第41話 五里霧中

 騒めく風が、私の上着を翻す。さざめく梢が、私を囲む。

 冷たく重い空気が、私といーちゃんの間に横たわる。私は刺々しい空気で肺を傷付けないように、ゆっくりと少ない空気を吸っては吐いていた。


 条件自体はとても良い。理想的な提案だ。

 穴は塞がるし、何かを損なうこともなさそうだし、塞がった穴の処理もしてくれる。

 でも、一点、どうしてもそれに頷けない要素があるとするならば、靎蒔の家のことだ。彼等は何故、みーちゃんから離れて行ったのか。いーちゃんは靎蒔の傲慢さと言っていたが、実際の所、靎蒔側の問題なのか、はたまた、いーちゃん側に問題があるのか、どちらなのだろう。


 もし、靎蒔の家に問題があるなら、家が潰れた時点でその問題も終了しているだろう。しかし、いーちゃん側に何かあるのなら、此処で即座に返事をするのは悪手だ。

 問題があるとしたら何か。現段階では条件が分からない以上、考えうる可能性が膨大で、選びようがない。

 彼の目的がこの穴を手に入れることが目的ならば、なるべく安く手に入れようとするだろう。もし、自身の信用に瑕疵があるならば、それを隠した上で交渉をする筈だ。ならば、今、彼は真実を語っているのだろうか。

 彼は良い条件を並べて、私を騙そうとしているのかもしれないし、そうではないかもしれない。靎蒔の家の仕打ちの復讐を私にしようとしていることだって、考えようではある。

 或いは、彼の言う通り、絶えるしかないのっぴきならない事情から、藁にも縋る気持ちで話を持ち掛けているのかもしれない。

 何にせよ、今のままでは判断がつかない。頷くのは危険だ。


「私だけの判断では少し難しいようです」

「今はお前さんのものなのだから、お前さんが扱いを決めて良いものぞ」


 風が強くなる。雲が上に来たのか、大きな翳りが落ちて来る。


「しかし、かと言って、既に深く関わっている者が何人かいますから、彼等にも一言話すのが礼儀でしょう」

「成程の。では、三日待とうではないか」


 どっこいしょと言いながら、いーちゃんが座り直す。細い足を力なく放り出して、リラックスした姿勢だ。


「三日経って、誰も来なければ、お前さんが判断するのじゃ」

「良いんですか?」

「来れるならの。どうせ誰も来んわい」


 確かに、結構な山深い所まで来てしまったから、一度降りないと、楽號も見つけられないだろう。私は靴紐を結び直して、立ち上がろうとした。


「宿に一度戻って相談して、また此処に来ます」

「会うのは無理じゃろう」

「無理、というと」

「お前さんはもうこの山から出られぬ。だから、宿にいる誰某が自発的に此方に来ぬ限り、相談は出来ぬ」

「そんな……」

「頷くなら直ぐに帰すが。まあまあ、相談は諦める方が良いが、考える方は饅頭でも食べながらやれば良い」


 そう言って、いーちゃんは社の観音開きの戸を開いて、中の饅頭を一つ取り出し、渡して来た。

 オーソドックスな白い饅頭が小分けのビニールに包まれている。


「先日、置いて行かれた物じゃから、衛生的に問題はない筈じゃ」


 折角頂いた物ながら、私は何処か食べる気が失せていた。

 手に持ったまま、暫し考えたものの、そこまで良い案が浮かぶとも思えなかった。


 山からは出られない。いーちゃんは同意以外受け取るつもりがない。つまるところ、用意された答えは一つだけだ。


 取り敢えず、動いてみよう。

 山から出られないというのも、いーちゃんの脅しで、実際の所は分からない。川の傍まで戻って、大声で呼んでみたら、宿の楽號まで届くかもしれない。

 何にしろ、何も試さず内に諦めるのは早い。


 私が立ち上がり、山を降り始めたことに、いーちゃんは特に咎めることもしなかった。筵の上で座ったままで、此方を見ている。


「あまり遠くに行くでないぞ。山は危険故な。もし、何かあれば直ぐに此処に戻るが良い」


 それだけ告げられた。逃げられないと言いつつ、身の安全を心配するのも不思議な感じがする。いや、心配しているのは私ではなく、中のものだろうか。

 私が少年と歩いて来たうろ覚えの道なき道を進むと、霧が出て来る。道先がぼんやりと閉ざされるので、半ば勘で歩いていた。これでは、社にも戻れないかもしれない。

 霧が出た途端に、周りの景色は一変して、鬱蒼とした美しき深遠を覗かせた。

 半刻程歩いた頃、変化のない景色に迷って足を止めると、忽ち四方を霧が囲んだ。天すらも覆われ、陽が見えない。場は一層ひんやりとした空気が満ちていて、私は体温を少しずつ奪われる。


 この冷たさに、覚えがある気がした。


 しかし、今はそれよりも途方に暮れていた。

 行く道も帰る道もなく、山中で遭難している。助けが来る気配もないし、人里に降りられる気もしない。標高がそこまで高くなく、斜面もなだらかな方ではあるとは思うが、山慣れしている訳でない私がこの霧の中で行きたい所に向かうのは不可能な気がした。

 何となくではあるが、この霧は自然発生したものではなく、帰り道を迷わせるためのものであると感じた。ぼやぼやと掛かると言うより、私の進行方向を閉ざすように霧掛かるのだ。


 いーちゃんの言う、山から出られないというのは、こういうことだったのかもしれない。宿に戻るどころか、自分の現在地も分からないし、川の音もしない。携帯の表示は宿を出る時に見た十五時半を表示している。陽が差さないので、時間感覚が掴めず、体感ではあるが、一時間はとうに過ぎている筈だ。


 これは、いーちゃんの提案を受け入れられなければ、帰れないのか。

 気持ちが焦り始める。異常事態の中で冷静さを欠く状態は避けたい。何が命取りになるか分からない。平静を失ってはならない。言い聞かせるように、落ち着けと繰り返し口の中で呟く。


 私は木の根元に座り込んだ。


 少し整理しよう。抜け出すヒントが何処かにあったかもしれない。


 まず、私は川の傍で少年と出会った。彼は向こう岸に私を誘い、私は川を渡って彼を追い掛けた。

 少年は私に山の素晴らしい景色を見せてくれた。そして、最後に社に連れて行ってくれた。

 そこで彼は突然、蹲った。顔を上げた時には、別人のような様相で、いーちゃんと名乗り、饒舌に話し始めた。


 彼が言うには、あの世の門はかつて自分が靎蒔の家に与えたもので、靎蒔は自分の世話をする家だった。一度与えたものではあるが、終の住処とするため、門を取り戻したい。

 なので、私に交渉を持ち掛けた。返すなら、私に通じる門を封じ、その後の処理も請け負ってくれると言う。

 返答期限は三日。その間、山から出ることは出来ず、助けは呼べない。しかし、向こう側から此方に来ることは出来るらしい。


 私が山に閉じ込められたのは、いつの段階からだったのだろう。川を渡った後か、社で会話をした後か。

 思い返せば、川を渡った時に、空気が変わったような覚えがある。

 まるで、氷穴へ入ったようなひんやりとした、それでいて異質な空気だ。

 一つ、嫌な想像が頭を過った。


 三途の川。ステュクス。


 此岸と彼岸の間を流るる川。あの世とこの世の境界線。


 水辺は古来より、人間の暮らす空間と異界との境界にある。

 人は水の中で生きられないし、川を渡るには船や橋などの道具が必要になる。其処は人の儘ならない近くて遠い場所。生活圏とも異界とも接する両義性のある領域。

 それ故に、怪異が起こりやすいと言えよう。河童や蛟、ケルピーやローレライ、ルサールカ。現代においては、トイレの花子さんも水辺の怪異に当たるだろうか。


 そして、異界とは山であったり、海であったり、人の生活の拠点にならないような場所がなりやすいように思える。其処に住まうのは神や怪物で、人は人間の領域に彼等が出て来ないように、或いはその力を借りるために祀る。


 つまり、この山の中は異界で、社は其処に住まう何かしらが祀られている。

 其処へ私は川という境界線を超えて入って来てしまった。


 そう考えると、このおかしな霧も多少納得出来る。既に山の主の領域にあるから、私を閉じ込めようと主が思えば、山はそのように動くのだろう。人の世界の法則が通じる場所ではないのだ。


 異界には、生者であれば迷い込んで侵入するか、善行を為して招かれることが多い。昔話で例えるなら、前者ならこぶとりじいさんやホレおばさん、後者なら浦島太郎や舌切り雀あたりだろうか。

 私の場合は迷い込んだパターンだろうか。それとも、少年に招かれたのか。どちらにしても、相手を怒らせず、知恵を使って、正しい行いをするのが、吉なように思える。


 いーちゃんは性格的にあまり怒らない方とは思うが、私が交渉を打ち切って家に返せと言えば、それが変貌する可能性もある。

 ならば、交渉を続けつつ、正しい行い、正しい帰り方を見付ける必要がある。この場合の正しい行いとは何だろうか。ホレおばさんのように、いーちゃんの身の回りの家事手伝いをすれば良いのだろうか。彼の場合は、頷く以外返してくれるようにはしてくれなさそうだ。そして、二つ返事をするには、今の情報だけじゃ判断がつかない。

 だから、彼がつい帰したくなるような手段を見つけられたなら、穏便に帰れるかもしれない。


「おお、お」


 低い唸り声が聞こえた。男性のような声だ。獣の鳴き声らしくない。何か言葉を発しているような。

 誰かいるのだろうか。私は思わずミーアキャットのように立ち上がり、周りを見るものの、霧に囲まれて、視認性が悪い。それでも、黒い人影のようなものが、ふらふらと揺れながら近付いて来るのが見えた。

 人の形のシルエットだが、明らかに普通の人間の歩き方ではない。私は思い返す。此処が異界だとするならば、生きている人間が中にいる可能性は低い。だが、人に化けた何かはいるのかもしれない。迷い込んだ人間を喰らおうと、虎視眈々と狙う何かは。


「お……で、ほ……らに……で」


 唸り声のようだが、やはり何かを話している。少しずつ後退りながら、私は耳を澄ました。

 それとの距離は霧のせいで掴めない。だが、確実にこちらに近付いて来ている。現に、話している内容が段々鮮明になっていく。


「おひで、おひで、ほちらにおひで」


 その音に、ぞわりと悪寒が走る。辿々しく、低いその声色は、まるで逆再生した音源を聞いているような感覚に陥らせる。舌足らずだが、何を言っているのかは辛うじてわかる。だが、決して人の発した声ではない。

 私は影に背を向けて、走り出した。行き先は分からない。何せこの霧だ。行きたい所があっても、辿り着けそうもない上に、土地勘などあろう筈もない。

 枝葉が体を打つのも構わずに、私は走り続ける。

 背後に大きな気配が近付く感覚がした。振り向く間も惜しくて、私は足に力を入れた。


「何も学ばない人ですね」


 聞き覚えのある低い声に、私は思わず振り向こうとする。


「芒聲、さん」

「前を見てください。話は後で。今はこの状況から脱しましょう。このまま真っ直ぐに進めば山小屋があります」


 そう言われて、私は顔を前に向ける。

 彼は私の直ぐ後ろにぴったりとついて走っている。

 前方に視線を戻したものの、霧が立ち塞がり、山小屋など欠片も見えない。此処に来るまで、山道の一つも見なかった。人の立ち入るエリアがこの山に存在するのだろうか。それでも、彼の言葉なら信じられる。

 彼はきっとこんな所で嘘を吐かないだろう。


 肺が痛くなる程に走り続けていると、霧に霞む前方に人工物が見えた。木で組まれた小さな小屋だ。

 安堵が胸の底に湧いて来る。


「おひで、おひで。おなじ、おなじ。いこう、あそこ、あったかひ」


 着いて来ている。距離はそこまで離せていないから、振り向けば、それが何か分かるかもしれない。だけど、なんだかそれの正体を見てはいけない気がして、私は真っ直ぐに山小屋に向かい、戸を開け放った。


 山小屋は昔話に出て来るような、こじんまりとした建物だった。土間があり、上がった先の板間の中心には囲炉裏がある。火は焚かれていないが、傍に子供が座って、おはじきを散らばらせている。眩しそうな顔をして、こちらを見ている。


 いーちゃんだ。


 彼は社の前にいる筈だ。移動したのか。いや、此処にいる彼は、いーちゃんじゃない。


 彼は、私に景色を見せてくれた時の彼だ。





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