第18話 落ちる鳥

「やあ、学校帰り?」


 帰路の途中にある腹宿神社の前を過ぎようとすると、中高音の声が鳥居から発せられた。神の啓示にしては砕けていると思ったが、よくよく見ると、柱の影には千歳さんがおり、ちらりとこちらに顔を覗かせて話し掛けてきていた。偶々見えなかっただけだが、鳥居が喋ったのかと少し吃驚した。


「昨日ぶりですね、千歳さん」

「俺も昨日今日で会えると思わなかった。だから、お礼の品はまだ用意出来てないんだ」

「もう、本当全然気になさらず」


 出会い早々に出鼻を挫かれた千歳さんはそう言うと、拗ねたように唇を尖らした。例の謎の覆面を着けていないので、表情がちゃんと見える。


「あなたは俺を怖がらないのかい」


 だから、その言葉が少し躊躇われたことも、半ば諦めたような微笑みも見えた。

 私は胸を張って主張した。


「だって、怖がったって、何も意味がないと分かりました。見えてるのなら仕方ない。勿論、見せたくないものはあります。人間ですから。でも、何を見られても私は私のままで変わらないですし、何かしらを見たって貴方の私への接し方は優しかったですし、一昨日は話してて本当に楽しかったんですよ。隠したって無駄なら、隠さず本音で言い合えば良いと思いました。そして、元々私は千歳さんに何かを隠して接している訳ではありませんから、いつも通り堂々としていれば良いと結論付けました」


 千歳さんの目が見開かれて、その後にゆっくりと緩められた。微かに微笑みを浮かべた口が動く。


「あなたは……酷く澄んだ人だね」

「友達が気付かせてくれました」

「良い友人がいるんだね」


 うんうんと頷きながら、千歳さんはぽつりと呟いた。


「あの人に似てる」

「え?」

「何でもないさ。やっぱりあなたにはちゃんとお礼をしないとなと思っただけ」

「……今日は覆面を着けてないんですね。着てるのも普通の洋服ですし」

「そうなんだよ!」


 千歳さんの声が大きくなる。

 彼は着物ではなく、洋服を着ている。Tシャツにデニムのパンツにサンダル。シンプルな服装であるのに、手足が長いせいか、格好良く見えた。しかし、着流しの時より露出が増えたために、痩躯の上に肌が青白いという頼りなさもシンプルに顕になっていた。より分かりやすく言うなら、綺麗なもやしである。

 痩せぎすな男は顎に骨張った指を持って行き、少し眉を顰めて言った。


「覆面はね、なんか此処らで覆面を被った不審者が出るらしくて、そいつと何回か間違えられたから外してしまったんだ。通報されてばかりじゃたまらないからね。この洋服だって、そいつが和服でいるらしいからさ」


 全く迷惑なものだと、溜息交じりに言葉を絞めると頬を膨らませた。

 わざとなのだろうか。私は指摘するべきか、スルーするべきかを悩んだ。


「嗚呼、うん、洋服も似合いますね」


 不用意に触れるのも恐ろしかったので、私はこの話を終わらせて、別の分野に話の矛先を向けることにした。


「そうかな。そう言って貰えると嬉しいね。洋服とか装飾とか、そういうの俺は詳しくないから」


 存外素直な性格をしているらしい。


 それにしても、覆面など何があったら被ろうと思うのだろう。先程の発言も、覆面を被れないのを残念がっているような気配があった。もしかしたら、これがお洒落上級者という奴なのかとも思うが、彼がそこまで見栄えを意識してるとも思えず、覆面の謎は深まるばかりだった。あからさま過ぎて、逆に尋ね難いのだ。


 千歳さんは中性的で、独特な顔をしている。彫りが少し深い所や眠そうな少し垂れた目の形は西洋人のようなのに、東洋人の顔つきのさっぱりさすっきりさも強くあって、黒曜の瞳は理知的でありながら未知の神秘さも湛えている。要するに、一見アジア人だが、よく見ると国籍が分からないのである。


 しかし、美しい顔であるのに、態々覆面で隠す理由が分からない。寧ろ、逆にそうであるから隠したいということなのだろうか。


 どれにしても、不審者情報のお陰で千歳さんの表情を読み取りやすくなって助かった。


 近くで鴉が鳴いている。見上げると、電柱と電柱の間に架けられた電線に二羽の鴉が座って鳴いていた。


「それにしても、急にまた暑くなったねぇ。あんなに黒いと、熱が篭りそうだ」


 隣でそう言う千歳さんも鴉を見ていた。

 嵐の後も、気温は高いままで、今日も夏日だ。陽光は熱いが、やはり風は涼やかなので、湿気っぽさがなく、過ごしやすい気温だった。


「羽ばたいたら、涼しいんじゃないですかね。風を受けて」

「嗚呼、それもそうだね。風を受けて飛ぶのは、随分と涼しそうだ」


 繋げる言葉が浮かばず、会話は途切れた。途切れても尚、鴉を見ていた。


 大きな鴉だ。橙の光を浴びても、変わらぬ黒さを保っている。一匹がばさばさと止まったまま羽ばたいた。座り直したように見える。あんな所で休まるのだろうか。鳥は木に留まって休むと言うが、あの状態は枝を掴んで立っている状態なのではないか。あれで本当に休まるのだろうか。いや、彼らは飛んで移動するから、足への負担が人間程なく、留まって休めているのは足ではなく羽なのか。羽休めという言葉もそういえばあった。


 なんだか無性に、人間と鳥の差異が不思議に感じられた。同じく、地球上に存在する生き物なのに。こうも違うのか。


 近付けば近付くだけ、離れて行くような。知ろう知ろうとすれば、より多くの差異を見せつけられるような。なんとなく、それは人と人との関係とも似ている。


「無言でずっと鴉見ちゃいました」

「そうだね」


 そう微笑みながら言うと、千歳さんは大きく伸びをし、脱力しながら嘆息した。


「うん、そろそろ帰ろう。夕焼け小焼けでさよならだって歌もあるし」

「帰りましょうではないですか? しかも、此処は寺じゃなくて神社ですし」

「ニュアンスが通じればいいんだ。ニュアンスが」


 内容は特になかったが、結構時間が経っている気がする。空の向こう側は藍色に染まり、私の頭の上は二つが混ざった綺麗な色をしていた。


「帰りましょうか」

「送らなくても平気だね? 迷子にならないね?」

「子供じゃないんですから」


 彼が意地悪そうな笑みで言って来たので、私はその顔を崩してやろうと悪戯心で敢えて冷たく返したが、笑っている所を見ると、ダメージは与えられていないようだ。慣れないことはしないものだ。

 歩き出すと、足の血液が循環し始めたような感覚がした。


「千歳さんはどこにお住まいなんですか?」

「知り合いの家さ」

「良いですね」

「最近、追い出されそうなんだけどね」

「何かしたんですか?」

「価値観の相違は悲しいね」


 触れられたくなさそうだ。別の話題を探してみる。


「初めて会った時に、私のことを懐かしいと仰っていたじゃないですか。何で懐かしいと思ったんですか?」

「難しい質問だ。完全に感覚の話だから、分かりづらいと思うけど、会ったとかじゃないんだ。すれ違ったとか、遠目で見つめていたとか、そういう接点から感じた懐かしさを、君にも感じたというだけでね」

「その接点じゃ懐かしさ、あまり感じなさそうですけど」

「でも、感じたのだから、あなたの何かが私の何かに引っ掛かったのさ」


 どうやら、同じ方角らしいので、何となく歩く速度をお互いに合わせて歩く。

 千歳さんは上を見た。私もつられて見上げる。鴉はいつの間にか居なくなっていた。いや、遠くに見える黒い影は、あの鴉達だろうか。


「空を」

「はい?」

「空を飛ぶのは気持ちが良さそうだ」


 空を見上げながら、千歳さんはしみじみとした口調で言った。


「そうですね。景色も良いでしょうし。飛んでみたいんですか?」

「でも、飛ぶというのは、飛んだと同時に落ちるという可能性も出て来る」

「そうですね」

「そして、高く飛べば飛ぶ程、落ちる時は痛い」

「痛いだけじゃ済まない時もありますからね。最低限の安全は確保しておきたいですね」

「あの鴉は落ちるかな」

「どうでしょう。鴉が落ちる所なんて、見た事ないです」


 私は千歳さんが何の話をしているのかわからなかった。意味があるのかないのか。橙色に染まる麗人の眼差しは遠くに向けられて、私にはそこに何が映っているのかなどわかりようがなかった。


「俺は見た事があるよ。狩猟でね。随分と昔の話だけど」

「強制力の強い落ちる場面ですね」

「自分で落ちるのも、誰かに落とされるのも変わらないさ」

「そうですか? でも、現代の東京に於いて、銃で撃たれて落ちるのはないと思いますよ。況してや、自分で落ちるのもないでしょう。鴉がそうするとも思えないですし」

「そうかな」

「嗚呼、でも」


 私の頭に何かが過ぎる。


「そうとも限らない、のですかね」


 何だったんだろう。不穏な、それでいて暖かいもの。誰かに言われた言葉。聞き取れない。

 嫌な汗が噴き出て来る気配がした。


「なんだか、夕焼け空を見ていると、センチメンタルになっていけないね」


 髪を軽く掻き回してから、漸くこちらを見た黒曜の瞳は、先程と変わらぬ色を映していた。それを見ると、不思議と汗が止まった。


「センチメンタルだったんですか」

「良くわからない事を言った様な気がするよ」

「私もです」

「えー、まあ、深い意味はないから」

「これは私達の秘密ということで」

「そうか。それは胸が躍るな」


 そこから会話はなかった気がする。

 微妙な距離感を保ちながら私の家に着いた時、漸く別れの言葉をお互い口にした。簡素で、十秒もなかったろう。

 軽く手を振って、痩せた後ろ姿を見送ると、私は家に入った。



 ───────────────────



 鳥は落ちるもんだ。


 彼は窓の外を見ながら言った。その眼差しは遥か遠くを見ていて、俺は彼が何に注目しているのかわからなかった。僅かに開けた窓の隙間からの風で、さらさらと髪が靡いている。


 いや、鳥は落とされるんだ。


 先程とは少し違う事を彼は続けて言った。


 雉も鳴かずば撃たれまいって話かい? と、俺が訊くと、彼は違うと言った。藪から何が出ようと関係ないんだ、ただこれはもっともっと前提の話なんだよと、子供に諭す様な優しい口調で返した。そして続けて、飛んだら落ちるんだと、呟く様に言った。


 俺はいまいちこの発言の内容の意図が掴めず、それ以上の質問も思いつかなかった。どうしようもなくて、どういうことだ? と、あからさまな問いを投げ掛けた。


 すると、漸く彼はこちらを見て言った。

 因果律だよ。既に決定された因果さ。生と死の様に表裏一体なんだ。飛ぶと落ちるというのは。


 飛んだら落ちるって事かい?


 簡単に言えばね。いや、それ以上の言い方もないな。そう、1+1=2という数式と、何一つ違いはない。飛んだら落ちる。つまり、飛ぶ者は飛んだ瞬間に落下、墜落を経て地面を迎える運命にあるんだ。


 だから、鳥は落ちると?


 そうだ。神様がそう教えてくれた。


 彼の言い分はある程度わかった気がしないでもなかった。彼の中では、普通の人のように飛ぶと落ちるという二つの行動と現象が矢印で結ばれているのではなく、始めからイコールで結ばれているのであろう。


 しかし、それがわかった所で、極論であることは否めない。飛ぶ鳥は、休まる時は枝に止まるのである。あれは、落ちている訳ではないだろう。


 飛ぶことと落ちること。始まりと終わり。その二つはどんなに近くても、同じものではないだろう。


 遠くで鴉が鳴いている。

 湿っぽくて、生暖かい空気が部屋に入ってくる。

 喉を潰したような、汚い鳴き声だ。

 肌に纏わり付く熱が気持ち悪い。


 俺は押し入れを見た。その戸は既に閉じられている。


 あの聖なる祭壇は、彼以外の何者も拒絶するだろう。あれは、彼の神。彼が愛し、彼を愛する神。俺では相応しくないのだ。司祭は彼以外務まらない。


 なら、俺は何者になるべきだろう。この神との適した距離はどんなものだろう。


 俺は、あの神を愛してしまった。

 彼と神との関係を羨んでしまった。

 されど、そこにあるのは清い感情ばかりで、どろどろとした執着心はない筈だ。透き通った脳髄の中を泳いでいるような心地がするのだ。


 俺は、神だけでなく、彼も愛するだろう。そして、彼らの関係も愛するだろう。美しいばかりではない至高のその宝石を、俺は愛するだろう。


 神を愛するように、父母を愛するように、愛するだろう。


 否、最早それは現在進行形なのだ。


 不意に黒い黒い眼がこちらに向けられる。彼の髪が靡いた。また、風が吹いたのだ。


 俺はもう一度、神を見せて欲しいと強請った。

 彼の唇が動く。

 最早、肌に纏わり付く不快感はなかった。


 戸が開かれる。


 意識は継続したまま、脳髄の外へと俺は踏み出していた。





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