第13話 二月川で
ーー『春の故郷』は二月川を描いたものだって白鳥は言った。
「あの絵の描かれた所まで行ってみたい。」
そう提案すると白鳥はなんだかまた不機嫌そうな顔をした。
「あれ、那雪奈月のお父さんの作品ですよ?奈月さん関係ないですよ?」
過去のことはなにも言ってないけど、白鳥は説得する様に俺に何度も言った。彼女が俺に対して否定的な意見をしたのは、出会ってから初めてかもしれない。
「…俺、あの絵知ってた。もしかしたら、なんか思い出すかも……」
「暗くなってきたし、帰りましょうよぉ〜」
「じゃあ先帰ってて、俺、ちょっと探してみる。」
「えぇ〜?」
コンビニの駐車場から一人歩き出す俺に白鳥が間抜けな声をあげていた。すぐに後ろから足音が聞こえて、俺の袖を掴んでた。
「分かりましたよ。一緒に行きましょ?」
「…気乗りしなさそうだけど、いいの?」
「いいの。」
こうして俺は再び白鳥の車に乗り込んで駐車場を出た。
「……どうして、あの絵を知ってるって思うんですか?なにか思い出した訳じゃないんでしょ?」
「……懐かしい感じがした。」
俺の返答に白鳥は納得してない様子だ。でも、理屈じゃない。
「何度も言いますけど、あの絵はお父さんの絵ですよ?あなた、那雪龍介と交流があったと?」
「あったかもしれないし、ないかもしれない。」
「やれやれ…お腹すいたなぁ。」
「ごめんて、晩ご飯俺作るから。」
「いーえ、私が食べさせたいんです。」
車は狭い小道に入っていく。民家に挟まれた狭い路地はバックミラーが塀にぶつかりそうでヒヤヒヤしたが、白鳥は巧みなハンドル捌きで狭い路地を抜けていく。
このまま行けば川沿いに出るはずという白鳥の予想は的中して、小道を出てすぐに目の前の道に沿って川が流れてた。
対面の河川敷には桜の木が並び、道沿いにずっと静かな川が流れていっている。
「…多分、この辺。」
「うん…」
「なにか、思い出しましたか?」
車から身を乗り出して流れる川の流れを追う。
……母さん、もうここまで来たかな…?
関係ないことが頭に浮かんだ。しばらく眺めても、記憶に訴えかけるものはない。
「…付き合わせてごめん。」
絵の中と近しい光景を前に、俺はあの時の絵を見た感覚は気のせいだったのかと思いだした。
隣の白鳥に頭を下げると、彼女は小さく笑って俺の髪の毛に触れていた。
「……無理しなくていいじゃないですか。」
「…うん。」
どこまでも甘い彼女の声に溶かされながら俺は窓の外から視線を外した。
白鳥はゆっくりとアクセルを踏む。タイヤが回転し古臭いクラウンがゆっくり唸りながら走りだした。
徐々に加速していく車に置いていかれる二月川下流の光景が流れていく。ぼんやり眺める俺の視界を一瞬、二人の人影が流れた。
並んで河川敷に座る二人…多分学生か。男女に見えたからもしかしたら恋人なのかもしれない。
ーー花はさ、桜とかは短い時間しか咲いていられないけど、こうしてキャンバスに閉じ込めておけば、ずっと綺麗に咲いたまま…ーー
「…っ⁉︎」
耳の奥でぼやけた声が聞こえた。
河川敷で並ぶ二人の男女…その姿を目で追った。すぐに流れていく景色。でも、確かに聞こえた…
……聞こえたんだ。
誰の声かも分からない、夏の風鈴みたいな涼やかな声音…
やっぱり俺は、あの景色を知ってるんだ。
「どうしました?」
隣でアクセルを踏み続ける白鳥に、俺は「いや……」と曖昧な返事を返した。
過言そうにこちらを見る彼女もすぐに視線を前に戻してハンドルを切る。
少し…少しだけ……
俺はあなたに向かって進んだのかも知らない。
寂しげな表情を浮かべる彼女に、表情も思い出せない母さんに、俺は心の中で呟いた。
********************
眠れない夜が明けて、『杜の隠れ家』が扉を開いたのは午前11時過ぎだった。
客も来てないのにコーヒーの香りが充満する店内で白鳥と並んでコーヒーを飲んでいた。
「一日の売上とか記録してないの?」
「売上ないもん。」
俺が練習で淹れたコーヒーを白鳥はゆっくり喉に送り込みながらあっけからんと答えた。
「秋になったら観光客がいっぱい来ますよ。」
「この店、てか生活費とか実際どうやってやりくりしてんの?」
「……パパの遺産。」
「へぇ…あのさ、ほんとに売上ないならさ、俺の分の生活費--」
「憐ちゃん約束したじゃないですか。私と一緒にいるって。どっかに働きに出るとかなしね?」
「……俺、ただのヒモ。」
「うちの従業員です。」
視界を横切っていく白い湯気を目で追って店内を見渡す。
閑散とした店内は俺たちの財布を潤してくれる気配はなくて、なんだか勝手に申し訳ない気持ちになってきた。
「憐ちゃん。」
「うん?」
「憐ちゃんが居てくれて私嬉しいんですよ?だから気にしなくていいの。」
「……。」
「ずっとひとりだったから……」
沈んだ声で俺に囁いた白鳥の言葉に俺もそれ以上何も言わなかった。彼女はずっと--俺よりも長い時間ひとりで居たんだろう。
ニコニコ笑っていながら、彼女もまた心に寂しい風の吹く影が差しているのかもしれない。そこに踏み込むには、まだ時間が足りない。
まだ何にも知らない……
不意に来客を告げたドアベルの音に俺たちは顔を上げる。
「こんにちは〜。」
「こんにちは、お腹すいたぁ。」
入ってきたのはコートを着込んだ女性客二人。ストラップを付けた通学カバンと、コートの裾から覗く短い制服のスカート。学生だった。
「いらっしゃい。学校は?」
「学年末試験で午前中まで〜。ナポリタン食べたい。」
「すぐ用意しますね。」
どうやら顔見知りらしい。奥のテーブル席に向かい合って座る女子学生たち。彼女がちらりと俺を見た。
「柊奈ちゃん、新人さん?」
「旦那。」
「「えっ!?」」
学生特有のオーバーリアクションが飛び出す。俺が苦言を呈するより先に白鳥はカウンターから出ていって注文を取りに行く。
「まじ?結婚してたん?」
「やばー。」
「ご注文は?ナポリタンと?」
「あ、アイスコーヒー。」
「紅茶ー。私おまかせランチね。」
「パパ、アイスコーヒーとナポリタンと紅茶とおまかせね。」
カウンターの向こうで支度してた俺に白鳥がふざけた台詞を吐いてきたので睨んだ。
「え?パパなの?」
「そ、今3ヶ月。」
お腹を擦りながらカウンターに戻ってくる白鳥をトレイでぶん殴った。
「紅茶とアイスコーヒーって…」
「どれでもいいですよ。あの子ら分かんないから。」
ささっと手を洗ってナポリタンとおまかせランチの準備を始める横で俺もドリンクの準備を始めた。
先にできたドリンクをテーブルに運ぶ。女子学生たちは興味津々の顔で俺の事を見ていた。
「旦那さん。柊奈ちゃんとはいつ結婚したんですか?」
「違いますただの従業員です。」
なぁんだと抗議の声を上げる女子学生達に白鳥は奥でケラケラ笑ってた。
初めてお客さんに出したコーヒーの評価が気になってカウンターから彼女らの様子を伺ってた。
そんな新人の気持ちを置いてけぼりに、女子学生たちはスマホをいじりながら控えめな笑い声をあげていた。
「…この近くに学校あったんだ。」
「近くにはないですよ?バスでここまで2、30分はかかります。」
「ここまで来てくれるんだ。」
「大事なお得意さんですから。」
「俺以外にも居たね。」
ぽつりと呟く俺の声に白鳥はクスリと笑って俺を見た。
「嫉妬?」
「うるさい。」
ただ、こうやってカウンターから店内にお客さんが居る光景に感じ入るものがあった。
俺の淹れたドリンクを飲んで、俺の接客で店内に座ってる。
なんにも持ってなかった目覚めたばかりの頃には考えられない光景を前に、少し胸の奥が熱くなった。
「……憐ちゃん神長いですねぇ。」
「ん?」
隣に立つ白鳥が不意に指先で前髪をくすぐるように触った。
「飲食店でロン毛はちょっと…」
「う……目覚めてから切ってないから。」
「今日は早めに閉めて、切りましょうね。」
「え?お前が切るの?」
「かっこよくしてあげますよ。」
手でハサミを作って蟹みたいにして遊ぶ白鳥が笑った。不安しかない。
********************
15時に店を閉めて着替えてきた俺を白鳥が店の裏に連れていった。
俺を椅子に座らせて後ろに立つ白鳥が俺の髪を指で梳くように触れる。頭皮に触れた指先はやっぱりひんやりしてた。
「…綺麗な髪の毛ですねぇ。」
「……ありがと。」
「切っちゃうの勿体ないなー。」
なんて言いながら白鳥は容赦なくハサミで髪を切っていく。指で挟んで持ち上げた毛先を丁寧に摘んでいく。危なげない手つきで髪の毛がどんどん足下に落ちていく。
「…上手だね。」
「でしょー?私、なんでもできちゃうんです。天才なので。」
「へえ……天才ね。」
「昔は“神童”って呼ばれてました。」
「へぇー…散髪はどこで?もしかしてそれ、自分で切ってんの?」
「私は美容室行きますよ?学べるものは学んでおこうっていうスタンスですから。」
「そりゃ真面目なことで。」
白鳥に髪を切られながら、思う。俺には将来の夢とかあったんだろうか……
高三の冬に自殺しようとしたってことは、動機は将来の悩みだったりする可能性もあるんだろうか。
「…そういえばさ、白鳥。」
「ん?」
「パソコンUSB刺さんなくて…どうしたら使えるかな?」
「アダプタ使わないと無理ですねぇ……持ってないです。」
「そう……」
買いに行くしかないかな…
アルバイトで得た微々たる貯金残高と相談しながら空を眺める。
まだ明るいけど少しずつ夜の色を帯び始めた空は、冬の哀愁を漂わせる。
よく晴れた空だ。天の川見えるかな……
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