第39話 渡る川の先
現在時刻は、十五時を過ぎた辺りだろうか。陽が少し傾いている。
山道を歩いて来た故の、張りのようなものを足に感じるが、折角なので私は宿の周辺を散策することにした。
記憶の中の地図を頼りに宿の敷地を奥に進み、階段を降りると直ぐ目の前に川があった。川の周辺にはごつごつとした岩が迫り出している。上流に近いのかもしれない。
幅はやや狭く、思った程深くない平瀬で、子供でも遊び場に出来そうだ。しゃがんで指を入れてみると、冷たい水の流れが指の腹を打った。
歩き回って火照った足を、水流につければ、さぞ気持ち良いだろう。
思い付いたのだから、やってみるとしよう。私はスニーカーを乱雑に脱いで、そこに脱いだ靴下も詰めた。裸足で触れる石の感触が新鮮だ。尖っている所と、削られ丸みを帯びた所とがあるのが、足の裏から分かった。
私はズボンを捲り上げて、左足を試しに川に入れてみる。凍てつくとまではいかないが、つんと冷え切った水流が指の隙間を擦り抜けて、熱と水紋を流していく。
もう片方の足も入れ、角の取れた石が散らばる川底の上に立つと、泥が僅かに巻き上がる。冷たくて心地が良い。川の透明度が高く、自分の足が良く見える。
水場は何となく忌避感があり、裸足で岩肌に触れることに嫌悪を覚えるのだが、旅先の開放感故だろうか、今はあまり気にならない。それはこの場所の美しさもあるかもしれない。色付き始めた木々に囲まれ、木漏れ日を浴びながら、滔々とした清流の涼しげな音を聞く。何処か幻想めいた水紫山明の風景だ。
上手く説明出来ないが、私は海も川も人知の及ばない領域で、其処に無防備に立ち入るのは恐ろしいと感じる。更に言うなら、普段靴を履いていると斜面や突起物などがある場合は兎も角、そこまで地面を気にして歩かないと思うのだが、裸足で歩くと何か踏んでしまわないか、何か生き物でもいはしないかと殊更不安になるのだ。
だが、不思議と此処ではその恐れを抱かないでいる。酷く清らかで、癒される。
少し上に登れば、淵か底の見えない深い場所がある。縁の岩に座って足を投げ出し、流れに任せるのも良いかもしれない。
私が一旦、川から出て、移動しようすると、対岸からがさがさと
その子はきょとんとした顔で私を見ていたが、次の瞬間には笑顔で手招きをしてきた。
「えっと。こっち来いってことですか?」
私が問い掛けるも、その子は笑顔で手招きを繰り返すだけだった。
困って人を呼んでいる様子ではない。向こうに何か見せたい物があるのか、或いは
私は自分の靴を持って、浅瀬に戻って川を渡った。渡り切った所で、子供は駆け出す。
「あ、待ってください」
慌てて靴を履いて、藪に埋もれそうな小さな背中を追い掛ける。
ひんやりとした山の空気が、私の顔を打つ。慣れない山道に、時に転びそうになりながら、走っていると、子供が開けた所で足を止めた。私はへろへろとしながら追い付く。
「こっち、こっち」
山の中に入ったからか、空気が変わった気がする。ひんやりとしていて、まるで自分がその空間の中で異質に思えるような。デジャヴと言うのだろうか、何処かで同じ感覚を覚えた気がする。
まだ、思い出せていない記憶の中に、体が覚えているものでもあるのだろうか。
その子は息一つ乱していない。しゃがみ込む私を見て笑いながら、何処かを指差した。指の先にある景色を目に映して、私は思わず「わあ」と感嘆の声が漏れる。
高台から臨むは、連なる翠嶺。
蓁々と茂る梢が、遥か稜線を伝う風に大きく揺られ騒めいた。それでも、巨大が故、直ぐ其処にあるように見えながらも実際には彼方にある山脈は不動である。
青き峰が重なり離れて、織りなす壮大な光景に雄大な気持ちになる。山々とは、これ程壮観で優美な形をしていたのか。とても大きな力を感じる。
嗚呼、何処かで見たことがあったろうか。山稜を見ると、何かが脳裏に過っている。
記憶の淵に立てば、母がいた。
嗚呼、そうだ。あの日は、珍しく家から出る許可を貰えて、私達は車に乗って近くの景色を眺めていたのだ。降りた先にあったのは、此処とは違う道の途中の広場だ。私と同年代の子供達が草原を走ったり、遊具で遊んでいる中で、私は母と一緒にベンチに座っていた。
「遊びに行かないの?」
「母様と一緒にいる」
「そう。ほら、見てご覧。あの山を」
母が指差した先にあるのは、今見ているのと似た形の銀嶺。
「あれはとても美しい形をしているから、母も気に入っているのですよ」
「何て名前のお山なの?」
「さあ。沢山の名前があるようね。……山には神様がいらっしゃるから、きっとちゃんとした名前もお持ちでしょう。でも、あまり口に出してはいけないのよ。名前は形を定めてしまうから」
「神様なの?」
母が私の頭を撫でる。いつもの壊れ物に触れるような優しい力加減だ。
「そうです。ずっとずっと昔からいらっしゃって、とても大きな力をお持ちだから、失礼なことはしてはいけないよ。例えば、ある決まった日付の日には山に入ってはいけない。綺麗な人を山に入れてはいけないと決まりがあるから、守らなくてはならないの。破ったら、連れて行かれてしまうのよ」
「変な決まり!」
「日付はね、山神様が木の数を数える日だから邪魔しないように。綺麗な人というのは恐らく造形ではなく、綺麗な着慣れない服で山中を歩くのが不都合だから、かしらね。きっと、理由があるのでしょう」
母が私から視線を外して、遠い山を眺めた。
「昔、お前を連れて挨拶に行ったこともあるのよ」
「神様に会えた?」
「ええ」
遠く遠くを見つめるその母は譫言のように呟く。
「それにしても、げに美しき景色だこと」
その横顔がまるで別人のような儚さを湛えていたから、私は母が山神様に連れて行かれやしないかと不安になって、母の手をぎゅっと掴んだ。
また、一つ思い出した。母との思い出だ。
そうだ、この山並みに見覚えがある。見ている角度は違うけど、囲むように聳える様は覚えている。
誰かが私の手を握る。
先程の子供だ。笑顔を浮かべるこの子はまだ私を何処かに連れて行きたいようだ。
悪い気はしない。きっと、景色の良い所に連れて行って、余所者の私を楽しませようとしてくれているのだ。
「此処から見えるのは、美しくて素敵な景色ですね」
「お気に入りなんだ」
口数は少ないが、何処となく嬉しそうだ。
「次は何を見せてくれるんですか?」
返事はないが、私はわくわくとした気持ちで子供の手に引かれて山中を進む。
道らしい道は何処にもないにも関わらず、子の足取りは迷いがない。この子と逸れたら私は遭難してしまうだろう。
置いていかれないように、しっかり手を握っていた。
道なき道を縦横無尽に歩いているのかと思っていたが、よく見ると細く道のようなものがあるのが分かった。草が生えていなかったり、生えていても歩き易いように向きに癖がついていたりしている。所謂、獣道なのだろうか。
私達はどんどんと山の奥へと入って行く。彼は時折、美しい景色や興味深い自然の有り様等を教えてくれる。その度に私はこの山の無作為に思える配置が、如何に結び付いて、バランスが保たれているかを知った。思い起こされる様々なものも同時に頭の中を駆け巡る。
背の高い木々が増え、鬱蒼とした雰囲気を作り出していく。倒木の虚にはきのこが生えていたり、表面に苔が覆っていたりと、日差しが差し込みづらいからだろうか、湿度が保たれているようだ。
開けた場所に出た。
落ち葉が剥き出しの土を隠して、赤朽葉色の道を作っている。その先にあるのは鳥居と小さな社だ。
周りを見るが、参道は何処にもない。山の中でぽつねんとその神社は存在していた。
朽ちかける直前のような様相だ。何処もかしこも苔生して、手入れが入っていないように見える。それでも不思議なもので、酷く神聖な空気が辺りには漂う。山中も涼しかったのだが、此処は更に涼しい上、澄み切った雰囲気で、鳥の声も聞こえない。そして、その空気は何処となくぴんと緊張しているようにも感じた。
子供は私の腕を引っ張って、社の方へ連れて行きたがっている。
半ば引き摺られながら、鳥居を潜る。余所者の私が突然このような場所に来ても大丈夫なのだろうか。
社の前には筵が一枚敷かれているので、踏まないように距離を取りつつ、目の前に立った。小さいながら存在感のある社だ。古い木材はしっかりとした造りで、観音開きの扉は固く閉ざされている。暗い深みのある色をしているが、元は檜などの明るい色だったのだろう。
手でも合わせた方が良いだろうかと逡巡していると、子供が突然筵の上で蹲った。
「え、大丈夫? どうしましたか?」
声を掛けるが、返事はない。
もし具合が悪いとなったら大変だ。私は麓までの道を全く知らないのだ。
役に立たない私がわたわたとしていると、座り込んだ子供が此方に振り向いた。綺麗に背筋の伸びた姿勢で、私を見る顔付きは先程とは様変わりして、ぴんと張った糸のような気配を帯びている。具合が悪そうな様子はない。
「あの時の子が、大きくなったものじゃな」
「え?」
子供がまるで老人のような嗄れた声を発する。
「稚児と思うていても、人は忽ちに大きくなるものじゃの」
「ちょっと状況が分からないんですが、貴方は同一人物ですか」
自分で言っていて、よく分からなくなる。
すっかり別人のような口ぶりと態度だが、二重人格みたいなものだろうか。それとも、演技なのか。或いは、イタコのような憑依か。
明らかに私よりも年下なのだから、私が子供の頃に会ったことなどない筈だ。この子が演技しているのでなければ、中に別の大人の人格が入っているとしか考えられない。
「覚えておらんのか」
「お会いしたことがあるんでしょうか。すみません、覚えてなくて。特に子供の頃の記憶が朧げで」
子供が近付いて、ぐいと私の顔を覗き込む。茶褐色の瞳が私の目を真っ直ぐに見る。それは自分の奥底まで見通されそうで、僅かに私は恐怖を抱いた。
「嗚呼、成程。自身の記憶を材料に、蓋にしておるのか。それでは、覚えてなくとも仕方あるまい」
「蓋?」
「お前さんの中の穴を閉じる蓋じゃ。中途半端に閉じられておるようじゃな。お前さん、本能的に全てを塞ごうとしたか? しかし、この閉じ方、否、崩れ方は無理矢理腕でも突っ込んだのかのようじゃな」
私の中のあの世の門は中途半端に閉じられている。初耳という訳でもない。千歳さんの話を思い出すと、本来この門は生きた人間さえも通すことが出来るサイズで、今は狭まっているのだそうだから、今の発言と当たっている。信憑性が上がったと言えるだろう。
しかし、それが私の記憶喪失と関連があることは初耳だ。
忘れたくて、忘れた訳じゃなかったのか。
それよりも、初対面の筈のこの子が何故、門のことを知っているのか。
「貴方は、何者ですか?」
慎重に問い掛ける。
恐れは抱くものの、嫌な気配はしない。しかし、もし何かが憑依していて、この子の体を好きに使っているのだとしたら、警戒をすべきだろう。というより、取り返す方法を考える必要がある。
交わした言葉こそ少ないが、この子には素敵な景色を見せて貰ったし、短い間でも親しみを持てた。もし、私の印象が間違いで、今喋っている存在が悪しきものであった場合は助けてあげたい。
子供はかんらからからと、見た目に似合わない笑い方をすると、好好爺の如き笑みを浮かべた。
「そう警戒せんでも、取って食ったりせんわい。そして、お前さんが怪訝に思うことは、然程大きな問題ではない」
「私の心、読んでますか?」
「読んではおらん。じゃが、人の子が儂を前にして思うことは往々にして似通っているものじゃ。子の心配を一番にする物好きはそうそうおらなんだが」
「恥ずかしながら、一番に考えた訳ではありませんが。でも、子供の様子がおかしければ助けようと考えるのが普通でしょう」
「得心が行った。お前さんなら、儂の願い事を叶えてくれるじゃろう」
「願い事、ですか?」
子供はどっこいせと言いながら、社の近くの筵の上に腰を下ろす。そして、私にも座るよう促した。
社の直ぐ傍の石畳はひんやりとして、布地を通り抜けて冷たさが直に当たるようだ。
「先ずは自己紹介するものだったか。呼び名に困るものな」
ぶつぶつと言い終わると、子供は私を見た。見た目の年齢と合わない、老成した深い眼差しだ。
「呼び名はそうじゃな、いーちゃんとかで良いぞ」
そう言って、いーちゃんはにやりと笑った。
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