第20話 神の偉効

 佐田さんは、まず神様を確認しましょうと言った。


 鍵は持っているから、正体を確かめてから、倉間さんを説得しようと。


 彼の異様な熱気に慄き「勝手に入るのはどうかと」と小さく静止すると「昔からよく行き来していて、彼の家を自由に出入りして良い許可は取ってありますから、大丈夫です。カモフラージュとして、この食材でも置いておきましょう。心配だから食べ物を買って置いたと言い訳出来ます」と、相手にされなかった。正直、同行するのは躊躇われた。しかし、とても嫌な予感がした。彼を一人にする方が危ない気もして、そう悩んでいる内に倉間さんの住むというアパートに到着していた。


 私は念のため、楽號の携帯に掛けた。場合によっては遅くなるかもしれないからだ。しかし、呼び出し音がなるばかりで、待ち望んだ声は聞こえなかった。


 古いアパートだった。


 一階入り口正面に設けられた六つの郵便受けは全て錆びている上、一部壊れて使えなかったり、郵便物が溢れ返ったりしている。傍には同じく錆び付いた二台の自転車が置かれている。管理が行き届いていない印象だが、そこ以外はこざっぱりとしている。


 変色し、踏み抜いてしまいそうな階段を上り、立ち入り禁止のテープが貼られた部屋の前を過ぎて、一番突き当たりの部屋の前に立つ。

 佐田さんが鞄から鍵を取り出す。軽い解錠の音がして、扉が開かれる。玄関直ぐに廊下があり、先には部屋が一つ見える。


 霊の気配はない。ただ、何か圧倒されるような異様に重たい空気が私の全身を緩く打った。


 廊下の途中に狭いキッチンと恐らくトイレと思われる扉があった。佐田さんはキッチンのコンロの上にスーパーの袋を置く。狭くて他に置く所がないのだ。


 どれも年季が入っていて、影が濃く感じる。一歩進む度に床が軋むのだ。

 突き当たりの唯一の部屋には、物がほぼなかった。畳まれた布団と、小さな衣装ケース。それだけだ。失礼ながら、まるで独居房のようだという印象を持った。これで生活出来るのだろうか。


 古いアパートながら窓は大きく、西日が差し込んでいて、明かりをつける必要がなかった。「空気が篭っていますね」と言って、佐田さんが窓を開けた。


「此方です」


 橙色に顔を染めた佐田さんが掌を向けた先には、押し入れがあった。表面は経年で黄ばんでいる。見た目だけで言うなら、何の変哲もない戸だ。

 だが、異質な雰囲気が漏れ出していた。霊のような怪異のような、そのどちらでもないような。ただ、この奥にあるものは人の手には触れてはならないものだと直感した。


 緊張故か、じんわりと手汗をかいている。怖いとさえ思うのに、そこに何があるのかが見たくて堪らない。


「開けます」


 佐田さんがゆっくりと戸を開ける。


 斜陽の影に沈むそのスペースは暗く、見えづらい。眩しい陽の光のせいで、暗闇に目が慣れないのだ。だが、見えた。。箱の中で輝く、赤子を抱いた神の姿。目から直接脳に注がれる情報。神々しくも、悍ましい御姿。慈愛に満ちながらも残酷で、暖かな光で包みながらも、刺すような冷たい水で苛むような。嗚呼、山の裾野に広がる野原には山百合が朽ち果て、カーテンコールと共にロリポップが降り注ぐ。飛ぶ鳥は墜落し、燥ぐ武者は灼熱の舌を切り落として、川へと流す。川に住まう古木の貝は、霧を吐き出しながら、その舌を平らげ、堰き止められた川の水は盆地へと流れ出し、臙脂色の沼を作り上げた。鯉は泥を穿り出して誰かの鍵を飲み込むと、大きく体を捩って手足を生やした。喝采を! 大輪の飛沫が城を築く。轢死した王は玉座に着き、高らかに宣言する。饗宴に並ぶは羊。嗚呼、羊を真似た虎が首を吊って、私はその腹を。


「見てはいけないよ」


 誰かが背後から腕を伸ばして、私の目元を手で覆った。情報の流動が止まる。不意に訪れた暗闇に私の脳は沈静化する。大きな冷たい手。


「千歳さん……?」

「おやおや、これは残念なことでした。あと一歩で御座いましたのに」


 知らない声が部屋に響く。千歳さんと思われる手を退かそうとするが、彼は離してくれない。


「やはり、貴方か。外道め」

「そういう貴方は不粋ですね。こんなにも舞台を整えたというのに、台無しにしてしまいました」


 千歳さんの声色は怒っていた。謎の声の主を敵視している。


 手が離される。突然の光に目をしぱしぱさせると、周りがちゃんと見えて来る。場所は変わらず、倉間さんの部屋だ。声のした方向に誰かが立っている。男性だ。スーツを着ていて、眼鏡を掛けている。その人の周りはまるでバグったゲームにあるようなこびり付いたノイズがちかちかと見えた。現実には存在しない現象だ。また、二階にも関わらず、まるで地面に立っているように窓の外に立っていた。アパートの塀に立ったとしても、この部屋の高さには届かない筈だ。宙にでも浮かんでいなければ有り得ない景色に、私の頭はまた混乱しかける。


「自分をしっかり持つんだ。此処からは油断は禁物さ」


 私の後ろにいた千歳さんが、窓の外の人物との間に入るように前に出て来る。

 足元を見ると、放心した様子の佐田さんが座り込んでいた。その彼を介抱するように、いつの間にか帰って来た倉間さんが、部屋の外へ連れ出そうと引っ張っていた。


は、神などではない。目を通じて人間の脳に悪性情報を注入する、悪意の塊。名を偽神邪母子像ぎしんじゃぼしぞう。ただ、見た目をそれらしく飾り付けただけの呪物だ」

「そんな! これは神だ! 母だ!」

「如何にも! これなるは神に御座います」


 佐田さんが叫ぶ。それに呼応するように、ケラケラと笑いながら窓の外に立っている男が主張する。


「そういう風に見せるのがこの像の特徴だ。流し込むのは悪意であるのに、見ている者には神そのものに見える。自分を受け入れてくれる大きな存在に見える。だから、信奉する。悪性情報に慣れれば慣れる程、その悪意に脳が破壊され、遂には発狂する」

「千歳さんは何故此処に?」

「俺はずっとこの像を探していた。人の世に流すには危険過ぎるから」


 私達に話し掛けながらも、目線は窓の外から外さない。


「嫌だ。だって、これは、そうだろ、倉間。これは神だ。お前も言ってたじゃないか」

「違うんだ。違ってたんだ。俺もお前もあれに洗脳されていたんだよ」

「黙れ! あれは俺の物だ!」


 佐田さんが倉間さんを突き飛ばし、押入れに上る。何かを抱き締めて叫ぶ。


「俺の、俺の神だ。俺だけを愛してくれる神になる。お前にそうしたように。俺も」

「佐田、お前」

「とうとう本性が出てしまいましたな。もう少し後に取っておきたかったのですが、人とは真に欲に弱くあります。暫し、黙っていて貰いましょう」


 男がパチリと指を鳴らすと、佐田さんはガクンと糸が切れたように倒れて動かなくなる。その体からはもやもやとした物が出ている。慌てて駆け寄る倉間さんにも向けて、もう一度指を鳴らすと彼も同じく壊れた人形のようにに倒れ込む。

 咄嗟に受け止めて、床に寝かせる。こちらには靄が出ていない。


 男は蔑むような、懐かしむような眼差しで私を見た。


「お優しいものですな。あの方によく似てらっしゃる」

「貴方、何をしたんですか」

「何、少し騒がしいので静かにして貰ったまでです。折角、貴方とお喋りが出来るというのに邪魔されたくありませんから」


 押入れを開ける前とは桁違いの緊張感に、私の呼吸は無意識に浅くなり、全身が強張る。

 男はそんな私を馬鹿にするような調子で言葉を垂れ流す。


「長いものでした。貴方と再び会えることを願って、それはそれは辛く耐え忍ぶ生活をわたくしは送って来たのですよ。かれこれ、十五? おっと、正しくは十四年ですな。ええ、十四年も掛かってしまいました。昔から手慰みに行って来た手芸も今やすっかり玄人。貴方も見たでしょう? 歩道橋の呪い、でしたか? あそこまで切り分けて結び付けるのは実に大変だったのですよ。結び易くするために自分で怪異まで用意したので、実に手間暇が掛かった作品で御座います。もう少し育てれば、より素晴らしい作品になったでしょうに。貴方達は早々に狩り取ってしまって勿体ない。嗚呼、どうやって作っているかですか? 実に単純な話です。飛ぶ鳥は落ちるが如く。とどのつまり、因と果の間にある過程を限りなく短縮させ、イコールと同義にさせる。それだけのことです。怪異は広く流布されるという結果に、幽霊は悪霊になるという結果に。言うなれば、成長促進剤のようなものです。そうして、出来た物を切り刻んで、糸でちょちょいと縫うのですよ。それだけのことをするのにも、随分と手間は掛かったものですから、なあんだそんなことかという顔をされると、呪ってしまいたくなりますな。嗚呼、その前に学校の怪異がありましたね。あちらは始めたばかりの拙い頃ですから、あまり見ないで頂けると有り難いです。こう見えて、恥の感情は持ち合わせておりますので」


 仰々しい身振り手振りに、空々しい声色。許し難い告白の連続に私は腸が煮えくり返る思いがした。


 歩道橋も森田さんも、全部この男が作り上げたのか。そのせいで、何人が死んで、何人が怪我をしたのか。何の罪もない子供達と花子さん達も巻き込んで。何の罪もない金髪の方に怪我をさせて。森田さんの走馬灯で見た自殺を唆していた声の主は、恐らくこの男だ。全部、この男の、この男のせいだ!


 怒りを込めて睨む私に、彼は恍惚とした顔を浮かべる。


「熱烈な視線。照れてしまいますな」

「ふざけるな。お前のせいで!」

わたくしのせいで?」

「何人死んだと思ってる。回収されるべき霊もお前のせいで回収不可になって、殺される羽目になった」

「それがどうかなさいましたか? 霊などただの情念。命など御座いませぬし、人権も御座いません。ただの垢の如きが幽霊です。新陳代謝の如何で生まれるもの。もしや、霊に同情など覚えてはおりますまいな」

「貴方は何が狙いなんだ?」


 千歳さんが男の言葉を遮って問い掛ける。男は気にした素振りもなく凶悪な笑みを浮かべた。


「狙いという程でも御座いませぬ。ただ、地獄を作ってみたい。それだけで御座います」


 地獄。

 裁きを受ける場所、報いを受ける場所。そして、罪を濯ぐ場所。だが、この男の望む地獄とはそれらとは違うのだろう。


「人間というものは実に面白い生き物です。これほど多様な生き物は他に見ません。ですが、残念な点が御座います。すぐ壊れることで御座います。魂を嬲るのもそれなりに楽しいですが、やはり肉体を伴った方が痛みの種類も増える物です。。素晴らしいではありませぬか。くだらぬ獄卒も大王もいない。いつまでも死なぬ肉体を持った人間を閉じ込めて苛む。考えるだけで、胸が躍ります」

「残念だが、此処には幽霊しか入れない」

「いや、入るさ」


 私の言葉に千歳さんがすかさず否定する。

 驚く私を置いて、言葉は続けられる。


「今は入口が狭いから幽霊しか入らない。広がれば何でも入る。だから、危険なんだ。あの世なのに、生きた人間を入れられるのだから」


 淡々と話している今も目を離さない。透き通った黒曜石のような瞳は、西日で細められているが、間違いなく男を捉えている。

 男がわざとらしく溜め息を吐いた。


「嗚呼、つまらぬことです。迎えが来ましたね。でも、その前に一つ贈り物を差し上げましょう。後ろをご覧あれ」


 男の言葉に従い、後ろを向くと、いつもの暗い影が真後ろにいた。佐田さんの体に繋がっている。地縛霊、にしては様子がおかしい。


「嫌だ。もっと。包まれたい。誰かの中に」


 囈言うわごとのように、何かを口にする。

 それは私の腹の中に手を突っ込むと、そのまますうっと入って行った。





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