いつかのけしき

閑話  ゆめうつつ

 ややこを抱いた女は、世間話の延長線でこんな話をした。


「ねえ、その時が来たら、この子を守ってあげてください。私は死んでいるだろうから。連れ出してくれるだけでいいの。その後は彼が上手くやってくれるでしょうから」


 いきなり何だ。聞いてない。その時って何だ、死んでるだろうからって何だ。死ぬな。何で死ななくちゃならないんだ。


「君を殺すものの名前を教えてくれ。俺が殺しに行こう」

「必要ありません。全部もう決まっているのですよ。私は最後の女だから、見届けなくてはならない。でも、この子はまだ小さいから、そんなしがらみに捕らえられる前に出してあげたいの。どうかお願いします」


 小さい子。産まれて数ヶ月しか経っていない子。女が産んだ、顔の似た子。俺の指を握り返してくる子。

 女は微笑む。柳のような嫋やかな女。美しく脆い、壊れ掛けの女。狂気と正気を使い分ける女。

 狂った家の中で生まれた、俺にとっての安らぎの象徴。


「全部、投げ出しちまえばいい。子供連れて逃げたいって言えよ」

「駄目です。そうしたら、そんなことを言ってしまえば、貴方は何が何でもそれを果たそうとするでしょう? それは駄目なのです」

「何でだよ」

「私は其処にいてはならないのです。私はとっくにこの家と同じ物、此処で壊れて死ぬのが定め。だから、この子を引き離したいの」


 女はずっと微笑んでいる。こんな酷い内容の会話なのに、まるでそうなることが本望だって顔で、だから何も苦しいことはないのよって顔で、俺を見ている。それが腹立たしいのに、同時に怒りを和らげてくれる。

 女の胸では小さな子が微かに寝息を立てて寝ている。穏やかなその顔を見て、女は更に柔らかく微笑んだ。時折、壊れ物に触るみたいに撫でる。


「そんな運命、壊してやればいい」

「出来ません。もう始まっているから遅いのよ。もし間に合うものがあるとしたら、この子だけ。だから、この子を連れ出してください。そして、せめて、私の醜い最期は見ないでいて。一番美しい私だけを、心に留めておいて」


 優しい微笑みで、残酷なことを言う。俺が愛しているのは二人なのに、一人だけ助けろだなんて。でも、分かっていた。これから起きるであろう何かの予感があった。この女は死ぬ。死体も残さず、跡形もなく、生きてきた軌跡すら破壊し尽くされて、打つ手がない状態で死ぬ。それは最早確定で変えられない未来。だが、もし間に合うものがあるとすれば、女の言う通りこの子だけだ。この子さえ生き残れば、女は悉くを失わずに済む。女がいた形跡が、願ったものが残る。親子の縁、生かすための行動の跡、思い出、よく似た顔。この子が後に母を想う時に必要なものが残る。

 俺は諦念から、そして、使命感から「分かった」と言った。

 その時の、ほっとしたような笑顔が忘れられない。

 遠くから、女を呼ぶ声がした。


「タツが探してるようです。そろそろお別れです。見つからない内にお行きください」


 俺は後ろ髪を引かれる気持ちで、そっと立ち去る。家人に見つかってはならない。見つかったら縛られて、死ぬまで殴られるだろう。

 背中側から声が聞こえて来る。声を聞くに、側近の老婆だろう。


「御当主様、あまりややこを連れて動き回らないでくださいませ。お探ししましたぞ」

「うー?」

「まあ、言ってもあまり通じないのでしょうが、ほら、お部屋に帰りますぞ」

「うん」


 パタパタという足音と、着物の裾が畳に擦れる音がした。屋敷の奥、四方から監視されるいつもの部屋に戻されたのだろう。


 この家で、俺が出来ることはあまりない。

 そもそも、俺はあの女に助けられた立場だ。死に掛けていた俺を抱き締め、名前を与え、食事を口に入れ、全身を拭く。そんな面倒なことを全てやってくれた。家人に見つかれば追い出されてしまうからと、誰もやって来ない離れに隔離し、人の目を掻い潜って食事や衣服を持って来た。

 そこまでして、俺を救おうとしてくれた人に恩返しがしたかった。けど、女を救うには俺の力はあまりに弱かった。


 なら、せめて。女の最期の願いを叶えてやろう。

 百合のように気高く儚い女。せめて、お前が未練を持たずに逝けるように、悲しまないように、俺はまた此処にやって来よう。約束を何度も交わそう。


 でも、惜しく思う。愛おしい二人をいつまでも眺めていたかった。抱き締めるのは、まだ少し怖い。

 あの子も大きくなったら、どうなるだろう。似るのは顔だけでいい。その宿業は、お前の母親が全部抱えて持って行くようだから、自由になれ。思う存分、人生を楽しんで生きて欲しい。


 屋敷の塀を乗り越え、外に出る。

 痛感する。嗚呼、これが願いか。

 自分は空っぽで何にも満たされないのだと思っていたのに、随分と多くのものが詰まっているじゃないか。誰かの幸せを願うなんて、かつてなら考えられなかった。


 それを詰めてくれた人はただ一人だけだ。これまでも、これからも、ただ一人だけ。だから、俺はその人との思い出を一つも溢さずに持っていようと決めた。


 果たして、女は死んだ。子は消えた。俺は最期の願いを叶えてやれなかった。





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