第43話 向こう岸

 川は涸れている筈だ。ならば、今聞こえる瀬音は何処から聞こえてくるのか。雨は降っていない。私達を惑わせるためか。或いは、川が異界への境界にあるのなら、誰かが出入りしようとしているのか。


 何にせよ、此処にいては何も情報を得られない。私は靴を履き、外へ出ようとするも、芒聲さんに肩を掴まれる。


「何処へ行くんです」

「もしかしたら、楽號が此方に来ようとしているのかもしれません」

「そうではなかった場合、どうしますか。また、澱みに囲まれてしまう可能性もあるのですよ」


 また、道に迷えば、今度は取り返しのつかない状況になるかもしれない。


「でも、此処にずっといたってどうしようもないじゃないですか。期限まで何もしないではいられません。少し見に行くだけです。一人でも大丈夫です」

「私は戦う術も持たぬのに死地へ向かう者を見ると苛立つのです」

「戦う術がなくても、進むしかない時もあります」

「それなら、戦える者を伴えばよいのです」

「……一緒に来てくれますか」

「そのためにいます。あなたはもっと自分の非力さと周囲の力を認め、助けを求めるべきです」


 芒聲さんが手早く靴を履いていると、春樹さんが近付いて袖を引っ張った。


「俺もついて行っていい? 本当は知りたいんだ。いーちゃんのことも、この山で起きてることも。誰かからの話じゃなくて、自分の目と耳で」


 その真剣な面持ちを見ていた芒聲さんは、私と顔を一瞬見合わせた後に向き直り、頷いた。

 それを見て、春樹さんは険しい顔付きで靴を履き始める。使い古したスニーカーは土だらけで、彼がどれ程足繁く通っていたかが分かる。


 戸を僅かに開け、外の様子を見るものの、相変わらずの深い霧が森を閉ざしていて、視認性は悪い。しかし、腹の底からぞわりとする声も影もない。

 静かに開いて、慎重に出て行く。ひんやりと湿った空気が肌に纏わりつく。

 今になって漸くデジャヴの在処が分かった。川を渡った時に感じた異質な雰囲気の正体。此処の空気はあの世に似ている。幽霊を門に通す時に感じる、薄寒く澄んだ空気だ。

 しかし、門の内には不思議と暖かさもあって、全てを包み込むような大きな何かが広がっていたのだが、此処にはそれがない。唯、硬く冷たく、手が悴むばかりで、受け入れてくれる余裕がないように感じる。


 私の後に続いて、二人が外へと出る。きょろきょろと周りを観察していたが、危険はないと判断したのか、芒聲さんが「行きましょう」と声を掛ける。


「川はこっちだよ」


 春樹さんが霧の向こうを指差す。水の音も其方から聞こえて来る。

 迷いのない足で進んで行くと、十分も経たずに川が目の前に現れた。それは私の渡って来た川よりも上流に位置するのか、勢い良く石に当たって砕けた水の飛沫が、岸辺の私の顔近くまで飛び散るような急瀬だった。


 霞む向かい側に動く影がある。

 目を凝らして見るが、ぼんやりとしたシルエットしか此方からは見えない。その影は段々川に近付いているようだ。


 色が見える。自然の中に馴染まない真っ新な白色だ。つまり、服を着ている。なら、澱みではないのだろう。


 向こう岸にいたのは、細小波に紛れた楽號だった。先程と同じく、白いシャツを着て、黒いスキニーを履いている。呆然としたような、憔悴しているような顔で頻りに周りを見回っている。

 私は息を長く吐き出す。見た瞬間、自分でも驚く程に安堵している私がいた。心細くて、張っていた気が緩む。

 私は川岸ギリギリまで迫って、手を振った。


「楽號!」


 その声に気付いたのか、はっとした顔で此方を見た。


「其方に、いるのか」

「楽號、良かった。実は」

「何考えてんだよ馬鹿! 遠くに行くなって言ったろ!」


 今までに見たことのない気迫で叱られ、私はたじろいだ。だが、言われている内容は全くもってその通りであるので、反省の念が湧き出て来る。行くなと言われたのに、誘われてふらふらとついて行き、巻き込まれたのは、一から十まで私の浅慮だった。


「君は何時も小さな子供みたいにふらふらとあっちこっちに行って、心配する身にもなれよ! 電話も通じないしさ! 聞いてるのか?」

「あ、えーと、それについては陳謝します。でも、すみません。今はそれ所じゃないんです。山神様に閉じ込められたんです。彼は私の中の門を返せと言っています」

「えっ」


 激湍の音に負けないように声を張る。もしかしたら、澱みを呼んでしまうかもしれないが、情報伝達が先だ。


「どうしたらいいですか?」

「どうしたらって」


 楽號が頬を掻く。

 一度川を渡ろうと片足を上げたが、どうやらこの急流は流石の楽號も渡れぬらしく、足を戻した。聞こえないが、くそっと言ったように口を動かしていた。


「君は、どうしたいんだよ」

「手放せるなら手放したいです。でも、いきなり言われても、本当にそれでいいのか、本当に信用していいのか分からないんです!」

「うーん……。会ったことないから、信用云々は分からないけど、僕は今はまだ早いと思うよ。せめて、千歳の話を聞いてから、それから決めた方がいい。でもね、決めるのは君なんだよ。僕じゃない。……兎に角、僕はもう少し下流の方で渡れそうな所を探すから、君は其処で待ってて」


 楽號が走って下っていく。その背中は直ぐに背景と霧に溶けて見えなくなった。

 私達は川の傍で手持ち無沙汰になる。

 川を見る。水嵩は高く、涸れた川だとは思えない。


 楽號の言う通り、きっと決めるのは私だ。これからどうするのかを。

 だが、これからどうなるのかも分からないのに、何を根拠に決めれば良いんだ。私のものと皆は言うけど、私はこれを自分のものだと思ったことはない。


 気が付いたらあった、私の人生に影を落とすもの。恐ろしい目に遭う原因、寂しさの元凶。門がなければ、霊感がなければ。何度も行ったり来たりを繰り返した擦り切れそうで擦り切れない思考回路の中身は、噎せ返りそうな腐りかけのたらればと、優柔不断と欲張りに満ち満ちて、他責しようにも、当たる相手がいない。


 あっちの道も、こっちの道も、どちらも道には変わらない。それでも、失敗したくない、間違えたくない。だから、二つとも確かめたくなる。でも、一つの道しか進めないのなら、一つの道しか確かめることも出来ないのだとしたら、私はどちらを選べば良いんだ。


 手放したら、きっと影はなくなる。暗い道から抜け出せるかもしれない。

 でも、その穴が靎蒔のものなら、私は母との繋がりを失うことになる。曖昧で信用出来ない記憶よりも、確かな繋がりを持っていたいと思うのは我儘だろうか。夙夜夢寐想える程、私は確固たる意志の力を持たない。


 記憶が蘇るにつれて、思慕の情も思い起こされた。暖かくて寂しくて、手放したくない原風景。あんなにも優しい人を、私はどうして忘れられたのだろう。あんなにも優しいひと時を、温もりを、どうして。


 それについては気がかりなことがある。

 いーちゃん曰く、私は記憶を材料に門を塞ぐ蓋を作ったと。


 私の中にある門は、本来、人が一人余裕で入れる程に広い口を持っていたが、現在は幽霊のように不定の情念程しか入らないと、千歳さんが言っていた。

 入口を狭めているのが、いーちゃんの言う所の蓋なのだろう。問題は何故塞がれたのか、という所だ。

 私は、自身の記憶は自身の意思で忘れていたと思っていた。思い出すと今が辛くなるからと、母を忘れた。父を忘れた。そうだと思っていた。

 だが、いーちゃんの口振りから察するに、私は無意識に記憶を蓋にしていたように受け取れる。恐らく、材料にされたものは思い出せなくなるのだろう。だから、私は忘れたと思い込んだのだ。

 今、少しずつ思い出しているということは、蓋が崩れ始めているのだ。門が開こうとしている。


 きっかけはきっと楽號だ。

 会って直ぐの夜、彼が私の門に腕を突っ込んだ。想像するに、その時、塞ぎ掛かっていた蓋が崩れたのだ。ぽろぽろと剥がれて、それは私の手の内に戻って来たのだ。


 分からないのは、私が門を無意識に閉じようとした理由と、門が開いたらどうなるのかということだろう。


 いーちゃんのことも分からない。

 悪い神ではないと思う。真意を問わなければならないことはあるが、此方を致命的に害そうという動きはない。澱みに遭遇したのは、私は勝手に川に向かったからで、あの社の前で言葉でもって此方を追い込みこそすれど、拘束もなく、意思決定権は何処までも私の手にあった。

 交渉の場に於いて、対等であった。神と人、力を授けた者と授けられた者。決して同じ土俵ではないのに、彼は同じテーブルについた。

 それは誠実さの表れではないのか。力づくで事を運ぶつもりはないし、相手の意見も聞くという。


 終の住処と言っていたが、そこで何をするのだろう。終わりが来るまで、じっと待っているのだろうか。それなら、澱みの溜まるこの山では不適当だ。最期くらい綺麗で澄んだ空気の中で終わりたいと、願ってもおかしくない。


 だが、本当にそれだけなのか。恨みは、憎しみはないのか。自らを忘れていった者達に、その子孫である私に。


 人の心は移り変わるもの。そうと分かっていても、移り気は推奨されないし、忘れられた後、永い寂寥の中を過ごすのは、きっと酷く悲しい。神の心の内など分かりようもないが、心があるというのなら、人と似通った機微もあるやも分からない。ならば、愛憎も悲哀も寂寞も悔恨も其処には有り得る。

 及ばない思考ながら自分がそういった状況にあると仮定した時、孤独なそのような時を過ごして、終わりを迎えようとして望むこととは、やはり、安らかな旅立ちなのかもしれないと思う。


 もし、彼の言うことが嘘で、関係が断絶した理由が靎蒔ではなく、いーちゃんにあるとするなら、穴を差し出すのは躊躇われる。実は悪神でそれを元に人を害そうとしている可能性や、生き長らえるために他を犠牲にする可能性もあるかもしれない。


 だが、私の心はそれを否定する。理屈ではなく、五感でもって、悪しき存在ではないと思いたがる。

 印象もそうだが、振る舞いや春樹さんからの信頼のされ具合などから、彼は誰かを貶めるようなことはしないだろうと考えている。言い方を変えれば、信じているのだ。


 短いやり取りの中でも、在り方に触れることは出来る。

 だから、彼は復讐や侵略のためではなく、安らかな終わりのために神の穴を取り戻そうとしているのだろうと私は信じることにした。


 なら、彼に返すべきなのではないか。


 賽は私の手の内にある。


「おお、おおお」


 遠くで声が聞こえる。澱みの声だ。距離はあるが、此方に来るかもしれない。


「此処を離れた方が良いかもしれません。先程の話し声で寄って来ています」

「でも、楽號が」

「彼は大丈夫です。澱み程度には負けません。それにあなたの身の安全が掛かっているなら、死ぬ気で探し出すでしょう」

「山小屋に戻るの? 社に戻るの?」


 近さなら山小屋だ。一度集まってから、社に向かった方が良いだろう。


「山小屋で楽號を待ちましょう」

「急いでください」


 芒聲さんに急かされ、私と春樹さんは駆け足になる。

 私達はもと来た道を戻って行くが、声は段々近付いているように思える。


 不意に流動体が茂みから飛び出し、道を塞いだ。それは黒い靄のようで、千切れ掛けながら、人形のような姿を取ろうとする。


 澱みだ。


 咄嗟に春樹さんの腕を引いて、腕の中に収める。それと同時に背後から一陣の風と共に黒い塊が前へと躍り出た。そして、手に持った大きな鎌で澱みを一閃した。

 冷ややかな煌めきを残して、鎌は靄を霧散させる。だが、それは再び集まろうとしている。


「散らしただけです。時間稼ぎにしかなりません。走ってください」


 鎌を構え直しながら、芒聲さんが珍しく大きな声で叫ぶ。

 私は煩い心臓を無視して、春樹さんの手を掴んで、山小屋を目指した。





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