第32話 俯瞰する目
「あー、情けない。忘れて、忘れて」
誤魔化すように、彼女は笑いながら、私の手を振り解いて、目尻に溜まった滴を拭った。
私は自分の冷えた手をもたつかせながら、膝の上に戻した。
「メイク落ちてないかな」
「綺麗ですよ」
「ありがとう」
離された手は彼女の膝の上に置かれた。それはもう此方に戻らない気がした。冷たい手同士では温め合うことは出来ない。
私は少し躊躇いながら、彼女に問い掛けた。
「飯口さんが」
「
「達さんがお別れを言いたい相手って、その好きな人ですか?」
「……」
また、沈黙が横たわる。踏み込むにはまだ早過ぎただろうか。人との距離感の測り方が難しくて、いつも間違える。
傷付けたくない。傷付きたくもない。それでも、分かり合うためにはどうすれば良い。言葉は、こんなにも不器用なものだったろうか。凡ゆるものが言い表せる筈なのに、最適な台詞だけは浮かんで来ない。
達さんの伏せた睫毛が微かに揺れる。艶々とした瞳が私を見た。目が合ったことにほっとする。
「そう。その人にお別れを。と言っても、遠目で見るだけでいいの。だって、どうせ話しても聞こえないし。もう一度会えたら、踏ん切りがつくようなそんな気がして」
「何処にいるかは分かってるんですか?」
「今は三年生の筈だから、大学行けば会えると思う。サークルとかは、そろそろ抜けると思うけど」
「何のサークルだったんですか?」
「演劇。バレないように、こっそり観に行ってたりしてたな」
「今まで会いに行こうとかは」
「だって、怖いじゃん。今も、前も、ずっと好きだけど、怖かったの」
「……そうですよね。例え相手に見えなくても、怖いですよね」
「そう、すごく、すごく怖いの」
私は自分の記憶と向き合うことが少し怖い。それらは過去のことで、新しい傷を私に与えることはないとしても、思い出した後に私が苦しみに苛まれる可能性はある。
それを取り戻した後、私の周りが変わってしまうかもしれない。或いは、私の見える世界が変わってしまうかもしれない。何かに気付いてしまうから。何かを思い知ってしまうから。
忘れた記憶の中身がトラウマな出来事だったら、私はどうするだろう。今、私は記憶の入った箱の中身を知らないでいるから、この程度の不安で済んでいる。もし、中身が自身に辛いことだと分かってた上で、それでも開けなければならないとしたら、私は開けるだろうか。それとも、開けないだろうか。蓋には手を掛けるだろう。手が震えてしまう自分の姿が思い浮かぶ。
達さんも凄く怖いのだろうと思う。
例え過去のことだとしても、トラウマじみた経験と向き合うのは恐怖と心が軋むような痛みを伴うだろうし、現在のことだって、場合によっては酷く辛い。
問い掛けて発せられた回答ではなくて、不意の仕草に現れる心の有様に、私達は真実を見る。
自分のいなくなった世界で、何事もなく過ごす想い人を見れば、自分の存在など矮小だったと理解する。自分を惜しむ姿を見れば、何故想いを遂げずに命を断ったのかと後悔する。死を嘲笑われていれば、きっと耐えられない。
その恐怖も、その痛みも他人とは思えない。彼女の全てを知ってる筈もないから、自分と近しい部分を投影しているだけかもしれない。それでも、その苦しみを少しだけ理解出来ている気がする。そんなことを口に出したら変な奴だと思われてしまうから、言えないのだが。
彼が去った後に、残された私は何を思うのか。去っていた彼は私をどう思うのか。
想像するだけで、胸の奥がきゅうと縛られる心地がする。
朝ぼらけの空は明るくなっていくのに、私の胸にある影は色濃くなるばかりだ。
手に余るそれは懐かしくも恐ろしくもあって、どうしても手放せない。そうと思っても、やっぱり恐ろしくて触れられない。でも、口には出せない暗い感情の群れは、時に大きな力を生み出して、私を前に進ませる。
「ねえ、一緒に行きませんか」
「何処に?」
「その人を見に一緒に行きませんか。きっと、一人で行くよりも、ましでしょう」
「いいの?」
「いいですよ」
「ねえ」
「はい」
「何でこんなに優しくしてくれるの?」
「……分かりません。でも、そうしたいと思うんです。だから、迷惑だなんて思わないでください。私のことが迷惑だったら直ぐ言って欲しいですけど」
「そんなことないから! 本当? 本当に一緒に行ってくれるの?」
達さんが立ち上がり、私を真っ直ぐ見下ろす。
喜んでいるような、不安なような、曖昧な瞳の色だ。
「ええ。行きましょう」
彼女の顔に笑みが浮かぶ。私はそれが見たくて、ずっと言葉を探してたのかもしれない。いつまでも見ていたくなるような、魅力的な笑顔だった。
「ありがとう」
少しハスキーな声が耳を擽る。
私も立ち上がった。
「じゃあ、早速見に行きましょう」
「そうね、三日間しか残ってないのだし」
「達さんの大学ってどちらですか?」
「此処から電車で二駅くらいの、家政系が強い大学なんだけど」
「あー、あそこですか。……如月を呼んだ方が良さそうかも」
「それは駄目!」
達さんが手で罰点を作る。
「如月さんは来ちゃ駄目。これ絶対」
「何でですか」
「何が何でも」
「じゃあ、私一人か」
「大学内に入る必要はないよ。近くにカフェがあるから、そこで張って、出て来る所を見れたらいいなみたいな感じにしよ」
それなら、問題ないだろうか。
目立たないからすんなり入ることが出来れば、探索に回れるだろう。だが、他大学なんて入ったことないから、緊張から挙動がおかしくなって、警備員さんに呼び止められるのが想像に易い。
それでも、大学生が出入りする所をずっと見ているというのも、色々と問題がありそうだ。しかし、如月の参加をここまで拒否されてしまった以上、連れて来ることは出来ない。
考えてみると、何も私がじろじろと見る必要はないじゃないか。その人の顔を知っているのは達さんだけなのだから、彼女が人探しをしている間に私は珈琲でも飲みながら本でも読んでいれば良いのだ。
そう思えば、難易度はそう難しくないように思えて来た。
「そうしましょう」
「登校の時間まで、まだ結構あるわ」
時計を見ると、午前六時を過ぎていた。如月と楽號は起きたろうか。
朝ご飯を食べていないから、お腹が空き始めている。腹の虫が聞こえないように、私はお腹にそっと力を込めた。
兎も角、彼女の心残りを解消する目処は立った。
達さんは真顔で屋上の入口を見ている。見ているというより、考えているように見える。
私も入口を見る。通って来た扉だ。今は閉まっている。
「ねえ」
少し、硬い声だった。
「はい」
「ちょっと、彼処の入口の前に立ってみて」
「分かりました」
意図は分からなかったが、取り敢えず、達さんの言う通り入口へと向かう。歩いて二十歩くらいだろうか。寄りかかったのか、金網のかしゃんという音が背後から聞こえた。入口に辿り着いた私は、振り返って彼女を探した。
達さんは金網を登っていた。そして、今、軽々と登り切って、金網の外側へ降り立った。
私は直ぐに彼女が何をしようとしているのかを理解した。
走れ。
走れ。速く。
「達さん!」
叫んで。手を伸ばして。
「ごめん。分かんないけど、それは出来そうにない。私は私を許せないの」
此方を振り向きもせず、無慈悲に髪は靡く。
ふわりと、一瞬の内に彼女の体は見えなくなった。
遠くでぐしゃりという音が聞こえた。
私は伸ばした手をどうしたらいいか分からないでいる。届きようもなかった手で、金網を掴む。
幽霊だから、自殺したってまた蘇る。でも、私とのやり取りの中にそれを選ばせてしまったきっかけがあったとしたら。それはどれだ。私の何が彼女を死に追い込んだ。
「上を」
低い声だ。
振り向くと予想通り、芒聲さんだった。
「上です。見られています」
「上……?」
私は空を仰ぐ。其処には大きな目があって、私達を見下ろしていた。
その黒々とした瞳は瞬きもしない。まるで目を描いた絵を、空に浮かべたみたいだ。
「いつの間に……」
「いえ、あの巨大な目は最初からありました」
「えっ」
「あの目は、気付かなければ永遠に見ることが出来ないものです。今、あなたは私の言葉で気付いたから、見ることが出来るようになった。彼女はこの目によって監視されているようです。不毛なことですね」
「達さんはこのことを」
「気付いていないようですね。だから、何回も飛び降りている」
「どういうことですか?」
芒聲は鎌を出し、柄を強く握った。
私も合わせて拳を握り、足を踏ん張った。
「説明なんて不要でしょう。あれは悪霊です。回収してよろしいですね?」
「待ってください。何が何なのか」
「回収して来ます」
踵を返して、一階を目指し始めた芒聲さんの腕を掴む。硬い筋肉の感触が布越しでも伝わる。
「何故、止めるのですか」
「彼女には三日の猶予があります。死神から与えられた猶予が」
「あなたもそれに従うと?」
「はい」
「そうですか」
芒聲さんの動きが止まる。しかし、油断出来ないと、私は掴んだ腕を離さないでいた。
「お勧めしません。私の仕事はあなたの護衛ですから、害すかもしれない存在を排除するのも仕事の内です」
「彼女は回収されることを受け入れています。三日間の猶予も貰っています。だから、回収するなら三日後にしてください」
芒聲さんはいつも真顔だが、その時は少し眉を顰めた。への字の口が開かれる。
「自殺志願者を守るのは不毛で嫌だと申し上げましたよね」
「聞きました。でも、私はそんなことするつもりはありません」
「ちゃんと算段があるのですか」
「これから見つけてみせます」
「なら、暫し様子見といきましょう」
そう言って、芒聲さんの姿は影に溶けるようにして消えて行った。
「あ、ちょっと」
私は慌てて静止するも、既に立ち去ったのか、戻って来る気配はない。
飛び降りに関するヒントのようなことを幾つか言っていた。彼には今回の件の仕組みが分かっているのだろうか。
私はもう一度、金網越しに階下を覗いた。達さんの姿はない。暫く待てば、上にまた上がって来るのかもしれない。
私は縁に座って、待った。芒聲さんの言葉を反芻する。
風が吹く。冷たい風が頬を打つ。空はすっかり白く明るい。
待ち切れなくて、私は屋上出入口に近付く。すると、扉が向こう側から開かれた。出て来たのは達さんだ。
「あ、達さん。あの」
「誰?」
「え?」
達さんが鋭い眼光で睨め付ける。私は初めて声を聞いた、昨日のことを思い出した。
「誰だよ、あんた。馴れ馴れしいな」
そう言って、つまらなさそうな顔をして、私の横を過ぎて行った。彼女はまた金網を掴みながら、下の道を見下ろしている。
私は理解が追い付かなくて、ゆっくりと閉まっていく扉を眺めた。そして、何かを理解した途端に、かあっと顔が熱くなって、急いで扉を開けて、建物の中に入った。
彼女は私を忘れている。今の私は彼女にとって何でもない人。話したことは全てなかったことになっているから、急に馴れ馴れしく話し掛けてきた初対面の人間。
分かっている。そんなことはどうでもいい。私だけの問題で、重要なのは彼女の記憶についてだ。
ポケットの中の携帯電話が震えている。取り出して画面を見ると、楽號からの着信だった。
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