第35話 瞳の奥から

 次の日の早朝、私と楽號、如月は達さんのいる屋上へと向かっていた。

 如月は安全確保のために昨日も私の家に泊まり、そのまま一緒だ。


「芒聲、いるんだろ」


 道の途中、人気のない地点で楽號が声を掛けると、近くの家の塀の影から芒聲さんが姿を現した。服装は相変わらず、葬式のような陰気な黒いスーツで、その手に鎌はなかった。


「何ですか。偉そうに呼び付けないで頂きたい」

「君にも協力して貰いたい」

「意味があることとは思えませんね」

「まだ、何も聞いてないだろ」

「さっさと回収すればいいでしょう。勿体つけて、何を企んでいるんですか。彼女がまた人を襲えば、あなたの責任問題になりますよ」

「だから、まだ何も言ってないだろ。聞けって!」


 楽號が事情を説明している間、芒聲さんは真顔で聞いていたが、私も電話で聞いたある事実を聞くと、ほうと声を漏らした。


「そういうことであれば、協力しましょう。具体的にはどうすればよいですか?」

「飯口達が飛び降りようとしたら止めて欲しい」

「分かりました」


 芒聲さんが如月に視線を投げ掛ける。


「彼女はいても問題ないのですか」

「恐らく、大丈夫だ。僕も守るしね」

「此処まで来たなら、私も最後まで見届けたい」


 如月が主張する。万が一を考えると、彼女には自宅に待機しておいて欲しかったが、此処まで協力して貰ったのだ、最後まで見届けたい気持ちを尊重したい。

 また、如月の身の安全については、楽號が受け持つことになっているので、恐らく大丈夫だろう。


 準備は整った。後は、私の手腕次第だ。責任重大だ。緊張して来た。


 私達一同はマンションに入り、屋上を目指す。五階分を上がると、屋上へと繋がる、前見た時と同じ無機質な灰色の扉があった。

 あの時は、開けられなかった。だが、今なら躊躇わずに開くことが出来る。

 ノブを捻り、重みのある扉を体を使って開くと、あの時と同じく、達さんが金網の傍に立って道を見下ろしていたが、音に気付いて此方を向いた。親しみのない、無遠慮な眼差しだ。


 その視線に僅かに萎縮を覚えたものの、足を止めずに進み出る。


 達さんは金網から手を離し、縁に座った。そして、少し戸惑ったような、それを隠し切れていない顔をした。


 その頭上には、変わらず大きな目が見下ろしている。彼女の良心であり、そして、彼女の意思に関係なく存在し続けるもの。


「それで、何の用なの。あんた、昨日も来たよね。どっかで会ったことある?」


 達さんが突き放すような口調で言い放つ。


 私は息を吸って、吐き出した。そして、意を決して、口を開いた。


「達さん」

「初対面の癖に馴れ馴れしい」

「いえ、達さん。あなたは私のことを覚えていますよね」

「覚えてない」

「覚えていますよ。だって、全部覚えているから、忘れられないから、貴方は飛び降りを繰り返しているんじゃないですか」

「意味が分からない」


 達さんは自分の爪を見始める。これ見よがしに振舞われる拒絶に、私はめげそうになりながら手に力を込めた。


「じゃあ、何故貴方は飛び降りるのですか? 毎日、此処で」

「死にたくなるの」

「どうしてですか」

「何で言わないといけないの」

「私達はその答えかもしれないものを導き出しました。だから、答え合わせがしたいんです」


 三白眼が私を睨め付ける。


「あんた達にあたしの何が分かるの」

「分かりませんよ。私達は状況から読み取れるものしか分かりません。でも、貴方が苦しんでいることは分かります」

「苦しみ……。そうね、苦しみはある」

「貴方の苦しみは、忘れたいのに忘れられないことじゃないですか?」


 達さんの唇の動きが止まる。

 早朝の高台の風は冷たく、頬を打つ。彼女の髪もない混ぜられて、表情を見えなくさせた。


「貴方が忘れたいことは、宇留鷲理紗さんを食べてしまったこと、ではありませんか」


 彼女が突如、立ち上がる。周囲に緊張が走るが、達さんは立つだけで、他は何もしなかった。

 どくんと跳ねた心臓に痛みを覚えながら、私は言葉を続ける。


「貴方の死にたい理由は、忘れたいことを忘れられないから。罪を自覚した途端、罪悪感から死にたくなるのではありませんか」

「それ、は」

「貴方は全部覚えてますよね。記憶に蓋をしようとして、でもつい中身を覗いてしまう。だから、いつも耐え切れなくなって、飛び降りる。そして、また忘れたふりをし続けるんです」


 達さんは泣き出しそうな顔をしていた。必死に反論しようとしているのに、何も言葉にすることが出来ないでいる。


「ある事情から自ら死を選んだ貴方は、体から魂が抜け出し霊となった。その後、バランスが崩れて、悪霊となった。そして、宇留鷲理紗さんを取り込んだ。その結果、貴方はバランスを取り戻した。その後、貴方は此処で道を見下ろしていたが、宇留鷲さんに似ていた人を見つけて、付き纏うようになった。これが、今回の事件のあらましです」

「違う、違う」

「何が違いますか?」

「あたしは理紗のこと食べてない! 何言っているのか分からない! 何も覚えてなどないわ!」

「いいえ、貴方は覚えている筈です。体を壊して、記憶を飛ばしても、貴方は一部始終を冷静に見ていたんですから」

「あんたの言うことは一つも分からない!」

「では、何故、宇留鷲さんの所ではなく、如月の元に現れたんですか? それは、貴方が既に宇留鷲さんに会えないと分かっていたからじゃないですか」

「嗚呼、ああ、違う。分からない。分からないのよ、本当に」

「いいえ、貴方は分かっています。だって、ずっと見ているじゃないですか」

「分からない!」


 頭を抱えて、達さんは叫ぶ。

 私は一歩、彼女に近付いた。警戒する彼女が、身構える。


「貴方はちゃんと良心を持っていた。自分の行いが許されないことだと知っていた。だから、自分を裁くために、見過ごさないために、自分で自分を監視した。今の貴方の苦しみは、罪を自覚しながらも、そこから抜け出そうとしている自分から生まれた罪悪感です。更に、その罪悪感を忘れてはならないと考えながらも、忘れようとしている後ろめたさ」

「……私の罪。そう、私は許されない。許せなくて、自分を許せなくて、私は……」


 達さんが金網を登ろうとすると、影から現れた芒聲さんが抱きかかえて金網から離した。「離して」と叫ぶ達さんの言葉など耳に入っていないように、かっちりとホールドしている。


「達さん、もう逃げるのをやめましょう。今なら、まだ間に合うんです」

「何に間に合うの。もう遅いでしょ。もう取り返しがつかないでしょう。あたし、地獄行きでしょう」


 脇に抱えられながら泣きじゃくる彼女の手を、私はそっと掴んだ。あの時と変わらず、冷たく小さな手だ。

 濡れた瞳が私に向けられる。次々と溢れて、コンクリートの床に染みを作っていく。


「まだ、間に合うんです」


 もう一度、ゆっくり伝えると、彼女が少し落ち着いた様子で「本当?」と問い掛けて来た。私はそれに微笑みながら、頷いて答えた。

 微かに、強張っていた全身が弛緩したように見えた。


 私が上を指差すと、動揺した様子の達さんがその指を目で追う。指の先には、大きな目がある。


「上に何があるの?」


 彼女には見えていない。


「貴方を監視する目があります。貴方の罪を忘れさせないためにある目が」

「うわあ」


 達さんが悲鳴をあげて、頭上を指差す。彼女にも見えたようだ。


「何、あれ」

「あれは貴方の良心。或いは、揺らがない現実。貴方の身に起きたこと全てを見、貴方の犯した罪を監視する視線が具現化したものです」

「そんなもの、あたしは作ってない」

「そうです。あれは、貴方の良心ですが、貴方の意思で動いている訳ではありません。無意識下に働いているものです。見方を変えれば、貴方の意思では傷付けられない、独立した空間。だから、大切な何かを隠すにはうってつけです」


 動揺していた彼女が怯えた様子で、芒聲さんの腕にしがみ付く。抱えられているから、他に掴む物がないのだろう。


「大切なもの……?」

「そう。宇留鷲理紗さんはまだ生きています。あの目の中で」


 彼女の表情には沢山の感情が溢れていた。何処かでほっとしているような、戦慄しているような。だが、一番大きなものは驚きだったろう。


 彼女にとっても予想外な事実、楽號が電話で教えてくれた話とは、宇留鷲理紗さんがまだ生きているというものだ。彼女は確かに達さんに食べられた。だが、彼女は吸収しなかった。唯、上に被さっただけで、宇留鷲さん自体に何かをすることはしなかったのだ。


 達さんの存在が人に近いのは、人間に被さっているから。悪霊の筈なのにバランスが保たれていたのは、人が体内にいるため、陽のエネルギーを得ることが出来たから。


「あたし、理紗のこと、殺してない……?」


 泣きながら、達さんが問い掛ける。


「そうです。貴方は衝動的に宇留鷲さんを襲った。だけど、貴方の良心が傷付けないように守っていたんです」


 ほっとした顔で、ぼろぼろと涙を溢している。


「今から宇留鷲さんを救出します。そのために、あの目を裂かなくてはなりません。あれは貴方の意思で動かないものですが、貴方そのものです。強い痛みが」

「構わない」


 強い口調だった。


「そんなの構わない。理紗を助けて」

「承知した」


 その言葉を受けて、楽號が動き出した。

 短刀を片手に、金網を足場にして飛び上がると、ほんの数秒で頭上の目まで肉薄する。そして、目を一閃する。


「ああ、あああぁぁぁ」


 苦しいのか、達さんが呻き声を上げる。その声を聞くだけで、私も身が引き裂かれるような錯覚を覚える。

 見ていられなかったのか、如月が前に出て、芒聲さんに彼女を下ろすよう頼んだ。芒聲さんが言う通りにすると、地面に着いた途端に彼女は蹲って動かなくなった。胸を押さえている。痛みに耐えているのだろう。

 如月は何も言わずにその背中を摩った。


 楽號が裂いた目の中から、ずるりと何かが出て来る。それは膜に包まれた人のように見える。あれが宇留鷲さんだろう。

 一度、金網の上に着地した楽號は、再度飛んで、その膜を引っ張り出す。そして、それを抱えたまま、屋上に着地した。


 膜を床に慎重に下ろすと、急いでナイフで膜を切り、中の人間を取り出す。ずるずるとした感触だが、宇留鷲さんの体には何の汚れも付いていない。

 完全に取り出した後、楽號は彼女の胸に耳を当て、その後、口元に手を当てた。


「大丈夫だ! 生きてる!」


 楽號がこの場の全員に聞こえるように叫んだ。


 私はほっとして、へなへなと座り込んだ。一番の難関を突破出来た。


「理紗、理紗」


 胸を押さえながら、達さんが宇留鷲さんに近寄ろうとする。如月がサポートし、彼女は直ぐ近くに辿り着く。

 宇留鷲さんの胸が上下しているのを見ると「生きてる。良かった。良かった」と言いながら、泣き笑った。





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