古きもの

第37話 貴方と私の境界線

 夢を見ていた。

 酷い悪夢だ。


 誰も彼もが助けを求め、そして、それを同じ顔をした人々が殺めていく。逃げ惑う人々が押し寄せて、躓いた人々を踏みつけて進む。縋り付く先には一筋の光。それすらも、辿り着いたと思った途端に雲が閉じ、辺りを薄闇が覆う。怒号と哀訴が響き渡り、また誰かの悲鳴があがる。

 阿鼻叫喚の地獄絵図。悪意と悲嘆の坩堝のような悍ましい光景。


 目を閉じ、耳を塞いでいられたらどれだけ良いだろう。だが、此処にいる私に瞼はなく、自由に動く腕もない。唯、人魂のようにぼんやりと立ち竦んでいて、駆け回る人々が透明な私の中を通り抜けて行く。


 嗚呼、また、誰かが死んだ。誰かが殺したからだ。

 愚かしいことだ。


 人殺しはいけないことだ。私達は子供の頃から、それを何度も教え込まれる。とても恐ろしいことで、悲しいことで、許されない行為であると。

 私も同じ考えだ。絶対に許されざることだ。

 そして、こうも考える。人を殺すこと、それは自分を殺すことと何が違うのだろう。


 道徳的な観点では、語り尽くされていよう。私が考えるのは社会的な観点からだ。


 殺人が罷り通る世であるならば、それは自分の身にもいつかは降り掛かるかもしれない。そも、人は社会の中で生きる生き物。そして、社会とは普段視認出来なくとも、お互いを支え合って作り上げられているものだ。ならば、それを構成する他人を殺すことは、自らの生活基盤を破壊することと同義ではないか。


 情のない考えだと我ながら思うが、それ故に、この世が如何に人の善意で成り立っているかも分かる。助け合うのが前提の世界がずっと続いているのが、その証明になるだろう。


 ふと、頭を過ったのは、魅力的な笑顔の人。

 自らの手で自らを殺すとは、どれ程の覚悟をもって成されることなのだろう。


 私は人を殺せと命じられても実行出来ないだろう。臆病の虫が私の肚の中で騒ぎ立てるだろうし、それを成し得てしまえば、罪に耐え切れないと分かりきっているからだ。


 だが、時折ふと思う。自分を手に掛けることなら出来るかもしれないと。それは、他人を傷付ける行いでないからだ。


 自分か他者かの大きな隔たりがあれど、一つの命を終わらせることは同じだ。しかし、自身が多大な苦痛に苛まれると分かった上で行った所業は、やはり、一方的に他人を蹂躙する行いとは毛色が異なる。


 そうは言っても、それは机上の話で、実際に実行するとなれば、私は何も出来なくなるのだろう。


 それ程の決断をし、完遂した人に、私は何が出来たろう。救おうなんて、大それた考えは端からない。

 でも、私は何か助けになりたくて、少しでも笑って欲しくて、何故そう思うのかも明確な言葉に出来なくて。生きている内に出会えたなら止められただろうかなんて、絶対に口に出せないもしもを思ったり、もう少し長く話せたらだとか、気を紛らわせることが出来たらだとか、そんな不毛なことを考えたりしては、何も成せない自分に打ち拉がれる。


 何故、それ程の苦しみの中で生きていかなければならないのだろう。生き物は、人間は、何を目的として、憂き目を耐え忍ぶのだろう。


 殺してはならない。それは自身を守るため、他者を守るため。だが、角度を変えれば、無闇に死んではならない、辛くても生きなければならないという束縛になる。

 人を殺めることがそれ程の罪科であるならば、死ぬことがそれ程までに許されぬ罪悪ならば、何故彼女にそれを成し掛けさせるような、そうせしめるような苦しみが与えられなければならなかったのか。


 嗚呼、唯、悲哀に揺蕩い、涙を川にして何処までも流れて行きたい。瞳に何も映さぬように、瞼を閉じたままで。微睡むように、そうして、遠くない未来に。


 遠くから、声が聞こえて来た。

 この世は全て繋がって構成されている。個々が結び付き、その結果、大きな世界を作り出している。嘆き悲しむ人も、名もなき花も、大いなる遺物も、束の間の栄華も、その内の一つの要素に過ぎず、それさえもいつかは滅び去るもの。

 そう思えば、普段、お前が己の全てと自覚する己が人体さえも、所詮はひと時の仮初の器、春の夜の夢の如く儚いもの。

 春が過ぎ、夏が闌けて、秋風が吹く。そうして、冬が訪れるにつれて、遍く全てのものは潰えていく。それは誰にも変えられない、此岸の摂理。

 その中で、お前が生きる意味とは何だ。


 私は答えに窮した。

 意味など、価値など、私にあるのだろうか。無限とも思える夥しい量の要素の内の一つに過ぎない、ちっぽけな取るに足らない命だ。


 取るに足らないのなら、あってもなくても同じことではないか。なら、私が死んでも、誰も困らないのではないか。


 私が挙げた殺人を否定する理由は、その行為そのものが齎す社会への影響にあった。だが、それだけでは、当然ながら倫理面での言葉が足りない。人の命への尊重がない。


 少し考えるだけでも分かる。命は其処に在るだけで尊いものだ。奪われて良いものの筈がない。誰にでも平等にある不可侵の権利、それは社会の前提としてある筈だ。


 だが、今、私は自らの命を貴ぶ理由を見付けられなかった。其処に在るだけでは許されない気がして、特別な理由を模索して、霧中に迷い込んだ。


 急に不安になる。舟の上、ボラードに繋げたロープも切れ、オールも流されてしまったような。何も出来ず、水の流れに身を任すしかない、ほんの些細な働きで途端に水に飲み込まれてしまう状況にあるような、そんな心許ない気持ちだ。


 先程迄、私は揺蕩っていたいと願った。だが、今になってその頼りなさを理解し、遠ざけようとしている。なんて浅はかなのだろう、なんて愚かしいのだろう。都合の良い夢だけを見ている。


 その時、誰かが私の直ぐ横に倒れた。素性も分からぬ他人だ。立ち上がることも出来ずに、力尽きようとするその人は、それでも踠こうと僅かに手を伸ばしている。


 私に腕はない。私に足はない。声も上げられぬし、その場から逃げ出すことも出来ない。唯在るだけ、唯見ているだけだ。


 それでも、存在しない声帯を震わせようとして。その人に腕を伸ばそうと、抱き起こそうと足を動かそうとして。


 果たして、それに意味はあったのか。



 ────────────────────



 反射的に起き上がった。


 暗闇の中で、短く呼吸を繰り返す。目の前には、見慣れた壁がある。手や足を動かして、自分の四肢がくっ付いていることを確認する。


 少し視線を斜め下に動かすと、隣の床で蓑虫のように布団に丸まる楽號がいた。それを見ると、落ち着いて、呼吸がゆっくりになっていく。大丈夫だ。此処は現実だ。夢じゃない。


 胸の動悸が止まらない。涼しくなったというのに、汗もかいている。気持ちの悪い感覚に、不快感を覚える。


 枕元の携帯電話を見ると、時刻は午前三時だった。

 前も、こんな感じで夜中に目が覚めた気がする。だが、気分は今回の方が悪い。内容はあまり覚えてないが、胸が痛くなるような悪夢を見ていたように思う。


 暗い海を掻き混ぜるように、昏い脳内を探るが、夢の内容は思い出せそうにない。変に思い出そうと頭を働かせたからか、目が冴えて来てしまった。


 一旦、水でも飲んで落ち着いてから、寝直そう。


 楽號を踏まないように、起こさないように、慎重にベッドから出て、キッチンを目指す。ひんやりとしたフローリングの感触が、足裏から伝わる。

 どんなに気を付けても、肌に吸い付き離れるぺたりとした足音は隠せない。


 引き戸に手を掛ける。今回は嫌な気配もない。


 携帯電話の明かりを頼りに、食器棚からグラスを出し、水道水を注ぐ。一息に呷って、胃に流し込む。少し、気分がすっきりした気がする。


 グラスを近くに置いて、私はシンクを覗いた。こないだ磨いたばかりだから、水垢もなく、綺麗だ。仄かに部屋に入る明かりを、微弱に反射している。


 私は何となしに、それをずっと眺めていた。


 そうしたかったから、という訳でもない。本当に何となく、それをぼーっと見ているのが、心地良く感じたのだ。


 視界がシンクで埋め尽くされるような気がした。排水溝に吸い込まれるような気もした。距離感が曖昧になって、平衡感覚さえも狂ってくる。傾いているような、浮かんでいるような。それでいて、足の裏には確かに硬い床の冷たさがある。そうしていると、首に何かが触れた。それは私の首をゆっくりと締めていく。息苦しさと、肌を擦る痛みとが同時にやって来る。少しずつ、床の感触が遠くなっていく。なのに、私は抵抗せずに受け入れていた。

 だって、こんなにも辛いのだから、何も感じなくなった方が良いでしょう。


「おい」


 誰かが私の肩を引いて、無理矢理振り向かせた。振り向いた先にあったのは、楽號の顔だ。

 床の感触が戻って来る。いや、そもそも私の体は浮いていない。感覚だけが吊り上げられていたのだ。


「何してんの」

「水を」

「今、君の首にロープが掛かったのが見えた」

「嗚呼、あれ、夢じゃないんですね」

「能天気な。首、見せて」


 楽號が私の顎を無理矢理上げて、首を見る。

 息苦しさはもうないが、擦れた痛みが残っていた。気を抜くと、またあのロープのささくれた触感がやって来そうな予感がした。


「少し赤くなってる。痛くない? ねえ、何があったの」

「分かりません。シンクを見てたら、ゆっくり首が絞まっていって」

「なら、助けを呼ぶなり、抵抗するなりしなよ。これが初めて?」

「初めてです」

「そうなることに心当たりは?」

「ないです。……あ、そういえば、楽號が初めて家に来た時に、私の中に入って行った首吊りの地縛霊は、此処のシンクを覗いてました」

「同化かな。その割には時差が大きいな」


 楽號が聴き慣れない言葉を口にする。

 私がその言葉の意味を聞き返そうとした時、楽號が私を抱き締めた。少し痛いくらい力の篭った抱擁だ。皮膚と寝巻きを通して、彼の体温が私へと移っていく。

 私は混乱して、聞き返す言葉も掻き消えてしまった。


「あの、楽號」

「分かるか?」

「何がですか?」


 私より少し背の高い彼の肩に顎を乗せながら、問い掛ける。楽號は力を緩めずに答えた。


「君と僕の境界だよ。何処までが自分の体で、何処からが僕の体なのか、区別ついてる?」


 自分と他人との境界線。皮膚に覆われて、それに遮られて、私達は一人を成立させている。


 布団から抜け出して水を飲み、体を冷やした私と、今の今まで布団で暖まっていた楽號。その区別はとても付きやすい。


「息を吸って、吐いて。そう、ゆっくりと繰り返すんだよ」


 楽號が低く落ち着いた声で、言い聞かせるように囁く。

 他人の体温が心地良い。楽號の匂いがする。途端に私は眠気に襲われる。少しだけ、彼に体重を任せる。


「同化とは、霊の意識と自分の意識が混ざり合うことを指すんだ。憑依と違うのは、憑依が霊そのものが肉体に乗り移るのに対して、同化は霊の残滓や記憶に触れた人が一時的に陥る現象だ。霊の過去を追体験したり、まるで自分が霊本人になったように錯覚するんだ」


 先程のシンクを覗き込む私の行動も、かつてこの家に現れた彼の行動の追体験だったのだろうか。何もないシンクを彼は何を思って眺めていたのか。漠然とした辛さは感じたが、仔細までは私には感じ取ることが出来なかった。


「要はね、自他の境界が曖昧になってるんだ。だから、こうして境界線を意識させれば、同化は解除される。それで、もう落ち着いたかな」

「分かります。ちゃんと区別付きます」

「そう、ならもう大丈夫だ」


 楽號が腕を解いて、私を解放する。途端に温もりが失われる。

 名残惜しい酷く懐かしい心地がして、私はそれに縋り付きたい気持ちになって、既の所で手を止めた。宙ぶらりんになった手で自分の腕を抱くと、冷たい指先が二の腕に当たる。


 やはり、私は何処かで貴方と会ったことがあるのではないか。だって、こんなにも懐かしい。そんな予感が如き曖昧な根拠で思い付きを払拭し切れず、残り香だけが脳に滞留する。


「もし、似たようなことが起きたら、今度は直ぐに僕を呼びなさい。僕がいなければ、如月でもいい。触れ合う面積が多ければ多い程いいけど、難しいなら握手でもいい。兎も角、誰かに触れるんだよ」

「分かりました。ありがとうございます」

「疲れたろ。今日はもう寝よう」


 楽號が私の腕を引っ張って、私を寝室へ連れて行く。再び触れた温度に安らぎを覚えながら、着いて行く。ロープが来る予感はもうない。


「起こしてしまってすみません」

「緊急事態だろ。ノーカウントだ」


 促されてベッドに潜り込み、目を瞑ると、直ぐに柔らかい闇が私を包んだ。

 次に目を開けた時には、すっかり陽が高く、私は一限を遅刻した。





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