第38話 雑木の宿

 さて、いよいよ実家に向かう時が来た。


 現在時刻は午前六時。


 楽號から場所を聞いた所、かなりの遠方なようなので、何処かで宿泊する必要がありそうだった。千歳さんの話がどれくらいの時間が掛かるか分からない以上、長めに一日と取っておくと、向かうのに一日、話を聞くのに一日、そしてその日の内に帰るから、合計で一泊二日と言った所だろうか。


 家自体は山奥にひっそりとあり、バスも電車も付近にない。宿泊場所は安い宿を見つけたので、そこを利用するとして、向かう手段はかちかタクシーを拾うしかなく、財布事情を考えて、徒歩一択で目指すとする。


 県を跨ぐので、交通費だけで大分厳しい旅になる。それに宿泊代と食事代と、今回は同行しないが協力者である如月に何かしらのお土産と、諸々の雑費。どんぶり勘定でもそれなりの額になる。嵩む出費に懐が寒い。しかし、人生の岐路に至って、つまらぬことで渋っていては、機会を見誤るやもしれない。此処はどんと来いと構えて行こう。そして、それはそれとして絞れる所は絞って行こう、主に食費辺りなどを。


 キャリーケースやらの旅行用鞄は持っていないので、手持ちの中では一番大きなリュックに着替えなどを詰め込む。元々荷物の多い方でもないので、丁度良いサイズだったかも分からない。


 同行する楽號はそわそわとしているが、鞄に最初から全部入っているからと言って、準備らしい準備作業はしていない。今もおにぎりと卵焼きを食べている。


 私は旅程ノートを見返す。電車の時間も交通費も地図も纏めてある。予定の列車に乗り損ねても、どうにか出来る。


 まずは宿に向かうのが、一日目の目的だ。そして、次の日に千歳さんと会う。そして、話が終わり次第、もと来た道を戻り、帰宅する。


 確認を終えて、私は鞄にノートを仕舞う。いつでも出発出来る。準備完了だ。

 私は鞄から離れ、楽號と同じくおにぎりと卵焼きにありつく。甘く味付けされた卵焼きは、朝の鈍い舌に丁度良い。食べ終わり次第、家を出る。


 鈍行列車に揺られて五時間、バスに揺られて一時間、歩き出して半刻。陽はすっかり中天を越えた。道中、唐突に置かれていたベンチで、楽號が拵えてくれたおにぎりを昼食に食べる。ここから先は山道になる。その前に精をつけておこう。


 ラップに包まれたおにぎりの中には紫蘇昆布が入っていた。塩辛くもさっぱりと甘い味わいに、私はひと時疲労を忘れた。新米なのか、冷めてもお米が艶々としているし、味も落ちていない。


「おかずも作れば良かったかな」


 同じくおにぎりを頬張る楽號が呟く。


「え、これだけで充分ですよ。中に具が入ってますし。美味しいし。それにしても、外でこうして食べると、ちょっとしたピクニックみたいで楽しいですね」

「そうだね。天気がよくてよかったね」


 見上げると、青色が遍く天を覆っている。薄く見えるそれは、何処までも続いていて、端が見えることはない。雲もなく、晴れ渡った空は実に爽快なものである。澄みきった空気に満ちていて、胸に思い切り吸い込むと、冷えた土の匂いがした。


 遠くの山が薄青に霞んで見え、稜線はなだらかに連なる山岳を縁取っている。夏のコントラストのくっきりした空に比べ、秋空は一体感があるように感じる。全てが薄く、青い。そのせいか、ずっと眺めていると距離感が分からなくなり、まるで直ぐ目の前に広がっているようにも、空が落っこちて来ているようにも錯覚させられる。


 紅葉も始まっていて、視界に入る木々はまだ緑色が多くあるが、一部は赤や黄色に美しく山々を彩り始めている。些か時期尚早ではあるが、これはこれで絵になる風景だろう。


 食べ終わると、私達はまた歩き始めた。


 こんな所に本当に宿などあるのだろうか。人気がないを通り越して、森の中だ。しかし、地図にはこの先とある。


 楽號をちらりと盗み見るが、気にした素振りもなく歩き続けていた。


「楽號はこの辺り来たことあるんですか?」

「あんまりないけど……あー、一回だけ来たことあるな。宿なんてあったかなあ」

「道は合ってる筈なんですけど」

「なんで態々こんな森の中の宿にしたのさ。もっと駅に近い方が楽じゃない?」

「調べてたらビビッと来まして。後、滅茶苦茶安かったので」

「それは大事だな」


 倒木を跨ぎながら、楽號が同意する。アスファルトで塗装された道はない。草木が生えていないから、石が敷かれていた名残があるから、此処は道なのだろうという判断で進んでいる。


「この辺りは、靏蒔の家の恩恵を貰っている家が多かったんだが、すっかり寂れてるな」

「恩恵ってどういう?」

「生きていくには色々必要だろう? 食べ物とか、着る物とか、道具とか。そういうのを生産したり作製する家があったんだ。でも、靏蒔という大口顧客がいなくなって、仕事がなくなったんだろうな」

「ちょっと大きい会社が倒産すると、取引してた中小の会社の仕事もなくなって、一緒に倒れちゃうみたいな感じですか?」

「そうそう。この世には多種多様な職業があるからね。例えば、旅館だって、潰れても僕らからすれば、泊まる場所が一個なくなるだけだと思うだろ? でも、そこが潰れたらそこに食材卸してた会社や食料を作る農家、漁師もダメージ受けるし、物流の人もお金貰えないし、観光客が旅館分いなくなるから周辺のお土産屋もダメージを受ける。それでお店が閉店したりすると、シャッター閉まってばかりの観光地に人は魅力を感じないよな。という訳で、観光地がまるまる駄目になって、立ち行かなくなるということもあり得る」

「見えない所で支え合ってビジネスって成立しているんですね」

「まあ、運営とか儲けに関わる裏方の部分だからね、見えなくても仕方ない所はあるんだけど。企業って思ってるより、他の沢山の企業と繋がってるという意識はあってもいいと思うよ。就活? とかに使えるかは知らないけど。それで、何の話してたんだっけ」


 私は頭の中を掻き混ぜる。


「周辺の家がなくなっているみたいな話じゃなかったですか?」

「それだ」


 荒れてはいるが、踏み均された道はしっかりと硬い。まだこの道を使用している人がいるのかもしれない。

 周りの杉の梢が、ざわざわと揺れる。風が吹いたようには感じられなかったが、高い位置にだけ吹いたのだろうか。


「なくなったせいかな。それとも時間が経ったからかな。道も此処まで酷くはなかった筈なんだけど」


 少しずつ、石で作られた道が現れて来る。緩やかな斜面であったから、特別疲労感が増した訳ではないが、石を伝って歩けると足元が楽に感じた。こうして、加工された道が出て来たということは、目的地に近付いてきているのだろうか。


 杉林を抜けると、アスファルトで塗装された車道が出て来た。文明のある場所に戻って来られた安心感がある。

 車道は私達の進行方向である北と、西に伸びている物で、今抜けて来た道は南東からやって来た形になる。車で来るなら、駅から大分西へ遠回りしなければ、此処まで辿り着けないようだ。


 歩いたのは一時間程だろうか。時間短縮と言える程のショートカットではないだろう。寧ろ、この足の腫れを思えば、車で来た方が断然良い。私のようにそれを行えない理由がなければ、だが。


 兎も角、此処からはアスファルトの坂道を登った先に宿がある筈だ。近くに看板も立てられている。

『宿泊 雑木』と書かれているが、こんな木々が茂っている場所で、雑木を名乗るのはどういう理由なのだろう。紛れてしまわないか。商売とは目立ってなんぼだとばかり考えていたが、隠れ家風というのだろうか、目立たずシックに纏めた方が受けが良いのだろうか。


 十分も経たずに、宿に辿り着く。本筋から少し横に逸れた道にそれはあった。

 思っていたよりも大きな建物だ。古い日本家屋とでも言えば良いのだろうか。親戚関係が断絶している私はあまり田舎と縁がなく、都心のビルとマンションに囲まれた立地においてはこういった古い木造建築は珍しく、馴染みがない。

 母屋と別の平屋一棟とが並んでいる。母屋の入口は木枠のガラス戸で、引き戸になっており、恐らく此方がチェックインなどのやり取りをする建物なのだろう。

 ならば、平家は家主の住宅スペースとかだろうか。


 予定時刻を少し過ぎたが、その方が丁度良いだろう。


「こんにちはー」


 ガラス戸を開きながら、挨拶をする。この玄関口で靴を脱ぐようで、傍には靴を入れる棚が並んでいる。建物の中も全部木で出来ていて、経年故の味のある艶が床にある。暫くすると、奥の方からぱたぱたとした足音と「はいはい」と返事が聞こえて来た。


 従業員用の通路なのであろう、暖簾の掛かった部屋から出て来たのは、背中の曲がった小柄なお爺さんだった。


「お待たせしてすみませんね。本日、ご予約の方ですね」

「はい、そうです」

「はい、はい。私、生島浩三いくしまこうぞうと言います。ようこそ、こんな辺鄙な所へ良くいらっしゃった。先ずはお部屋の方、ご案内致しましょうか。荷物、お持ちしますね」

「リュック一つだけなので、大丈夫ですよ」

「そうですか。そうですか。では、此方へ。靴はそのままでよろしいですよ」


 腰の前掛けで手を拭きながら、角度が急な階段を上がって行く。私は靴を置いて、彼に着いて行く。楽號は靴を持って、部屋に向かうようだ。


「此処のお二階が宿泊スペースでね、本日は此処に泊まって頂きます」

「外にあった平屋は何ですか?」

「彼処の奥にあるのは風呂場になってます。後でご案内します」


 生島さんは部屋の戸を開けると、私に中に入るよう促した。言う通りに中に入ると、普通の廊下があり、奥の扉を開けるとリビングがあった。

 旅館によくあるような畳の部屋の中心に机と座布団があり、壁際には掛け軸の飾られた床の間と、その隣には違い棚がある床脇で、まさに和室といった様相であった。


「先ずはお掛けになって頂きまして、そして、ちょいと書いて貰いたいものがございまして」


 と言って、紙とペンが差し出される。紙には名前や住所を書く欄がある。宿帳だろう。古い探偵もののドラマに偶に出て来るのを見たことがある。そういったものに出て来る時は、大概偽名が書かれている物だ。こうして実物を見るのは初めてだ。

 少しうきうきとしながら、ちゃんと本名を書き込んで、生島さんに返却する。

 受け取った生島さんはそれをポケットに入れると、机の上に置かれていた、手作りのパンフレットを手に取り、私の前に開いて置いた。そこには地図が載っており、彼は指を差しながら、丁寧に説明してくれた。


「今、いらっしゃるのが此方の母屋になりまして、お風呂は一度外に出て貰わなければならないんですが、先程見られた此方の平屋ですね。午前三時から四時までが掃除なので、申し訳ないんですがね、それ以外のお時間にお入りください。お食事は母屋の広間で取って頂きます。御夕食、午後六時から食べられますけど、何時からになさいますかね?」

「えーと、では、六時でお願いします」

「承知致しました。では、お時間になりましたら、直接広間の方へ向かってくださいね。もし、分からないことがありましたら、私は主に此処におりますので、お電話でも対面でもお好きな方でお声掛け頂けたらと思います」

「分かりました。此処って生島さんしかいらっしゃらないんですか?」

「いえ、私と板前と孫がいましてね。人数が少ないもんで、色々とご迷惑をお掛けしてしまうかも知れないんですが、何かあったら直ぐお呼び頂いて問題ありませんからね。嗚呼、後、孫がうろちょろしてますが、気になさらず、ゆっくりとお休みくださいね。えー、では、失礼しますね」


 朗らかな笑顔で、生島さんが退室する。私もなんだか、笑顔でそれを見送る。

 戸が完全に閉まったのを確認してから、私は思いっきり伸びをした。


「悪くない宿じゃないか」

「正直、屋根があって寝られるなら良いかみたいな感じだったんで、ラッキーでした。辺鄙な場所にあるから安いんでしょうか」

「さあ、よく知らないけど、結構いい感じじゃないか? 後、あのじいさん、僕のこと見えてたな」

「え、そうなんですか?」

「ちらちらと見ていた。まあ、靏蒔の家と近いから、そういう人がいてもおかしくないけどね。何も言って来なかったということは特に問題もないだろう」


 楽號が部屋の隅に鞄を寄せる。そして、座布団を三枚使って寝転ぶ。


「疲れた。僕はちょっと休む」

「分かりました」


 疲労感はあるが、そこまでの眠気もない。なら、散策にでも行こう。どうやら手作り冊子に書かれてることには、宿の近くに景色の綺麗な場所があるようだ。それを見に行ってみよう。


「少し出て来ます」

「あまり遠く行くなよ。連絡は直ぐ取れるように」

「直ぐ其処迄、見に行くだけです」

「うーん。芒聲もいるしな。君、今、何か持ってる?」


 唐突な質問に疑問を覚えながら、私はポケットを漁る。出て来たのは、お守りのついた携帯と飴玉二個だ。以前は鞄につけていたのだが、より身近な所に置いておけと楽號に言われて、つけ変えたのだ。

 手に持ったそれを楽號に見せると、「お守りはあるな。じゃあ、飴玉一つ頂戴」と言われたので、いちごミルク味のそれを手渡した。


「急に何ですか?」

「君って直ぐ巻き込まれるから、念のための確認」

「そうですか。遠くには行かないので、大丈夫ですよ。では、いってきます」

「はーい。気をつけて」


 靴を履き直して、私は部屋の外へと出た。





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