第31話 木陰の花
縁の出っ張りに並んで座っていた。
薄暗い東雲は、次第に白が伸び行き、闇を退かせていく。夜の内に熱の抜けた空気はひんやりとして、私の肌の表面を冷たくさせる。手の甲を掌で摩りながら、彼女を見た。
少し背が高くて、私とあまり変わらない身長のせいか、座っても顔が同じ高さにあり、話しやすい。
「似てるって人、どんな人だったんですか?」
「なんか、クールな子だった。凛としてるというか。でも、笑うと凄く可愛いの」
「お友達だったんですか」
「んー、どうだろう。会ったら挨拶するし、話すこともあるけど、いつもって訳じゃなかったから、あっちがあたしを友達と思ってたかは分からない」
「嗚呼、なるほど」
身に覚えがある。
友達と言うのは、少し匙加減が難しいカテゴリだ。
クラスが同じだから友達ということにはならないだろうし、普段ほぼ話さなくても何となく通じ合ってるなと思えば友達になるだろうし、その線引きも人それぞれだ。此方が友達と思っていても、相手にとっては何でもない人と思われていた時には、虚しさと恥ずかしさが爆発する。それを思うと、気軽に友達と言っても良いのかと逡巡する。
人の心は外から見えない。それは良くも悪くも、私達に迷いと余白を齎す。分からないから不安になるし、分からないから決定的な傷を負わずに済む。そして、分からないから信じるという考えが生まれる。信じるという行為は、知り得ない空白ごと相手を認め、託すことだ。何もかもが分かっていたら、それは唯の判断となるだろう。分かっていることと分からないこと、その二つで私達は人と繋がり、信じるのだ。
更に言うなら、相手が自分をどう思っているのかは、訊いてみた所でそれが真実かは分からないし、訊いたことで関係が変わってしまうこともある。
酷く繊細で扱いづらく、それでいて、離し難い関係、それが友達だろう。必ずしも良縁とはなり得ないこともあろうが、時に人生を変えてしまうような素晴らしい関係を築けることもある。
彼女にとって、そのクールな子はどんな存在だったのだろう。似ている人に着いて行くくらいだから、大きな存在感だったのだろうと思うが、そこに触れるのはまだ早い気がする。
「難しいですよね。友達の線引きって」
「そうなんだよね。大事にしたいと思うと、余計に肩に力が入って、上手く出来ない」
「私も、如月と出会った時にそう思いました」
「あんたと如月さんってどういう関係なの?」
「彼女は友達で先輩です」
「へえ。どういう経緯で知り合ったの?」
遡ること二年前のことだ。
だいぶやさぐれていた私は、入学する前から大学で友達を作る気がなかった。なんなら進学もどうしようかと悩んでいたぐらいだった。それでも、進学だけはしておけと、伯父からの勧めもあり、幾つかの大学のオープンキャンパスを訪れていた。
楽しげな恐らく大学生と、少し不安げながらも、どこかわくわくした顔の制服の高校生とが、混じり合って賑わう学内は活気に溢れて、卑屈な私は勝手に戸惑っていた。逃げるように大学の中庭へと避難した私は、人混みの気疲れのせいで樫の木の傍のベンチに座り込んでしまって、学内を見て回る目的を果たさないでいた。
そんな時に話し掛けて来たのが、如月だ。
あの時は髪が長かった。
そして、今よりも大人しそうな服装をしていた。
同じ樫の木の下で本を読んでいた彼女は、パタンと本を閉じて、草臥れた私に話し掛けて来た。
「やあ、高校生。何かお悩みかね?」
年はそれ程違っていなかったのだが、その時は妙に彼女が実際の年齢差よりも大人に見えていた。突然、麗人に話し掛けられた私は、情けないことに人間経験値が足りず、返答が出来なかった。
それを気にせず、彼女は微笑みながら言葉を続けた。
「疲れた顔をしているな。冴えない顔とも、思い悩む顔とも言える。そうだ。丁度、林檎を持っていてね。良ければ食べると良い」
「何で林檎が鞄に入ってるんですか?」
「友達が長野出身でね。実家から送られて来た物をお裾分けしてくれたんだ」
彼女は林檎を二つ取り出して、その内の一つを私に渡した。そして、もう一つをしゃくりと良い音を鳴らしながら齧った。
私は惚けた顔で、それを唯見ていた。
「甘くて美味しいな。君も食べたまえ。美味しいぞ」
「は、はい」
促されて、私は軽く磨いてから一口齧る。
皮を歯で突き破ると、軽い食感がやって来る。噛んだ所からは甘い水分が溢れて、疲れた体に染み込むようだった。糖類は脳の栄養だと言うが、今程それを実感したことはない。
もう一口、もう一口と夢中で食べていく内に、いつしか芯だけ残った。
「随分、お腹が空いていたんだな」
「この林檎が美味しくて、つい。すみません。はしたなかったですね」
「そんなことはない。美味しい物に夢中になるのは、誰だって同じさ。あなたが無碍に林檎を扱うならまだしも、そんなに味わって食べている姿を悪く思うことなどないよ」
彼女は慈母のように微笑みながら、林檎を更に齧っていた。
「貴方は此処の大学の学生さんですか?」
「文学部の二年だ」
「此処ってどうですか?」
「どう、と言われてもね。多分、私が感じてるものと、あなたが入学した後に感じることは違うものだから、あまり参考にされても困るんだが、そうだね、楽しいよ。色んな人がいて、色んな講義があって」
「……正直、何を基準に大学を選べば良いのか分からないんです。行きたい所も、やりたいこともないんです。楽しいなら、此処にしようかなみたいな」
「そうかい。でもね、自分で触れていこうとする姿勢がなければ、楽しいことも楽しめないと私は思うよ」
優しく、諭すように言葉が紡がれる。
「世界は観測する人の数だけ存在している。あなたにはあなたの見えている世界が。私には私の世界が。それは時に重なったり、触れ合ったりするけど、その全容を知るのはとても難しいものだ。自身のものでさえもね」
「アイデンティティみたいな話ですか?」
「近いかもしれないね。世界がどうであるか、と言うよりは、世界をどう見るか、ということだから、主体は個人だ。つまり、君次第で世界の有り様は如何様にも変わるのさ。まあ、そうは言っても、目の前に横たわる現実は一つだけだから、見方を変えてもどうしようもないこともあるんだかね」
「……」
「これは私の勝手な想像ではあるんだが、もし、あなたが道に迷っていたり、生きづらいと感じたりしていたのなら、別の世界に触れてご覧なさい。新しい世界、価値観、時に知りたくもないこともあるが、沢山のことが世界には溢れている。その中にあなたの指針の元になるものや、夢の苗床になるものもあるかも知れない。世界は広い。広いんだ。あなたの直ぐ横にも世界は広がっているんだ」
「世界が広がっている……」
「そう。嗚呼、別にあなたの見えている世界を否定する話ではない。それはそれで在って良いんだ。あなたはあなたの世界を大切に。でも、色んなことを知って、触れた方がより美しいものが見られる。より豊かな色彩を見られる。何より楽しいし、触れて初めて自分の輪郭が分かることもある」
「私は……私は、今、貴方の話を聞いて、他人の世界に触れてみたいと思いました」
「ふふ、そうかい。なら、文学部をお勧めしておこう。多くの先人達が魂を削って生み出した世界に触れられるからね」
如月は、私の食べ終わった林檎の芯を摘んで、自分の芯と一緒に近くのゴミ箱に捨てに行ってくれた。
どこか冷めた感情を持て余しながら、私はこのオープンキャンパスに来た。だが、今の私の心は微かにぞわぞわとしている。これはきっと期待だ。学内で見掛けた高校生達と同じように、私もわくわくしているんだ。新しい世界に飛び込むことを。
戻って来た彼女は、軽く学内の注目ポイントを教えてくれた。地図と照らし合わせながら、場所を把握すると、特に惜しむことなく私達はそこで別れた。
それが、彼女との出会いだった。
こうして口に出してみると、自身の青臭さに顔から火が出そうになる。きっと今でもその匂いは取れてはいないのだろうけど、嗅ぐ度に私はこうなるんだろう。
私の恥ずかしさとは反して、彼女は笑って聞いていた。
「えーと、そんな感じでした」
「めっちゃいいじゃん。絶対そんなの、そこに入学するでしょ」
「しましたね。これが決定打で」
「えー! めっちゃいいー!」
「そういえば、貴方は如月のことを何処で見掛けたんですか?」
「マンションの前の道を通った所を見掛けたの。一、二週間前かな」
「じゃあ、そのクールな人とはいつ頃、出会ったんですか?」
「えーまだ、如月さんの話聞きたい。あー、分かったよ。出会いは高校の時。大学もね、一緒だったの。でも、あんまり話し掛けられなくて……」
彼女が急に静かになる。顔を見る感じ、具合が悪いとかではなさそうだ。
「……ねえ、訊かないの?」
「何をですか?」
「何で死んだんだって」
「訊いても良いんですか?」
「別に」
一番、きっかけが掴みづらそうな話題を自分から振ってくれたのは有難いが、話して彼女は傷付いたりしないだろうか。聞きたいが、無理には聞き出したくない。
「そうですね。それも聞けたら聞きたいですけど、まず、貴方の名前とお話を教えてください」
彼女と目が合う。敵意のない目で見られたのは、今が初めてかも知れない。
「あたしは、
口調は軽いが、自殺という言葉がずしりと重く、心に沈んで行く。
そこに至るまでの過程を思うと、迂闊に言葉を出す訳にはいかない。そう思ったことを悟ったのか、彼女は片手をひらひらと揺らした。
「あーいいの。もうね、そこら辺はさっぱり納得してるから。さらっと流しても、ピックアップして貰っても大丈夫だから」
「でも、死にたくなるような何かがあったから、それを選んだんでしょう。それを雑に扱う訳には」
「簡単にあらましを話すと、私が告る前にね、私の好きな人にあいつがお前のこと好きらしいよってリークした奴がいて、そして、遠回しに拒否された、みたいな話。もうその人の視界の端にでも映ればハッピーって感じで。告白なんてとんでもなくて。一言でも言葉を交わせれば、その日は最高って、思ってたのにね。様変わりしちゃった」
泣き出しそうな笑い顔で、彼女は言葉を次々と続けていく。私は痛々しさすら覚える姿に静止を入れる。
「辛いなら、話さなくて大丈夫ですから」
「逆なの。話したいの」
勢いではないのだ、と彼女は言った。
「告白したって迷惑になるだけだから、死ぬまで仕舞っておくつもりだった。なのに、勝手にバラされて、あることないこと吹聴されて、もう、嫌になっちゃってさぁ! だから、飛び降りたの」
絞り出された声はか細く、その肩は微かに震えている。
「本当に似てたの。如月さん。あの子に」
はらはらと頬に落ちる雫も、芒聲さんの言う、唯の概念なのだろうか。
「嗚呼、嫌だ。思い出すと涙が出て来んの」
そんな訳がない。概念、情念、似たようで違う言葉だ。唯の物が涙を流すだろうか。想いの根幹、抑えていられなかった情念そのもの。誰もがそう思うから、で生まれた存在じゃない。この人の、この人のためだけにある、感情の廃棄システム。
例え、捨てられて、切り離されたものであっても、それは誰かの想いで、願いだった筈だ。だから、悪霊にならないように。心残りを残さないように。救いは与えられなくても、束の間寄り添うことは出来るかもしれないから。
違う。
私は唯、一人にさせたくないだけだ。かつての私と同じように孤独な彼女の、手助けをしたい。
だから、私は彼女の話を聞きたい。
薄い背中を左手で摩る。彼女が私の右手を掴んだ。強く強く、それでいて弱々しく握り締める。
私は何も言えなくて、冷たいその手を握り返すことしか出来なかった。
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