第30話 屋上にて

 彼女は佇むばかりで、何もしない。何とも言えない表情で如月を見下ろすだけだ。

 私は金縛りで動けないながら、目撃だけはしようと眼球をそちらに向けていた。寝ていた楽號がのそりと体を起こす。彼は金縛りに遭っていないようだ。


 楽號が立ち上がると、音で気付いたのか、霊がこちらを見た。


「君、誰?」


 楽號の簡素な問いに、彼女は答えない。


「その子の知り合い? 生霊じゃないね。ということは……となると、僕の取る手段は限られてくるけど、君はどうしたい?」

「あんたこそ誰」

「僕は楽號。死神。君は?」


 霊が少し目を見開く。

 しかし、質問には答えず、視線を落とした。


「あたし、あんたに殺されるの?」

「君の場合もう死んでいるね。死神は寿命が尽きた人のお迎えの他にも、君みたいな霊の回収も行なっている」

「回収されたら、どうなるの?」

「君は魂ごと霊になっているから、あの世に送られる。そこで裁きを受けて、天国行くか地獄に行くかが決められる」


 以前、聞いた話だ。霊とは生者や死人から溢れ出た概念であって、本人そのものではないと。だが、例外があり、本人が亡くなっていて、その魂が霊となっている場合は、本人の幽霊となるらしい。


 魂とは、この世に留まる為の個人識別コードのようなものらしい。

 死後、本体から抜け出た魂は死神が回収していくが、時にそこから逃れて彷徨う魂がある。それは本人そのものであるから、次第に自我のある霊体として成立していく、つまり、彼女のような知性と性格を残した霊が出来上がってしまうのだ。


 しかし、それでも霊ではあるので、私が判別出来なかった理由にはならなさそうだ。


「あたし、地獄行きだわ」


 彼女がぼそりと呟く。

 そして、如月を見下ろす。如月は此方に背中を向けたままだが、目は覚めているだろう。


「どうしてそう思うんだい」

「だって……」


 今にも泣き出しそうな顔だ。


「……ねえ、回収とかじゃなくて、即殺すみたいなのないの?」

「君を?」

「そう。あたしを殺すの。もう死んでるけど、地獄とか天国とか、これから何処にも行かずに済むように出来るサービスないの?」

「魂丸々破壊したら、裁きを受けることもなく、廃棄されるだろうね。でも、それって輪廻も償いもないよ? めちゃくちゃ痛くて寂しいよ」

「いいの。それでお願い。嗚呼、でも待って。後、三日待って」

「どうして?」

「やりたいことがあるの。悪いことはしないから」


 随分と必死なように見える。

 楽號としては、霊は早々に回収したいだろう。しかし、情で訴えられると、承認してしまうのが、人というものなのだ。彼は人ではないが。

 いつものように、「うーん」と唸りながら、頬を掻く。


「何をしたいの?」

「……お別れを言いたいだけ。きっと死んだ私の言葉は届かないだろうけれど、一方的でも伝えたい」


 彼女の目尻には少し涙が溜まっているようにも見える。そこまでして別れを伝えたい相手がいるのだろうか。

 楽號は情に流されたか、仕方ないと言った顔をしている。


「まあ、三日くらいなら。……本当に悪いことしないね?」

「しないしない」

「ところで、この子に着いて来た理由は?」

「知っている人に似ていたから」

「この子の枕元に立つのも今日でお終いにしてね」

「分かった」

「じゃあ、三日だけね」

「ありがとう」


 楽號が折れる形で話は決着したようだ。

 霊はお礼を言うと、すうと薄くなって消えてしまった。

 途端に体が自由になる。変な体勢で力を入れていたので、全身が重く怠い。疲労感に襲われているのは如月もらしく、寝返りを打って此方に顔を向けると、「あー」とぼやきながらベッドからはみ出して床に向かって伸びている。


 唯一、金縛りに遭わなかった楽號は、自分の布団の上に座って「お疲れ様」と私達を労った。


「何というか、普通に会話してましたね」

「偶にあるんだ。魂から霊になった人とか、かなり重度の悪霊とかも普通に会話が成立する」

「私は知人に似ているから被害に遭っただけなのか」

「三日の猶予で何をするつもりなんでしょう?」


 如月が姿勢を直して、ベッドの縁に腰掛ける。私も起き上がって寝袋の上に座った。

 楽號は頬を掻いている。


「猶予を与えたのはまずかったかな」

「聶斎房とやらの差金の線はないだろうか」

「でも、なんだか大事な用事があるように見えましたよ」

「死というのは基本的に不条理で一方的なものだし、霊は回収されるべきものだけど、こうしてお別れを伝えられるのは唯一と言っていい程の利点だからなあ。彼女は精神面も比較的安定していそうだったし」

「だが、彼女が誰に何を伝えたいのかは知っておきたい」

「じゃあ、私、明日訊いておきます」

「えっ?」


 その発言に二人が驚いた顔をする。当然だろう。

 私は今朝と昨日見かけた彼女の話をすると、二人とも、難しい顔で黙ってしまった。


「やっぱり、この流れじゃ会えませんかね」

「いや、彼女とは会えるかもしれないけれども」

「その飛び降り、多分一回目じゃないんだろうな。もう何回もやってる、手慣れてる感じがある。死の直前の行動を繰り返すのは、自らの死を自覚していない霊に有りがちな行動だ。彼女も自分が死んでることを、僕に言われて気付いたようだし」

「何回も飛び降りてるかもしれないのに、自分の死を自覚出来ないんですか?」

「人によるけどね。死んだ瞬間、死んだ記憶を失う人とか、最初から自分の死を認識出来ない人とか。彼女は死を自覚出来るようだったから、飛び降りた後に飛び降りた記憶を失うタイプだったんじゃないかな」

「気付いたら其処に立ってた、みたいな感じか」

「そうそう」


 楽號がごろりと横になる。寒いのか布団も掛けた。如月も冷えるのか、掛け布団を寄せた。

 私は欠伸を噛み殺しながら、話を聞いていた。午前三時だ。いつもならとっくに眠っている。楽號の目もとろんとしてきている。

 話し合いをせねばならないのに、うとうとと眠気が急に重くなった瞼を閉じさせる。


「まあ、居場所を知っているなら、明日、僕と一緒に彼女の……あー、こりゃ駄目だな」


 遠くで楽號の声が聞こえる。

 私の瞼はすっかり閉じて、開かない。暗闇に沈む意識は心地良く、私は身を委ねて、透明な闇の中を揺蕩う。


「あまり夜更かしをしないタイプなようだし、この時間は厳しかったのだろう」

「話はまた明日しよう。なんならまた泊まりに来てもいいよ」

「なら、お言葉に甘えようかな。彼女はもう来ないとは言っていたが、言った上でもし来られたら怖いからね」


 声が聞こえていると、温もりを感じる。人の中にいると自覚出来る。よく知った声であれば、安らぎになる。

 直に私の意識は遠く、私の手から離れて行く。緩やかで穏やかな夜も、微睡みの向こうへと消えてしまう。


 次に目を開けた時、周りはすっかり白けて、外からは雀の鳴き声が聞こえていた。



 ─────────────────────



 ああ言った手前、訊きに行くしかあるまい。

 いつもよりも朝早くに起きて、私は通学路途中のマンションへ向かった。二人はまだ眠りの中だ。時計を見れば午前五時だった。あれから二時間程しか経過していない。


 暁の空は未だ昏く、街灯を頼りに私は道を行く。


 かく言う私も三秒毎に欠伸が出て来る始末だ。用事が済んだら二度寝をしようと決めて、煉瓦風のマンションに足を踏み入れようとした。


「おはようございます」


 肩越しに声を掛けられる。驚いて振り向くと、芒聲さんがいた。


「おはようございます」

「私の忠告はお忘れではないですよね」


 真顔で私に問い掛ける。質問ではなく、念押しだろう。


「分かっています。けど」

「昨夜のやりとりはこちらも見ていました。お粗末なものです」


 侮蔑の篭った低い声が、滲むように口から出て来る。


「三日も回収を待つ必要などありません。霊の個人的感情など拾う必要はありません。あれらは唯の概念であり、ものです。我々は心を持っていますが、霊の人情を解す必要性を感じません。あの死神は故障しています」

「してません。楽號は優しいだけです」

「優しさとは、飛び降り自殺をする回数を増やしてあげることですか?」

「……」


 私は彼を振り切って、建物内へ入る。

 中は至って普通のマンションだ。オートロックや管理室などもなく、入って直ぐに階段と部屋とが並んでいる。

 私は階段をぐるぐると登って、屋上の扉の前に着く。早朝だからか、誰ともすれ違わなかった。立ち入り禁止と大きく扉に貼り出された紙に気が引けるが、知ってる人に会うためだ。ドアノブを捻れば、何の引っ掛かりもなくそれは開かれた。


 吹き込む風が私の髪を浮かせて、頬を撫でた。

 思った通り、彼女はいつもの場所にいた。


 長いポニーテールを靡かせて、金網に手を掛けて。此方に背を向け、下を見下ろしている。その様がまるで映画のワンシーンのようで、私は言葉を失った。花束でも持って来れば良かったと、場違いなことが頭に浮かぶ。この感情は何だろう。


 彼女が不意に振り返る。私を見た途端、目付きが鋭くなる。瞳の小さい三白眼に睨まれると、凄みを感じる。因みに三白眼というのは、左右と下の三方向に瞳がくっつかない白眼の範囲があるから、三白眼と呼ぶらしい。そんな豆知識を思い出して、心を平穏に近付ける。

 早く言葉を出さないと、不審がられる。


「何」

「訊きたいことがありまして」

「何」

「えーと」

「何なの?」

「三日間、何するんですか?」

「昨日、言ったじゃん」

「あ、そうでしたね。すいません。えーと、それじゃあ」

「早くしてくれる?」

「すみません。じゃあ、何で……」

「何」

「何で、如月の枕元に立ったんですか」

「……何であんたに言わなきゃいけないの?」

「じゃあ、楽號相手なら話せますか? 昨日会って話した人です」

「そんなの、どうして気になんの」

「貴方を信用したいけど、その材料が足りないから、友人の安全のためにも知っておきたいんです。そして、出来るなら、私は貴方を信じたい」

「何で信用したいの。怪しいじゃん、あたし。急に付き纏ってさ。ストーカーじゃん」

「何ででしょう。なんだか、放っておけないんです。貴方は必要としないかもしれませんが、手を差し伸ばしたくなるんです」


 彼女は顔を背けて、また下を見始めた。心なしか、金網を掴む手に力が入っているかのように見えた。

 私はおかしな問いをしただろうか、若しくは、彼女の心の踏み入られたくない所を踏み抜いただろうか。

 これは唯の勘なのだが、彼女は何か救いのようなものを待っている。恐らく、楽號に頼んだことも、それに関連している。どういう理由かは分からないが、今を終わらせたいのだ。

 戦々恐々として、反応を待つ。


「似てたの」


 予想に反して、軽々に答えられる。


「誰にですか?」

「知り合いに」

「如月が?」

「そう。如月って名前なんだ。下の名前は?」

「真弥」

「へえ、雰囲気にぴったり。でも、あの人と名前は全然似てないわ」

「その人、何て名前なんですか」


 再び、沈黙が挟まる。

 居心地の悪さを感じながらも、急かす気にもなれず、私は気長に彼女の返答を待っていた。


「思い出せない」

「そうですか。まあ、そういう時もありますよね。私もよく物の名前を忘れて、同居人とクイズ大会になります」

「ふふ、何それ。あ、くそ。くだらなさ過ぎて突っ込んじゃった。……あんた、変な人ね」

「よく言われます」


 彼女が縁に座る。此処の屋上は転落防止のためか、縁が段になっており、その上に金網が設けられている。吹き抜ける風が彼女の髪を乱暴にかき混ぜた。

 此方を見ずに乱れた前髪を直しながら、ぶっきらぼうな口調で彼女は「座ったら?」と一言、私に投げ掛けた。





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