第71話 ホップでビターなスター
「いやぁ、めでたいこととは実によいものだね。自分のものだけには限らず、他人のそれでさえこんな高揚した気分になるのだから、毎日でも起きて欲しいくらいだ」
上機嫌な如月が柔かに私に言う。
待ち合わせ場所の駅前で無事に合流した私達は、祝杯をあげるために、近くの居酒屋へと入っていた。如月が選んでくれた店で、私の財布に優しく、且つ味もお墨付きという。
因みに、最初に墨を付けたのは、如月の先輩にあたる望月先輩だと言う。
如月が行く店々も望月先輩が教示したものが多くあるらしく、大学付近の店は全て網羅していたのではないかと囁かれている人物だったらしい。今は残念ながら卒業してしまっているから会うことは出来ないが、彼が残していったグルメレポートは、平安文学ゼミ内で飲み会会場の設定の参考に今も使われているという。
人格も優れた人物とのことで、如月も手放しに褒め称える数少ない人だ。
「毎日だと、慣れてしまってめでたさが薄れてしまうんじゃないか」
「多種多様なサプライズじみた慶事なら飽きも来ないだろう。自分で言っておいてなんだが、そんなにバリエーションあるだろうか」
「日々の小さな幸せを噛み締めるという意味では良いだろうけど、祝うことではなく、見付けることが主目的になりそうだ」
「それはよろしくない。本質を取り間違えると、大きな過ちを犯しがちだ。うん、何事も程々がよいものだね」
その時、店員さんが飲み物を持って来て、私達の卓へと置く。
「ハイボールと生ビールです」
「嗚呼、ありがとうございます」
「いよいよだな」
如月がハイボールのジョッキを片手に持ち上げる。こうして如月と並んで見ると、ジョッキは本当に大きいなと思う。ちまちま注ぐのが面倒な時に、家にあると良いかもしれない。
取り敢えず、お酒と言ったらという考えでビールを頼んだが、飲み切れるだろうか。水滴の付いたグラスには、何処かのメーカーの星形のラベルが印刷されていて、何となしに誇らしげに見えた。
如月が私に視線を送る。これから行われることに、私は少し面映い気持ちを覚えながら、同じようにグラスを持ち上げた。ぷるぷると震える腕で掲げ続けながら、如月が訥々と語り出す。
「ええと、こういう時の音頭は慣れないな。そうだね。シンプルに行こう。成人、おめでとう。あなたの前途が明るく拓かれていることを願って、乾杯」
「乾杯」
カツンとグラスがぶつかる涼やかな音が、賑やかな店内に響く。
そして、一口、ビールを口に含む。その瞬間、衝撃が走った。
それが顔に出ていたのか、如月が私を見ながら、からからと笑う。
「苦い。なんだこれ、苦い」
「はは、絶対そうなると思っていた」
「分かってて黙ってたのか。いや、選んだのは私だから、私が悪いのだけど。それにしても、何故、大人はこんなものを美味しそうに飲むんだ」
「今は不味いかもしれないが、あなたにもこれが美味しいと感じる時が来るんだよ。ビールの美味さは少し歳を経らないと分からないものでね。取り敢えず、そのビールは私が飲むから、あなたは何か別の物を頼むといい。カシオレとかおすすめしておこう」
正直に言って、不味かった。苦味がまだ舌の上に残っている。水で流してみるが、どうにも残っているような気がする。
「甘さが控えめのがよいなら、ジントニックとかもおすすめだな。私も成人したての頃はよく飲んでいたよ」
「苦味が流せるものが良いな」
「なら、カシオレだな。あ、すみません。カシオレ、一つください」
通りすがりの店員さんに注文して、如月は私の前のビールを自分の方へと引き寄せる。
「如月にはビールの美味さが分かるのか」
「どうだろうね。毎日飲みたいとは思わない。でも、嫌いじゃないし、飲むことに抵抗はないかな。ふふ、私も初めに飲んだ時はあなたと同じ反応をしたよ」
「卵焼きと焼き鳥盛り合わせ、梅きゅうです」
「ありがとうございます」
次々と料理が机に置かれる。
「この塩のももが美味しいんだよ」
如月が焼き鳥盛り合わせの端にある、他のと比べて白っぽいものを指差す。
盛り合わせに含まれているのは、もものタレともも塩、つくねにねぎま、皮だった。タレはつやつやとしており、橙寄りの店内照明のお陰もあって、その艶が実に美味しそうに見える。つくねは団子を三つ刺したシンプルな物で、これにもタレが掛けてある。とろりとしたタレが焼き目に引っ掛かりながらも、今も皿へと落ちて行く。
ねぎまもタレがつけられていて、肉とはまた違う輝きが葱にある。少し焦げた部分があり、そこについたタレが実に食欲を唆るのだ。
もう一種類のももと同じく、鶏皮も塩味なのだろう、茶色くなく、その上にかけられた白い塩が見える。
「じゃあ、もも塩を先ず食べようかな」
焼き鳥は二本ずつある。
串の先端にある鶏モモを二個くらいを歯で外して、咀嚼する。
先ず舌に来たのは、恐らく表面についていた塩のしょっぱさだ。その後、肉を噛むと甘い脂が滲み出し、それに塩味が混ざり、丁度良い塩梅になる。噛めば噛む程、旨味が増すようだ。肉もしっかりとしていて、焼きの技術だろう、硬くもなく、生っぽさも残っていないのに、何処かぷりっとした食感がある。
「これは美味しいな。後味がさっぱりとしてるから、何本でもいけるな」
「そうだろう。そうだろう。自分が美味しいと思っている物を、他人も美味しいと感じてくれると、なんか嬉しいな。嗚呼、勿論、タレも美味しいよ」
私はつくねに手を伸ばす。
つくねとミートボールは同じ物という認識で良いのだろうか。ハンバーグは何処からハンバーグと名乗れるのだろうかと、関係ないことを考えながら、一粒口に入れる。
「ん。軟骨入りだ」
「こりこりしていて、それもいいのだよ」
如月も同じく、つくねに手を伸ばす。
柔らかい挽肉の中に、歯応えのある軟骨が散らばっている。細かく砕かれているためか、食感のアクセントにはなるが、いつまでも口に残ったり、悪目立ちすることはない。癖になりそうだ。
「美味しい。此処の焼き鳥美味しいな」
「カシオレです」
「ありがとうございます」
確認のために、早速飲んでみる。
甘く慣れ親しんだような味だ。あまりお酒感はないが、これなら飲めそうだ。
「あなたがお酒を飲むのは、今日が初めてだったな」
「そうだよ。どうせなら、成人の日に初飲みしてみたかったんだ」
「それで感想はどうかな」
「初心者にはハードルが高かった。でも、これは美味しいよ」
「色んな味のものがあるから、是非、好みのものを見付けてくれたまえ」
「如月の飲んでいるのは、どんな味がするんだ」
「味か」
結露したジョッキを傾けると、如月の細い喉がこくりこくりと動く。味わうように瞼を閉じ、最後にもう一度、口に含んだものを飲み込む。
「ふむ、味か」
「味ないの?」
「いや、あるんだが、どう説明したものかな。ウイスキーの炭酸割りだから、多分ウイスキーの味なんだが、こう化学的な味な気もする」
「化学的な味」
いまいち味の説明を理解していない私へと、如月はこれ以上説明が出来ないとばかりにジョッキを差し出した。半分程残ったハイボールの表面では、底から浮かぶ炭酸が弾けていた。
「飲んでみるといい」
「じゃあ、失礼して」
好奇心で一口、含んでみる。
そして、ジョッキを如月の元へと戻す。
「どうだい」
「うーん。何だろう」
「説明しづらいだろう」
「なんか、消毒液混ざってる?」
「混ざってないとも」
「嗚呼、でも、ビールよりは飲みやすいかな。如月はそれが一番好きなのか」
「そうだな。いつの間にか癖になっている」
そう言って、如月はぐびぐびと飲む。
彼女がお酒を飲む所を何度か見掛けたことがあるが、意外と豪快に飲む。酔うと頬が火照って、上機嫌になるので、私もなんだか楽しいような気分になる。だが、あまり量を飲む印象はない。
「まだ、強いお酒は無理みたいだ。それもちょっと強くて、きっと私は飲み切れないだろう」
「嗚呼、その判断は大事だ。自分の限界値は知っておくべきなのだよ。絶対に。お酒を飲む上で最も大切なのは、無理をしないことだ。分かったね。復唱したまえ」
「無理をしない」
「その通りだ」
「なんか嫌な経験でもしたのか」
「訊くのか」
「訊いて欲しそうだ」
いつになく語気が強かった。
これは一度手痛い失敗を経験したからこそ、実感の篭った警告になったのだろう。何でもそつなくこなす先輩が犯した酒の失敗話等、絶対面白いに違いないのだ。
「後学のためにも、是非お聞かせ願いたいものだな」
「そう言うなら、必ずあなたの糧にしてくれたまえよ。……これは私が二十歳になりたてだった頃の話だ。電気ブランというお酒を知っているかな」
「いや、知らないけど。それは飲み物の名前なのか」
如月に聞くと、電気ブランとはブランデーをベースにジンやワイン、薬草等が混ぜられた度数の高いお酒で、浅草の神谷バーというお店が発祥らしい。
一説によれば、それが生まれた時代では、新しい物の名前の頭に「電気」と付けるのが流行っていたので、このような名前になったのだと。
説明を聞きながら、私はだし巻き卵へ箸を伸ばす。卵焼きの上には大根おろしが乗っている。これは醤油を垂らした方が良いのだろう。卓上醤油を数滴垂らす。
「私がそれを飲んだのは、浅草じゃなかった。チェーン店の居酒屋だった。友達と飲んでいてね。当時の私は色々なものを試したがりで、変わった名前のお酒があるぞと、電気ブランを意気揚々と頼んだんだ。最悪なことに、この時点で結構飲んでいたんだ」
箸で一口大に切り分け、卵焼きを口へと運ぶ。
浸み込んだ出汁が噛んだ瞬間、口へと溢れ出る。程良い塩加減のそれが、何を元にした出汁かは分からなかったが、茶碗蒸しの例があるように、卵と出汁の相性が悪い訳がない。大根おろしの僅かな苦味と醤油の芳醇さも、卵にぴったりで、コクを増してくれる。全てが合わさる時の素晴らしい調和は、料理人によって計算し尽くされた、自分では作り出せない至高の一品であると、否応がなく納得させられる。
そして、大根おろしのお陰で後味がさっぱりとしていて、もう一つ食べたくなる。次は卵焼き単体で食べてみよう。
「来たのは茶褐色の液体でね、正直何処が電気でブランなのか分からなかった。当然飲む訳だけど、度数がきついなということくらいしか分からなくてね。だが、頼んだのだから全部飲まなくてはならないと思って、無理して全部飲んだんだ。もうその頃には体も頭もふわふわで、空を飛んでるようだったよ」
「そんなに飲んで大丈夫なのか」
卵焼きのみを食す。思った通り、単品でもちゃんと美味しい。寧ろ、シンプルさ故に出汁の深みや卵の甘み等が分かりやすくなった。
「結論から言えば、大丈夫じゃなかった。そのあと、解散した後も千鳥足で電車に乗るのも一苦労だったよ。揺れると胃も揺れて、気持ち悪くなって来るんだ。この世の終わりみたいな気分になるんだよ。これはやばいなと思ったんだけど、電車の中で吐く訳にいかないから、耐えて家に帰った。そして、着いた途端に、うええとね」
「玄関でか」
「そうだよ。今にして思えば、せめてトイレまで我慢出来ていればと思うよ。でも、無理だったんだ。気持ち悪くて掃除出来る状態でもない。まあ、それでもどうにかしなくちゃならないから、どうにかしたんだろうけど、あまり覚えていないな。妹がどうにかしてくれたかもしれない。その後はずっとトイレと仲良しだった。吐くと楽になるんだ。海鮮食べてたから、生臭くて本当最悪だった。シーフードなゲロだよ。でも、吐くものがなくなっても、吐き気が止まなくてね。異変を察知した妹がペットボトルのお茶を手渡して来たよ」
地獄絵図だ。唯でさえ、嘔吐の処理は大変だと言うのに、頭も体も動かない状態で、吐き気とも戦いながら掃除しなければならないとは。
「実家での話なの、これ」
「そうだ。ついでに、夜中の午前一時の話だ」
「妹さん、よく気付いたな」
「態々、寝ている所を起き出して、姉にお茶をくれるなんて、よく出来た妹だろう。まあ、あの子の部屋とトイレが近いから、私が煩くて起きた可能性も充分あるんだがね」
「妹さんが災難だ」
夜中、物音に起こされて、様子を見に行ったら、玄関に嘔吐物、トイレから離れられない姉が吐き続けている。私なら見なかったことにしたい。
「まあ、そんな感じで私はお酒の失敗をした訳だ。他にもあるけど、人前では話せないようなものばかりだからね。因みに、私はこの騒動の後、暫く自分の嘔吐物の匂いが鼻から抜けなくて、海鮮が食べられなくなったんだ」
「意外だな。如月もそんな失敗があるとは」
私の言葉に如月はやれやれと言った様子で、肩を竦めた。そして、冗談めいた口調で返した。
「私が如何に頼り甲斐のある先輩でも、人の子である以上、何かは過つさ。特に慣れていないことなら尚更ね」
「私は知らぬ内に貴方に理想を押し当ててしまっていたかもしれない」
「特に気になる程ではないから、気にしなくていいさ。それに、やはり年上としては、多少期待されたい気持ちもあるから、程々なら歓迎するとも」
また、一口、ハイボールを流し込む様は、板についている。堂々とした先輩然とした態度は、私も見習いたいものだ。
くだらないことを言い合って笑いながら、お酒を酌み交わし、美味い肴にまた会話に花が咲く。偶に真面目な話をして、ああでもない、こうでもないと議論をして、やはり、最後に漏れるのは笑顔だった。
そんな一時に、千古の愁いも
百壺は飲まないし、留連もしないが、それでも、こんな良い宵なのだから、もっと話をしよう。高尚だとか、低俗だとか、そんなのは何だって良いから、貴方と私で話をしよう。白い月はまだ高いのだから。
「薪がないのに燃え続ける炎の話を知っているか?」
「知らないな。聞かせて欲しい」
肘をつき、手に顎を乗せた如月が、少しとろんとした目で、話の続きを私に促す。
思い出す。あの奈落での出来事を。そして、唇は開かれて、思い出話が語られる。一度閉じられた物語が、繙かれ、紡がれる。
そうして、夜は更けていく。
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