第73話 春の欠片

 店を出ると、ちらちらと白いものが空から降っていた。周りの人も訝しげに空を見上げている。


 私は近くに降って来たそれに狙いを定めて、上向けにした掌の上に置いた。それは白い結晶だった。ほんの僅かの間に掌の熱で溶け、水となる。


「雪だ」


 見上げると、灰色の暗い空から、ひらひらと舞うように粉雪が落ちて来ている。

 予報にはなかった筈だが、道理で寒い訳だ。私は上着のボタンを閉めて、ポケットに手を突っ込んだ。


 後から店を出た如月も雪に気付いたのか、「おお」と声を漏らした。


「やけに冷え込むと思ったら、雪とはね」

「春はまだ先だな」

「そうでもないさ。この和歌は知っているかな。冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ。というものさ」

「雪が花だと?」

「そうだ。雪を花に見立て、雪の降る雲の向こう側は春になっているのではないかと言っている歌だね」

「花か」


 私はもう一度、天を見上げる。

 時間帯もあって、雲は暗く厚く、神秘的な雰囲気は感じられない。でも、見通せないその先を夢想した。

 太陽に近いからきらきらしく眩しくて、暖かいのだ。其処には幾つも木が植えられていて、どれも満開の花をつけている。薄い桃色の花が風に散らされて、舞いながら地面へと落ちて行く。近くを流れる瀬々は花弁に埋め尽くされて、桜色の川が出来上がる。

 その散り行く最中に、花びらが雲の下へと落ちて行く。舞うように、流れるように、それは私の手へと届いた。そして、今は溶けて、手を濡らしている。


 私は春に触れたのかもしれない。まだ、此方側には訪れていない春の欠片に触れたのだ。


「空寒み花にまがへて散る雪にすこし春ある心地こそすれ。というものもあったな」

「清少納言か。藤原公任とのやつだな。因みに、先程の和歌は清少納言の父のものさ」

「繋がりがあったのか」

「千年前の人々も、今の私達と同じように、春を待ち侘び、その予兆を見付けようとしたのかもしれないな」


 此処に彼がいたなら、この景色になんて言葉を落としたろう。或いは、彼女がいたなら。


 私は雪が降ると少し気が塞ぐ。地元はあまり雪が降らない地域だった。

 空は暗く、空気は寒くて、交通機関は混み合い、その非日常感は得難いものだけど、人々は何処かぴんと糸が張っているようで、どうにも落ち着かない。自分が日常から弾き出され、一人きりになったような気になるのだ。怒涛の電車を降りた後に、音を飲むような静かな雪道でとぼとぼと歩くと、濡れた爪先の冷えが、胸の辺りまで上って来るようで、心の中が言い訳めいた言葉に溢れて詰まりそうになる。

 反して、翌朝は、とてもすっきりした気分になる。朝日を受けて白く輝く雪や、澄んだ冷たい空気は、心機一転、しゃきりとした頭にしてくれる。


 雪が多く降る地帯からすれば、この繊細な粉雪は、春の訪れを示すものだったのかもしれない。頼りなげにはらはらと降るその様は、実に儚げで、つい手を伸ばしたくなる。


 店の側にある電柱に集まりながら、私達は暫く空を見上げていた。火照った頬に花が落ちては流れて行く。少しずつ大きくなる粒は足元へと積もり始めているだろうか。浮かぶ白い息の塊は、解けるように霧散して、世界と溶け合う。

 如月が手に息を吹き掛ける。白い肌はより一層、白さを増して、雪に紛れてしまいそうだった。


「寒いね」

「嗚呼、寒いとも。でも、この景色をもう少し見ていたい気持ちだ」


 ふと、思ったものが口をついた。


「最近思うんだ。私はこの世界に何を残せるのだろうと」

「随分と世を儚む考えじゃないか」

「この雪のように、私の人生も容易く溶けてしまうものだと思うからね。今はまだ、積もっている最中かもしれないけれど。溶けた後に、何が残るだろうと」

「雪解け水は恵みを齎すものじゃないか。それに、雪が溶ければ、草木が芽吹く。蕗の薹とかね。残るものはあるさ。でも、そういうことじゃないのだね」


 私は黙って頷く。そして、乾いた唇を開いた。


「私はきっと、彼方側に行くだろう」


 私の言葉を如月は何も言わずに聞いていた。天に目を向け、その後、私へと優しい眼差しを向けた。

 私は、妙に澄んだ心の内から言葉を汲み取り、口の端に乗せた。


「境界性は増すことはあれど、減ることはないだろう。私は私だけど、私以外の皆も自分の一部なんだ。それがある限り、私という存在は個としてありながらも集でもあるという、特殊な在り方をせざるを得ない。そして、異なる二つの世界を持つならば、其処には境界がある筈なんだ。私は私の中の記憶達を手放すつもりがないから、境界性は残り続けるんだ」

「そうかい」

「きっとそれはいつか、私を見失う原因になるんだ。私は世界と溶け合うんだよ。そして、消えるんだ」


 予感めいたそれを口にしたのは、今が初めてだった。

 如月は沈思して、目線を落とした。そして、白い吐息混じりに言葉を垂らした。


「あなたは境界そのものになってしまうのか」

「そうだよ、そこまで同化してしまえば、きっと自我は保てない」

「そこまでして、あなたは何を成したいんだ」

「冠水の町と此処を繋げたいんだ」


 門の向こう側にある、冠水の町。

 私は特殊ケースであるが、何処とも繋がらず独立して存在しているあの場所は、基本的に何処かと結び付けづらいものだ。しかし、彼女達が理想としていたのは、何処でも町へアクセス出来る状態だ。

 一つ一つ入口を設定するのが、順当なやり方なのだろう。しかし、それでは時間が掛かるし、決まった此岸でしか行き来出来ない。

 だから、私が役に立つ。私が境界そのものとなり、冠水の町を覆う境界に作用させ、何処にでも繋がるように細工をする。そうすれば、問題は解決する。


「離れ離れになる人を見るのが、もう嫌なんだよ」

「それは人として生きる道を、諦めることにならないか。後悔はしないかい」

「何を選んでも後悔するよ。だから、私は私の納得する道を進みたいんだ」


 如月の瞳が揺れる。思慮深く、澄んだその瞳は、瞼によって塞がれる。上下の長い睫毛が合わさって、その密度を増す。

 暫しの沈黙の後、彼女は目を開く。そして、いつもと同じ眼差しで私を見た。


「あなたは何処までも行ける筈だよ」


 深みのある赤のリップが塗られた唇はこう続けた。


「そして、あなたが消えることはない」

「どうしてそう言えるんだ」

「私があなたを憶えているからさ」


 なんてことないと言わんばかり、彼女は平然と返す。


「あなたは境界そのものになる。つまり、私が私でいる限り、世界と私の間にはあなたがいるってことだ。境界線ってそういうものだろう。なら、私は常にこの世界にあなたを見る。この世界にあなたが在るのを知る。そして、私はあなたという個人との思い出を忘れたりしない。私の世界にあなたがいるんだ。ほらね、かけはし千佳ちかは消えないんだ。あなたの人生は、雪のように溶けても、その後に残り続けるものだよ」


 簡単な話だとも、と言って彼女は笑った。

 その軽い口振りに、私の心も軽くなった気がした。恵みのように暖かく、福音のように喜ばしい言葉だった。今、気付いた。私は勝手に終焉を自分で設けて、何処か追い詰められていた。そんな私に救いを齎すような、その先へと繋がり続けることを諭してくれるような言葉だった。顧みれば、彼女には救われてばかりだった。


「きっと、楽號さんは怒るだろうけどね」

「本当に怒られるだろうな。それもこっぴどく。嗚呼、今、容易に思い描けるよ」

「でも、私は応援するとも。寂しいけれどもね。出来れば、あなたといつまでもランチをしたいさ。でも、納得出来る道を生きて行く方が大事なのだと思うから、それはきっとあなただけが進める道だと思うから、だから、私は、私は」


 不意に如月の眉が顰められる。形の良い唇が真一文字に固く閉ざされる。俯いて、緩い雪に埋まり始めた足元へ、真っ直ぐ視線を向けている。

 黒髪の隙間から覗く小さな耳は赤く染まっている。


「如月」

「これじゃ駄目なんだ。私は先輩なのだから。笑顔であなたを見送らなければならないんだ」


 表面張力を超えた雫がぽとりと落ちた。雪に溶けたそれはみぞれとなった。だから、きっとこれも溶ければ、恵みを齎すだろう。


「如月、あのね。無理をしないで欲しいんだよ。ありのままで良いんだよ。私は貴方が好きなんだから。それは貴方が先輩だからじゃないんだ。如月が如月だからだよ」


 俯いていた彼女が顔を僅かに此方に向ける。髪の毛で隠れているが、隙間から覗く黒目は潤って、艶々としていた。


「ありがとう。あなたに比べて、私は全然駄目だ。平気そうな振りをしてみたけど、けど、あなたに会えなくなるんだと思うと、寂しくて堪らないんだ」


 鼻声でそう打ち明けると、手袋で目元を拭う。耳だけでなく、目元や鼻も赤くなっていく。白い肌にその赤みは際立っていく。


「何が来たって、受け止めて背中を押してやると決めていたんだよ。暗い顔をするなら大したことないって元気付けて、明るい顔をするならその調子だって言って、応援してあげたいと思っていたんだ。それは本心だとも。でも、それ以上に、あなたのいない一人のランチを思い描いてしまって、嗚呼、寂しいと、離し難いと、そう思ってしまったのだよ」


 私は彼女の背をさすろうと腕を伸ばして、途中でやめた。中途半端な腕を元の場所でだらりと垂らす。


「あなたはこの世界にいるよ。いつまでも、私が観測をやめない限り。でも、いるだけだ。私はあなたと話がしたいんだ」

「……私もだよ。でも、私は進むんだ。嗚呼、そうだね。じゃあ、約束をしようよ」

「約束?」


 私の提案に、如月が不思議そうな表情を浮かべた。私は手の内側で生成した鍵を差し出す。境界という属性を物理的に収束させたものだ。


「また会って話すための約束。貴方にこの鍵を渡すから、そうだな、五年に一回、門の鍵を開けて入っておいで。そこに私の一部を置いて行くから、話をしようよ」

「それはあなたなのか」

「ちょっと足りない部分があるかもしれないけど、私を構成するものだよ」

「……一年に一回にしよう」

「分かった」


 如月は戸惑った様子で鍵を受け取る。

 何の面白みもない、銀色の簡易な鍵だ。何処かのマンションの鍵と言われても分からないような、良くある形をしている。


 そんな鍵を如月はぎゅっと握り締めて、雫を溢しながら笑った。


「また、会えるならいいさ。会えない時間は、あなたが好きそうな話を仕入れて、一年に一度の会話に備えよう。待っていられるさ、そのくらい」

「私も、きっと誰も見たことない景色を見るだろうから、その話をしてあげよう」

「仲良さそうだな、何の話?」


 唐突に会話に割り込んで来る声があった。

 聞き覚えがあって、待ち望んでいたその声が聞こえた時、咄嗟に体が動かなかった。目の前の如月が驚いたように目を見開いて、口を手で覆った。


「もしかして、如月のことを泣かしていたのか? そういうの良くないぜ」

「あ、あれ」


 如月が何か言い掛けるが、言葉は途中で途切れた。それに繋げるように、私は一つの言葉を舌に乗せた。


「楽號」


 漸く、名前を呼べた。

 漸く、顔を横に向けられて。

 漸く、私より少し高い位置にある顔へ、目を向けられた。

 青緑の欠片が散る灰色の瞳が、私を捉えている。


「楽號」

「うん」

「楽號だ」

「そうだよ」

「漸く、会えました」

「ちょっとばかり、時間は掛かったな」

「全然ちょっとじゃないですよ。一年経ってるんですよ。直ぐに帰るって言ってたじゃないですか」

「悪かったよ。色々やることがあって、それを全部終わらせないと此方に来られなかったんだ」


 さっきまで我慢出来た、大きな感情達が更に膨れ、喉にせり上がろうとしている。

 それは水となって、眼から溢れそうになる。思いのこもった雫は霙となる。暖かくて、頼りなくて。溢れれば溢れる程に詰まって苦しい胸を少し楽にさせるのだろう。だが、それを堰き止めながら、彼を見る。

 楽號は少し困ったように微笑みながら、私の頭を撫でた。


「実はまだ解放させて貰えてなくてね。今は、監視付きで短時間なら好きな所に行っていいって時間なんだよ。ほら、其処に芒聲が隠れてる」


 指差す先を見遣れば、黒い影のような芒聲さんが建物の陰の中に立っていた。軽く会釈をすると、彼方も小さく頭を下げた。


「すっかり僕専任みたいになってる。えーと、取り敢えず、前科はつかなかったよ。やることあるから、完全にこっちに戻れる訳じゃないけど、これからはちょくちょく帰れる筈だ」

「いつまでいられるんですか」

「朝までだよ。夜明けが来たら行かなきゃ。だからね、そこまで時間に余裕がないんだ。もう二十一時だからね。そこで訊くけど、君は僕に何をして欲しい?」


 頭の中がまとまらない。

 記憶達が溢れ返って、言葉がひっくり返って、もうごちゃごちゃになってしまっている。

 まるで更に散らかすみたいに、それらをひっくり返して行けば、一つ、見つけた。それは始まりの記憶だった。


「今日はお祝いなんだろ」

「肉じゃが」

「肉じゃが?」

「楽號の作った肉じゃがが食べたいです。最高なやつ」


 私の幼稚な要求に、楽號は軽く笑った。そして、「うんうん、なるほどね。じゃあ、取り敢えず、スーパーに行こう。夜までやってる所あっただろ」と言って、私の手を取った。


「如月も来いよ。僕の肉じゃがは最高らしいから」

「では、お相伴に与ろうかな」

「全く、二人とも、こんなに寒いのに、顔面に水を撒き散らかして、風邪でも引いたらどうするんだ。ほら、顔を拭け」

「わっ」


 突然、ハンカチで顔を拭かれる。


「後、成人おめでとう」


 そう言って、楽號はずんずんと進む。まるで自分の顔を見られないようにしているみたいだ。

 私は両手で紺色のタオルハンカチを握り締め、顔が綻ぶのを感じながら、置いていかれないように小走りになったのだった。




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 そして、暫くの後、あなたは消えた。






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