第42話 昨日と今日の淵瀬
彼はいきなり開かれた戸から差し込む明るさに眩しそうな顔をしたが、入って来たのが私達だと分かると、慌てて立ち上がって、てててと裸足のまま土間へ降り、芒聲さんの後ろの扉を閉めた。
「此処は大丈夫。あいつらも入って来れない」
平然と喋る彼に、私は目を丸くして見つめる。良く見れば、彼の存在は何処か希薄だ。生霊か何かだろうか。
「あれを知っているのですか」
「うん。よく来る」
「此処には何か彼等から身を守る術はありますか」
「迎え入れたり、戸を開けたりしなければいいんだよ。いーちゃんに此処にいる時はそうしろって言われたんだ」
少年はまた板間に上がると、私達用の座布団を部屋の隅から引っ張り出してくれた。
私は靴を脱いで上がるが、芒聲さんは土間に立ったまま、少年をじっと観察しているようだった。私が声を掛けようとすると、彼が口を開いた。
「あなたは魂ですね。霊体になり掛けている。そのまま身体を貸し続ければ、近い内、身体に戻れなくなりますよ」
「うん。それも、いーちゃんが教えてくれた」
「私に山を案内してくれたのは貴方ですか」
「そう」
「もしかして、さっき社の前で入れ替わったんですか」
「そうだよ。いつもならその場にいるんだけど、お客さんが来ている時はいつの間にか此処にいる」
その時、どんどんと乱暴に戸を叩く音が、狭い小屋の中に響いた。唐突に聞こえて来た大きな音に、私と少年はびくっと体を震わせる。
芒聲さんは私達に背を向け、下がっているよう掌を此方に向けた。
思いっきり殴り付けているような音が繰り返されるが、戸が開かれる気配はない。私の力でも蹴破れそうな、鍵も付いていない簡素な引き戸だ。中に入れないという、先程の少年の言葉は真実だったのだろう。
「あそぼ、あそぼ」
「遊ばない」
「おひで、たのひい、おいひい。いれて、いえて」
「入れない。あっち行け」
寒気がするような声に、淡々と少年が答える。
その様は酷く慣れているようで、私が縮み上がるような状況を彼は何度体験して来たのだろうと思った。そして、そのような恐ろしい場に、何故いーちゃんは彼を置いておくのだろうとも思った。
問答に満たない受け答えを繰り返すと、その声も戸を叩く音も止んで、しんと静まり返った。彼等は諦めて去って行ったのだろう。
芒聲さんは音がしなくなってからも、暫く戸を見張っていたが、完全に気配が消えたのか、革靴を脱いで、座布団の上に座った。
少年はおはじきを弾いている。森で拾ったのか、団栗や松毬なども並んでいる。それらをぶつけて遊んでいるようだ。家から持って来たのであろう、肩掛けの水筒も置かれている。
「さっきの、あの黒い影のようなものは何でしょう。霊とは違った、もっと嫌な気配がしました」
「あれは幽霊ではなく、澱みです。汚泥とも呼ばれます。人の世で言う所の産業廃棄物です。どのような場所であっても、世界の内にあればサイクルが発生しますから、どうしても出て来てしまう物です。本来であれば自然と流れて消滅していく物なのですが、此処では循環が上手く機能しておらず、溜まっているようです」
「情念とは違うものなんですか」
「あれは感情ではありません。世界が循環する上で、不要になった滓です。言葉を発していますが、それらしいことを言っているようなだけで、言葉自体にもそれ程意味はないでしょう」
あの誘う言葉も大した意味はなかったのか。
「彼等は何故、私達を追い掛けて来るのですか?」
「あれには一つだけ行動指針があります。それは、増えること。あなた方を取り込み、それを糧に嵩を増す。そのために、捕らえようとするのです」
もし、追い付かれていたらと思うと、ぞっとする。芒聲さんがいなければ、道に迷った果てに力尽きて捕らえられていただろう。
「あなた方はあまり見ない方がいいでしょう。あれはこの世に不要とされたもの。それが在ることは知っておいた方がよいですが、まじまじと見ると要らぬ傷を負います」
キンと、硝子と硝子がぶつかる音が鳴る。
「いーちゃんは言っていた。あれは山の影法師だって。川が干上がったから、もう流せないんだって。どんどん増えてるよ」
「影法師……」
「詳しいことは分からないけど、光が射す所には影が出来るんだって言ってた。其処に大きな物があればある程、大きな影になるって。それが影法師なんだって。お山は大きくて陽を受けるから、それだけ大きな影になるんだよって」
「あれ? でも、私達が出会った所には川がありましたよね」
「偶に川が出来るけど、いつもは涸れてるよ」
人を招く時だけ、水に流れるのだろうか。それとも、単純に水無瀬川なのか。
少なくとも、私が見た時は豊かな水量であった。近々の天気予報でも、晴天続きで雨は降っていなかった筈だ。ならば、前者の可能性が高いのかもしれない。
少年が肩を震わせる。
此処は安全かもしれないが、山の中故に気温が低く、その上隙間風が酷いのだ。私も上着を着て来たとはいえ、肌寒さを感じる。吐く息も仄かに白い。
「薪とかありますか」
「あっちの端の方に」
少年が指差す方へ向かうと、僅かながら切られた木々が積まれていた。細い枝も何本か落ちている。この量では直ぐに使い切ってしまいそうだが、凍える子供をそのままにしておく訳にはいかない。
私が何本か囲炉裏の傍に運ぶ。芒聲さんがライターを取り出しながら、少年に「この松毬を頂いても?」と訊き、差し出されたものを受け取った。芒聲さんはそれに火をつけて囲炉裏へ投げる。そして、細い枝を何本か折って入れ、火の勢いがついて来た頃に薪を組むように重ねた。
暖かな炎が揺らぎながら、暗い室内を暖色に照らす。私と少年は手を翳しながら、暖を取った。じんわりと熱が伝わって、指先の感覚が戻って来る。
顔を橙に染める彼に目を向ける。魚の腹のように青白かった顔も、少し血色が戻って来たように見える。
「お名前、訊いても良いですか?」
「
「もしかして、雑木の宿の」
「うん、じいちゃんのお宿」
生島さんが言っていた孫とは、彼のことなのだろう。
「いーちゃんさんとはどういう関係なんですか」
春樹さんと目が合う。茶褐色の瞳は先程と変わらない色なのに、明らかにいーちゃんとは違う眼差しを持っている。不思議なものだ。同じ顔であっても、ここまで別人に見えるとは。
「昔、山で迷子になったんだ。そうしたら、いーちゃんが話し掛けて来て、一緒に遊んでくれたんだ。遊んだ後、俺が帰りたいって言ったら、いいよって言われて、言う通りに進んだら、戻れたんだ。それから、毎日、山に入って、いーちゃんと話してた」
「一緒に話したということは、その時はいーちゃんさんには、体があったんですか」
「ないよ。だから、俺の体を貸したんだ。何もない空を見て話すのが嫌だったから。顔がある方が話しやすい。最初は自分が二人いて変な感じだったけど、今はあまり気にならない」
「いつから身体を貸しているのですか?」
芒聲さんが問い掛ける。
春樹さんが視線を左上に向ける。
「五歳とか? 分かんない」
「成程。あなたの年は幾つですか?」
「十歳」
ふむ、と言って、芒聲さんが腕を組む。
「何かあるんですか?」
「いえ、魅入られているのか、狙われているのかを確かめたかったのですが、何年も関係が続いているなら、違うかもしれませんね」
「いーちゃんはそんなことしないよ」
芒聲さんの言葉に、むっとした様子で春樹さんが返す。少なくとも、春樹さんはいーちゃんに好意的な印象を持っているようだ。
私もいーちゃん自体に嫌な感じは受けなかった。しかし、寒い山小屋の中に子供を一人置いて、その上、周囲に危ない存在も彷徨いている状態とあれば、少々疑念も抱く。
憑依する側、所謂超次元的存在に、現代の保護者の責任範囲を説いた所で、見当違いなことではあるが、私は現代の人間なので、胸の内に思わずにいられないのだ。此処にいれば安全かもしれないが、風邪を引いてしまうと。
ふと思う。結局の所、いーちゃんとは何者なのだろう。
ある程度の予想は出来る。あの世にも通じる穴を授ける者。春樹さんの言葉からも、この山の状態を把握出来る程の視野と能力を持つ者であることが分かる。
それは、即ち。
「いーちゃんさんはこの山の神なのですか?」
「そう」
軽々な口調で返される。
「つまり、いーちゃんさんの言う、終の住処って」
ということは、この山の神は滅び掛けていて、最期の場所として私の中の穴を指定してきたということになる。神の終焉とは、山の終焉と同義なのだろうか。
私の強張った顔を見て、芒聲さんが考えを見抜いたのか、説明してくれた。
「神の死は山の死を意味しません。支配者や調整者がいなくなるだけで、山も大地も続いていきます」
「芒聲さんは、私といーちゃんさんの話を何処まで」
「最初から最後まで聞いていましたよ」
「いーちゃんは死んでしまうの?」
春樹さんが初めて震えた声を出す。
正体不明の何かが訪れても毅然とした態度を保ち続けていた子が、初めてその顔に怯えを映す。
「最近、ずっと元気がなさそうなんだ。行くと、いつも寝てしまうし」
「このままでは難しいでしょう。この山は、神の住まう異界という意味に於いて、もう正常に機能していません。澱みを処理する能力が低下し、溜まる一方です。今はまだ抑え込めていますが、何時決壊してもおかしくありません」
「抑え込んでいるいーちゃんさんがいなくなったら、もっと危ないのではありませんか?」
「いいえ。彼の言葉を借りるなら、神は光です。とても強い光であり、光を遮る障害物でもある。だから、彼がいなくなれば影は小さく薄くなり、澱みの数も自然と減っていくでしょう。山自体にも淘汰の力があり、澱みへの処理能力が全くなくなる訳ではありませんから、次第にバランスを取り戻して行く筈です」
芒聲さんは春樹さんに遠慮せず、真顔で現状を説明してくれた。その説明を聞く所によると、現在のこの山に於いて、いーちゃんは悪循環に陥っているようだ。
本来であれば、いーちゃんはこの山の主として、光を注ぎ、大地に力を与え、発生する澱みを川へと流し、循環を整える役目を担っていた。
木々が伸び、葉を落とし、土が肥え、また木々に還元されていくといったことに代表されるような、山に於ける循環の規模が大きくなればなる程に、澱みの量も増える。小規模な工場よりも、巨大な大量生産の工場の方が生産される量も産業廃棄物の量も多くなるというだけの話だ。
いーちゃんは従来よりも循環の規模を広げて、山を豊かにしていたが、発生する澱みは問題なく流せる量であった。
しかし、川が涸れたことで、澱みを処理する量が減って、溜まり始めた。その結果、澱みは毒のようにいーちゃんを蝕み、その力を削ぎ落とした。そのせいで、澱みを処理する能力が更に落ちた。
今はそれによって、どんどんと弱まっていると。
そして、サイクルを広げている、つまり澱みの量を増やしている大元であるいーちゃんがいなくなれば、澱みの発生量を減らせて、時間は掛かるものの山自体が持つ処理能力によって次第に健全な循環へと戻るという。
一つの会社が潰れると、関連会社にも影響を及ぼし、時に共倒れになる。楽號と話したことが頭に蘇った。川がなくなり、神も大地も木々も煽りを受けている。
「事の発端は川が涸れたことにあるのでしょう」
「何故、川は涸れたのでしょう」
「調べてみないことには何とも。ですが、今更なんですよ。もう、取り返しがつかない所まで来ています。もし、川が復活しても、あれ程に毒に冒された状態から元に戻るのは不可能です」
「やっぱり、いーちゃん死んじゃうんだ」
黙って芒聲さんの話を聞いていた春樹さんが、悔しそうに下唇を噛む。ズボンをぎゅっと握った拳には力がこもっている。優しい子なのだろう。仲の良い相手のどうしようもない終焉に憤り、そして、自身の無力に悔しがる。相手を思う気持ちがなければ、どちらも湧かない感情だ。
神と人。どうしても高低差のある関係になりがちだが、彼等にはそれとはまた違った関係性があったのかもしれない。
その時、川のせせらぎが聞こえた。
涼やかな濺々とした響きと、何かが川に落ちる音。
三人ともはっとしたように顔を見合わせた。
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