第 4 話 涼しい日

 起きると朝だった。窓の外で雀が囀っている。

 ぼんやりした頭のまま、私はベッドの上で微睡んでいた。今朝は少し冷える。温かい布団が心地良い。


 私が奥に潜り込もうとすると、何かにぶつかった。

 それはぶつかった衝撃で起きたらしく、不機嫌そうに「うーん」と唸った。

 私は酷く冷静な気持ちで起き上がって、掛け布団を剥がした。黒髪の細い男が隣で丸まって寝ている。長い前髪で完全に顔が隠れているが、楽號らくごうだ。寒いのか、更に丸まろうとしている。


「おい」


 私はその肩を軽くゆする。


「……何だよ、寒いな。布団返せ」

「何でいるんですか」


 楽號は私の手から掛け布団を奪うと、蓑虫のように包まってそれきり寝息をたてている。寝起きはあまり良くないらしい。


 時計を見ると七時だった。

 今日は二限からだから、まだ余裕がある。


 布団を剥ぎ取られて、私は肩を震わせた。そっとベッドから出て、顔を洗いに行く。冷たい水を被ると、頭がしゃきりと澄み渡る。そこで私は昨日、お風呂に入っていないことを思い出した。着替えを用意して、軽く全身を洗い、十五分程で出る。


 雑に髪の毛を拭きつつ、ダイニングに戻ると、楽號が起きていて、夕飯の残りの肉じゃがを温めていた。まだ眠いのか、半分船を漕いでいるような顔をしている。私は保温していたご飯をよそった。


 小さなちゃぶ台に二人分の朝ご飯を用意すると、お互い聞き取りづらいくぐもった声で「いただきます」と言った。

 無言の食卓に、かちゃかちゃと食器と箸がぶつかる音だけが響く。ほうれん草を飲み込み、私は問い掛けた。


「何でいるんですか?」

「うん……」


 反応が悪い。本当に寝覚めが悪いタイプのようだ。今も意識がちゃんとあるか分からない。私の質問もちゃんと認識しているかどうか。


「昨日、君を家までおぶったろう」

「ええ」

「君、寝てたからさ。まあ、布団に寝かせるじゃないか」

「ありがとうございます」

「僕も眠くなってね。でも、床で寝るのは硬くて体が痛くなるし、ちょっとくらいいいだろうと思ってベッドで寝た」

「はあ、なるほど」


 面倒を掛けた手前、強くは言えないが、自分の寝床に帰る選択肢はなかったのだろうか。そもそも、何処で寝泊まりしてるのだろう。


 もそもそとご飯を食べてる楽號を観察する。清潔そうに見えるし、肌艶もいいから栄養状態に問題はなさそうだ。死神専用の宿泊施設とかあるのだろうか。何となく出張とか多そうなイメージがある。


「いつも何処で寝てるんですか?」

「野宿だよ」

「ご飯とかお風呂とかどうしてるんですか?」

「ご飯は、食べなきゃ死ぬが、実は数日食べなくても大丈夫なんだ。お風呂はね、銭湯にちょいとお邪魔する。人がいない時間を狙ってね」

「へえ」


 喋っている内に目が覚めてきたのか、瞼が開いていく。

 私は箸を置く。一日経っても美味であった。


「何というか、昨日は大変お世話になりました。でも、私の謎能力も分かって、調査も終わりですし、これでお別れですね。報告書、頑張ってください」

「いや、まだ調査するけど?」


 きょとんとした顔で返してくる。


「え、何で?」

「体内があの世と繋がってるなんてそうそう見ないパターンだし、しかも新しいあの世だなんて、問題ないか確認しておかないと。君の体内に消えて行った霊達が、どういう状態にあるかも見てないしね」


「ご馳走様」と言って、楽號も箸を置く。


「取り敢えず、君の家系を調べたいな。叔父さんだっけ、会って話がしたいんだけど、どうにかしてくれない?」

「いや、いや、待ってください」

「君だって気にならないか? 何で自分の中にそれがあるのか」


 そう言われると弱い。気になるかならないかで言うなら、気になる。気が付いた時には既にこうだった。もし、これがなくなって、幽霊も見ずにいられたらどんなに良いだろうと思う。


 霊が体内に入って行って、気分が悪くなることもそうだが、事故などで凄惨な見た目になった霊を見るのも精神的に厳しいのだ。そして、何より、自分は普通の人間ではないから、普通の人々と真に分かり合えないという感覚が時折襲って来る。私の見えている世界は、普通の世界が見えてる人間にとって異常なのだと。


 如月は私の見えている世界も、そういうものだと認めてくれている。幽霊の存在は否定しつつも、私の目を否定はしない。自分では見えないから幽霊がいるとは認めない。そして、自分では見えないから私の世界を認める。そういう人間は稀有だ。大概の人は幽霊見えるだなんて言うと、気味が悪いと思う。


 もし、普通になれたなら。普通の人生を送れるなら。そう出来たなら、どんなに素晴らしいことだろう。

 調べることで、取り除く手段が見つかるかもしれないとしたら。


「気になると言えば気になります」

「じゃあ、決定だ。調べよう」

「でも、叔父さんは離れた所に住んでるので、スケジュール合わせないと」

「それは頼んだ。僕がいきなり押し掛けても怖いだろうしね」

「連絡はしてみますけど」


 両親を失った五歳の私を引き取った叔父は、何をしているのか分からない人だった。娘が一人いたが、妻は早くに亡くしていた。

 左目に眼帯をしていて、いつも気難しそうに眉を寄せている。小難しい本を読んで、数字の並ぶパソコンの画面を眺めている。ずっと何かを調べていた。


 幼少の頃、私と二つ下の従姉妹のかえでは、叔父の邪魔にならないようにいつも静かに遊んでいた。少し散らかった狭いアパートの部屋で、叔父が廃棄した紙の裏に絵を描いていた。時折、くすくすと笑い合いながら、叱られたことなど数える程だと言うのに、煩くならないように。


 食事は何かを焼いただけのものか、炒めただけの物が出た。味付けは大体醤油と塩胡椒だけで、豊かな食育が出来ていたとは言えない。だが、私は何となくそれが好きだった。叔父が苦手な家事を自分達のためにやってくれていると分かっていたからかもしれない。楓が中学に上がる頃には、私も彼女も台所に立って、幾らか食事のバリエーションも増え、掃除の手も行き届くようになった。


 私にはそれが何かは分からないが、叔父はずっと何かを探していた。そのために、人生の全てを捧げようとしていた。だけど、私達がいたから、それが出来なかった。と、感じていた。


「母様はどこにいったの?」

 引き取られたばかりの時に、叔父に訊ねた。

「もういねぇ。家のことは忘れろ」

 素っ気ない返事に落胆した記憶がある。そして、なんだか悲しくなってその後泣き出したことも。


 その記憶のせいか、それとも「忘れろ」という言葉のせいか、その後、私は自分の両親について忘れていき、叔父に訊ねることも殆どなくなった。


 かと言って、関係が悪い訳ではない。良好だ。叔父も楓も、一人暮らしを始めた私が心配なのか、信用がないのか、頻繁に連絡が来る。だから、会いたいと言えば、特に身構える必要もなく、普通に会えるのだった。


「君の叔父さんも幽霊見える人なの?」

「いや、多分見えてなかったと思いますよ。かえちゃん……娘さんもいるんですけど、その子も見えてなかったと思います」

「うーん、血筋って訳じゃないのか? まあ、調べれば分かるか」

「うわ、時間やば」


 家を出る時間が迫っていた。急いで食器を流しに浸け、着替える。必要な教科書とノート類を鞄に突っ込んで、玄関へ向かう。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 外はやはり涼しかった。

 私は口に違和感を覚えた。

「いってきます」なんて、ずっと言ってなかった。久しぶり過ぎて、口に違和感を覚える程だ。

 そして、同時に思った。何であいつ私の家にいるんだ、と。死神ということは百歩譲って認めたとしても、家に置いていく理由はない。そこまでの信頼関係は築けていないのだ。


 時計を見る。今から家に帰って、一悶着起こす時間はない。

 諦めて、駅へと私は向かった。



 ────────────────────



「あははは! 面白い、面白いんだが、普通に少し心配だぞ。昨日会ったばかりの人間、おっと死神か。死神を家に泊めただけではなく、家に置いてきたって」


 お昼時。いつもの通り、私は如月と昼飯を食べていた。


 彼女はメンチカツ定食に大盛りご飯という、相変わらずの食生活を送っている。反して、私は月見うどんというこじんまりとした食事だった。

 昨夜と今朝の一部始終を話すと、珍しく彼女は大笑いをした。目尻には少し涙が滲んでいる。


「笑い事じゃないんだけど」

「まだ、笑えないことが起きてないんだから、笑って良いだろう」

「それはそう、なのか?」


 黄身を潰して、麺に絡めてから啜る。


「というか、死神というのは確定なのか」

「いや、まぁ、うん。あれを見てしまうと、普通の人ではないのは確実かなと」

「世の地縛霊を死神が回収していたとは知らなかった。回収した後はどうするんだ? あの世に送るのか?」

「そこまでは聞いてなかった。家に帰ったら訊いてみよう」

「完全に一緒に暮らしてる言い方じゃないか。嗚呼、でも、これからも付き纏うと言っていたんだっけ。君のルーツを調べるとか。では、そのような言い方でも問題ないのか」

「調査はするけど、暮らす訳ではないよ」


 如月がメンチカツを頬張る。

 学食のメンチカツは一位、二位を争うくらいの人気メニューらしく、第一、第三金曜日はメンチカツの日に設定されているのだが、早めに学食に行かないと売り切れで食べられないということが多々あるようだ。彼女も例に漏れず、気に入っているようで、メンチカツの日は大体私が行くよりも前に学食に着いている。


 脂っこい物を好まないので、私はそこまで惹かれないのだが、そんなにも美味しいのだろうか。少し興味が出て来る。

 如月が少し口をまごまごさせる。


「少し訊きづらいのだが、君の家は特殊なのか? 答えづらかったら答えなくていいんだが」

「どうだろう。家がめちゃくちゃ広かったのは覚えてる。古い日本家屋って感じで。お手伝いさんとかもいたな」

「お金持ちだったのか」

「それ以外はあまり覚えていない。だから、ちょっと今回のことは良い機会かなとも思ってるんだ」


 うどん汁を飲む。鰹か昆布か分からないが、美味しい。涼しい日に飲む、温かい汁物は良い。


「楽號はまだ信用出来ないけど、悪意はなさそうだし、何と言うかな、変わった角度からの見解も聞いてみたい。私は特殊ケースらしいから、専門家のサポートがあった方がいいだろう」

「私としては、専門家だと決めつけるのはまだ早計だと思うがね。あまり他人を簡単に懐に入れるな」


 如月の目が鋭くなる。恐ろしくはない。


「スタンガンはまだ貸しておこう。いざと言う時は、躊躇わず使いたまえ」

「使う機会がないと良いんだけどね」


 最後の麺を口に入れる。今日も美味しかった。

 如月も丁度食べ終わったようだ。箸を置くと、あっと思い出した顔をした。


「そうだ。彼に私を会わせるのを忘れてくれるな」

「じゃあ、今度うちに来る?」

「いいのか」

「いいよ。楽號がいるかは分かんないけど、多分いる気がするし」


 一応、楽號には如月が会いたがっていることは伝えてあるし、何より家主の私が客を連れて来ることに反対は出来ないだろう。家にいるとは確実に言えないが、野宿をしていると言っていたし、仕事が入らなければ家に留まっているだろう。

 如月の目が輝く。


「嗚呼、楽しみだなぁ」


 あまり見かけない、うきうきモードの友人を見て、私も頬を緩めた。





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