第14話 彼女の教科書
--1週間を通して『杜の隠れ家』での生活にだいぶ慣れてきた。
お客さんは相変わらず少ない。1週間で売上は五千円にも満たなかった。畠田さんと例の女子学生たちが数回訪れた程度。この計算だと1ヶ月の売上は10万もいかない。これで一年以上経営をしてきたのだからすごい。秋の繁忙期にはそれほどお客さんが来るんだろうか。
白鳥は相変わらず掴めない。いつも笑ってる。この人のことを知るにはまだ時間がかかりそうだ。
週明けの日曜日。俺が起きてくると珍しく白鳥がもう起きてた。まだ8時前だというのに何が起きてるんだろうか。
「おはよう寝坊助さん。」
「うわぁ言われちゃった。」
「今日私用事で港中央区まで行ってきます。夕方までには戻るのでいい子でお留守番しててくださいね?泣いちゃだめですよ?」
「今日居ないの?嬉しくて泣いちゃいそう。」
「え……ひどい。」
「嘘。お店は?」
「お休み。」
一番の稼ぎ時であろう日曜日に店を閉める店主。余程大事な用事なんだろう。だってこんなに早起きするくらいなんだから。
「分かった。いってらっしゃい。」
「お昼作っときましょうか?」
「いい、勝手に食べる。」
「いい子。じゃあもう出ますね?」
そう言って立ち上がった彼女は既によそ行きの格好で髪も下ろしてた。髪を下ろしたのを見たのは風呂上がり以外だと初めて会った時以来。
「いってらっしゃい。」
裏口から出ていく白鳥を手を振り見送ってからキッチンに戻る。
白鳥が用意して行っただろうまだ温かいご飯と魚の干物と味噌汁をかきこんで部屋に戻る。
窓を開けたら気持ちいい風が吹き込んできた。今日から気温が上がるとのことで、ほんのり肌を冷やす朝の透明な風が前髪を揺らす。
「……掃除しよ。」
天気がいいので窓を全開にして部屋の掃除を始める。1階の階段横の物置から掃除機やら雑巾やらを引っ張り出した。
「……ん?」
ハタキを取り出そうとしたらなにかに引っかかって出てこない。暗くて中がよく見えないけど、手を伸ばして引っかかりの原因と思われる物を引きずり出す。かなりの重量が腕に伝わる。
「え?」
引っ張り出した物を見て驚いて変な声が出た。それは今まで一人暮らしをしていた女性の家の物置で埃を被ってるにはあまりに不自然な物。
それはライフルだった。
掃除用具と一緒にまるで日用雑貨みたいな気軽さで立てかけられてたそれは、木製のストックとずっしり重い金属製の銃身の、スコープまでついたライフル。
「…ライフルなわけないよな…空気銃ってやつ?」
競技や狩猟など、限られた用途でのみ所持が認められてる。確か18歳以上で免許があれば誰でも所持できる代物だ。
「…玩具、じゃないよな?」
構えてみたらずっしりと重かった。腕に肩にのしかかる重量は明らかに玩具じゃない。エアガンと言えば玩具みたいに聞こえるけど、これで撃たれたら実際タダでは済まないんだろう……
物置に置いてちゃだめだろ…ちゃんと鍵かけて保管できる場所じゃないと。てか、あいつクレー射撃とかやるのかな?
あの小さな体がこの銃を構えてるのはちょっと想像できなかった。
とりあえず見なかったことにして元に戻した。気分を切り替えて部屋の掃除に戻る。
床をクロスがけしてみても、案外埃はつかなかった。まだ来て1週間そこらだし、それまでも白鳥が使ってたからだろうか…
あっという間に掃除が終わってしまって、暇になった俺はベッドに身を投げ出した。
カーテンを揺らして入ってくる風が心地よく、自然と瞼が重くなる。引っ張られるみたいに抗いがたい眠気がさっき起きたばかりの俺を誘っていく--
--出来たら、真っ先に見せるね。
--見て、ほしいから。
……暗い夜空には微かに月がかかり、まん丸な満月の輪郭を曇らせる。ぼやけた月明かりの下で水面の煌めきを映した瞳は、儚げに細められて俺を見ていた。
伸ばした指先も見えない深淵で、その目だけが、俺を見つめて語りかけて……
「……………。」
ほんの数分の浅いうたた寝の狭間で、見えたそれは現実と見紛うほど鮮明で、でも現実とは思えない程幻想的だった。
まるで、あの絵画の世界みたいに--
涼やかに響いた声は吹き込む風のように、サラサラと俺の髪を撫でていた。
「……那雪…菜月。」
呟く声が俺の声じゃないみたいに感じた。あまりに近くに感じることができたその記憶を俯瞰して見ている自分が他人みたいだった。
……俺は、あの景色を知っている。
静かに流れていく二月川の光景が、目に浮かんできた。
……あなたと、見たんだ。
なにかに駆られるように俺はクローゼットの戸を開けていた。
捨てようと思っていたボロボロの通学カバンは、俺の心中に巻き込まれてくしゃくしゃになったまま暗い戸の向こうで眠ってた。
ほつれた糸が引っかかるチャックを強引に引いて中を覗く。中に乱雑に詰められた教科書達は、藤城から受け取った時のまま透明なビニールに包まれていた。
引っ張り出して中を見る。川の水にでも濡れたんだろうしわくちゃの教科書達。裏表紙には滲んだ字で『黒井憐』と書かれてた。
現代文、数学、日本史、世界史--パラパラとめくったページにはプリントやらが挟まったままだ。
数学の教科書に挟まった試験のプリント。点数は15点だった。ほとんど空白……
「…頭悪かったんだ。俺。」
記憶にない学生時代を思い返して笑みが吹きこぼれる。俺が過去に、この世に居た証…もしこいつらが口を聞けたら、なんて思っていた。
他の教科書もめくっていたら、気になる点を見つけた。
日本史の教科書。その教科書だけ、付箋やら蛍光ペンやらで教科書内の内容に細かくチェックが入っていた。
『試験範囲』、『説明文込!』とか、丸い字体で丁寧に書き記されている。
「…これ、俺のじゃない。」
教科書をひっくり返して裏表紙を見る。下の名前の欄にはやはり俺じゃない名前が記されてた。
『
ビリッと電撃が走った。脳に直接スタンガンを押し当てられたみたいだ。その名前に俺はハッとした。
「…犬山って。」
俺は知っていた…
あの、鍛冶山区の駅で、あの駅で出会った駅員。
俺に対して明らかに普通じゃない対応をしていたあの女…俺の頬をぶった女。
--覚えて、ない?
あの時、もしやと思い話しかけた俺に彼女はそう呟いていた。その目を、顔を、覚えてる。
やっぱりこの人は、俺の事を知っている……
新しい環境に揉まれる中ですっかり失念していた。俺は彼女の日本史の教科書を手さげカバンに移し替えて、クローゼットから上着を引っ張り出していた。
今日は出かけるにはいい天気だ。
********************
1時間かかる道のりを俺は歩いていた。逸る気持ちが抑えきれずにどんどん前に向かう足は、陽気な天気のせいもあって汗ばませていた。
駅に着いた俺は一旦呼吸を整えてから階段を登っていく。
日曜日だけあって駅には人が集まっていたけど、田舎町だからかそれほど多い訳じゃなかった。
電光掲示板を見るふりをしながら改札横の窓口を覗いた。彼女の姿は見えない。
冷静になってみれば、いきなり会いに行ってなんて言えばいいんだろう……
気持ちばかりが先行して何も考えていなかった俺は、改札の前のベンチに腰を下ろしてため息を吐いていた。
でも、あっちは俺の事を知ってるはず……
いきなり湧いた不安感を抑え込むようにそう確信を得た俺は何度も言い聞かせた。
問題は相手にしてくれるかだけど…
もしかしたら俺と彼女の間に昔なにかあったのかもしれない。じゃなきゃいきなりぶたれるなんてことないだろう。
ただ、教科書の貸し借りから察するに交友はあったはず……恐らく俺が二月川に入る直前までは。
関係が必ずしも悪いものだったとは言いきれないけど、先の見えない不安は拭えなかった。
そうしてしばらく座ってどうしようかと考える俺の視界に、彼女は現れた。
改札口の向こう、通路を横切るポニーテールの女の姿。手には黒いカバンみたいなのを持ってる。
彼女は当然俺に気づく様子もなくそのまま俺の視界を横切っていく。俺は反射的に立ち上がっていた。
急いで改札をくぐり、そのまま通路に飛び出す。
ただ、既に彼女の姿はどこにもなくて、各ホームに繋がる階段が並ぶ一本の通路は人のいない静寂に包まれていた。
どこかのホームに降りたのかもしれない。もしかしたら、電車に乗っていったのかも……
落胆と同時に安堵のため息も漏れていた。実際まだ気持ちの整理も覚悟も固まっていなかったから。
彼女がこの駅で働いてるのは分かってるんだから、また来ればいい。
そう言い訳するように言い聞かせて、徒労に流れた時間を確認する。時刻は11時半だった。
「…なんか食って帰ろ。」
一人呟いてそのまま背を向けて歩き出す俺の背中の向こうには、トイレがあった。
階段を踏むようなカツカツという硬い足音に俺は何となく振り返っていた。
--その先でまた、彼女は現れた。
トイレから出て、短い階段を降りて通路に戻ってきた彼女は、そのまま真っ直ぐこちらに向かって来ようとして……
三度目の邂逅で俺たちは視線を交わらせた。今度は俺の方も、彼女と同じように驚いた顔をしていたと思う。
「…っ、な--」
「あのっ!!」
彼女の唇が微かに動くより先に俺は声を張り上げて走っていた。駆け寄って距離を詰めようとする俺に、彼女はビクリと体を震わせて後ずさる。
まぁ、いきなり走って向かってきたら誰でも驚く。ただ、彼女のその反応は、きっとそれだけじゃないはず……
「……なんでまたっ--」
「えっと、違うんです!これ!!」
慌ててカバンから持ってきた日本史の教科書を取り出した。俺が彼女に向かってそれを差し出すより早く、手にしたそれを目にした彼女は目を見開いていた。
大きく息を吸ってから、慎重に言葉を選ぶ。彼女は、この世に居る数少ない、俺の過去の生き証人かもしれないから--
「……何度もお仕事の邪魔してすみません……勘違いだったら、ごめんなさい。これ……」
震える。手が震える。震える手が落とさないように必死に教科書を掴んでいた。
彼女の視線が教科書に落ちる。その目の揺れ動きに俺は確信を得ていた。
「……お返しするのが、遅くなりました。これ、あなたのですよね?」
「……は?え?」
「犬山千秋さん…で間違いないですか?」
確信を持って尋ねる俺と、教科書を交互に見ながら彼女はしばしの間を置いてからようやく動き出す。
いきなりの事態にフリーズしていた体がぴくりと反応して、名前が見えるように裏表紙を表に差し出された教科書におそるおそる触れた。
撫でるように、つつくように触れた指がやがてしっかりと両手で教科書を受け取っていた。教科書の重みが手から消えた時、俺の確信は確証に変わった。
「--犬山千秋さん。お話、よろしいですか?」
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