。いや、現実味のない美しい場所なんて、あの世か異界かに決まっているのだから、あの世だと思ったと言うのが、正しいのだろうね。でも、私は、あの場所は地に足のついた生命が、ちゃんと根付いていると感じたから、やっぱり、あの世とは思えなかったよ。

 茜藏さんから聞けば、本当にもう彼処はあの世ではないとのことでね。新しい生命が生まれているらしいんだ。その命達は、形容し難い者達と呼ばれているようだ。

 私から見ると、概念を元に生まれた者といった印象だが、まだまだ分からないことが沢山ある。もし、あなたがいたら何と言っていたろう。喜んだか。驚いていたか。もしくは、怖がるか。でも、きっと最後には受け入れるのだろう。そういう人でしょう、あなたは。


 こないだ、雪が降ったんだ。

 天気予報が此方も少し積もるだろうと言っていてね。実際、少し積もったんだ。季節外れの積雪だった。


 雪が降ると、あの日の約束を思い出す。

 あなたが鍵を渡してくれた日だ。


 私が今までで一番強がって、それでも足りずに情けない姿を見せた日だよ。嗚呼、これは忘れていいな。余計なことを言った。


 約束の日の今日、門を潜った先にいたのはあなた。正しくはあなたの皮を被った、かつてあなただった者なのかな。

 境界に溶け込み、自我を見失ったようだけど、その姿はいつかのままだ。だから、私はまだ希望を捨てずにいられる。

 さっきの話を聞いた限り、記憶だってなくなっていない。話す内容だって、あなたの影響を色濃く感じられる。ならば、あなたはまだ其処にいる。


「記憶が自我の根拠になるならば、数多の記憶を持つ私達の人格は複数あることになる」


 私の予想では、あなたの人格は核となる人物の記憶によってのみ成り、その他の記憶とは一線を引いていると考えている。参照出来るデータが多いだけで、メインは一つだけだと。

 先ず、あなたが在り、その次に境界を通じて他者に触れたのだ。そして、今はその境界線を見失っている。


「それは、つまり、主人格がその他大勢と同化したということであり、引かれた線がなくなったなら、人格の核が多岐に及ぶことを意味するのではないか」


 でも、完全に同化した訳ではないでしょう。記憶というと輪郭が不明瞭な印象を受けるが、あなたの中にある記憶達は人物毎に区分されている筈だ。これは本人から聞いたことさ。

 ならば、あなたはあなたとして、まだ残っているのでしょう。分たれているのならば、核は核としてまだある。どれが核なのか見失っているだけだとも。


「溶け合ったのだ。暗闇の中では、誰もが輪郭を失うように、私達の中は混沌としている」


 本当にそうだろうか。私はそうは思わない。

 だって、あなたはさっき、達さんのことを話していた。達さんは門の内側には行かなかった。だから、それはあなたの記憶なんだ。あなた達ではなく、あなたの記憶なのだよ。それを忘れ難いと思ったあなたは、まだ、其処にいるのでしょう。


 人格というものを、あなたは記憶の蓄積から作られたものだと認識しているようだが、私は少し違う考えだ。

 例えば、以前のあなたは幼少期の記憶がなかった。記憶に穴がある状態だ。でも、あなたの人格に穴があったとは言えないだろう。意思薄弱とは思ったがね、でも、確かに自我というものが芯にあったのだよ。

 更に言うなら、幼い頃の記憶は往々にして忘れてしまうものだけれども、私達はちゃんとこうして立っている。嗚呼、今は座っているけども。言いたいことはね、万人がそうであるのだから、記憶を元にすることを正とするなら、自我というものには穴があることが前提にならなければならない、ということだよ。


「ならば、万人の自我には穴があるのだろう」


 完璧な自我なぞ、何処にもないものだけれど、自我に穴があるってどういうことだろうね。自己の確立が出来ていないってことかな。様々な形はあるだろうから、穴がある自我もあるだろうが、万人が万人、同じように欠けているとは思わない。これは経験則だがね。

 私が思うに自我とは、私は私であると考えられたら、其処に既にあるものだと思っている。思考を始めている時点で、クオリアを感じている時点で、私という自我は実在するのだ。我思う、故に我在りってやつさ。

 勿論、それは他人の目には映らないものだから、私にはあなたに自我があるかの判別はつかないとも。哲学的ゾンビのように。

 でも、あなたには自我が残っているのだと、私は感じている。実に主観的な観測だ。願いと言っても良い。だがね、問答を繰り返す毎に、その考えは強まっているよ。

 だって、あなたには忘れたくないと思う記憶があって、人の想いを美しく感じる感受性があって、そして、約束を守る律儀さがある。


 此処らでまとめておこうか。

 あなたはまだ其処にいる。

 理由としては、あなたがあの時のままの姿であること、そして、記憶が人物毎に分かれていて、あなたの記憶はあなたの記憶として残っていること。あくまで、他の記憶とは参照出来るデータでしかなく、核はあなたのままだ。それは、発言からして、あなたの元の思考が強く反映されている所から分かる。

 思考が強く反映されているということは、あなたの自我が其処にあるということ。境界と記憶の海に溶けたとしても、まだ、掬い上げられる程のそれが残っている筈だ。


「貴方の言うように、かつての私が身の内にいたとて、切り離せなければ、意味はないだろう。海に沈んだままでは、会話も出来ない」


 正直な所、境界そのものになるってことを全部理解しているとは言えないんだ。だって、この世に存在している万物は、全て境界線を持つものだ。つまり、あなたは全てのものと接点を持っていることになる。途方もなくて、想像が及ばないよ。そこら中にあなたがいるんだと思うと、変な感じだ。

 でもね、それは万物がある限り、あなたは消えないってことでしょう。


「そうだ。私達は永遠のような時を過ごすだろう。既に終わりを迎えているにも関わらず。しかし、それもいつかは終焉を迎えるものだ」


 その苦しみも、私には分からないものだ。私は唯の人間だから。全ての物が必然的に終わりを迎えることは分かっていても、山や大地の終わりを想像出来ないんだ。

 分からなくても、こうして話せるのは良いことだ。残念ながら、私達の目的は話すことではなく、その先にあるものだがね。


「話をするために来たのでは?」


 会話は必要だ。判断するためにね。

 だが、今日はね、あなたを呼び戻すために私は来たのだよ。


「呼び戻す?」


 そうさ。友達に会いに来たんだ。

 沢山の人の代わりに、私が来たんだ。


 あの時、あなたの進む道を私は応援した。それは今も後悔していないよ。だって、あなたがあなたらしく生きるために必要なことだと思ったからだ。

 だからね、これは私達の我儘なのだよ。役目はもうお終い、だから、帰って来て欲しい、というね。


 ほら、これをご覧よ。

 境界に溶け、数多の記憶の海に沈むあなたをサルベージ出来るように、彼が見繕ったとっておきのアイテムだ。

 これを使えば、あなたはきっと、走って此処に戻って来る筈だとも。





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