第12話 川の流れに乗せられて
港中央区の
緑の芝生に覆われた敷地内は軽やかな風が吹き抜けて、春の天気のいい日に寝転がったらさぞ気持ちがいいだろう。駅から少し離れた場所にあるそこは、美術館だからか街の喧騒から遠く離れて静けさに満ちていた。
美術館の別館に、その記念館はあった。
--那雪龍介記念館。
そう書かれた看板の横を通り抜けて俺たちは中に入った。
記念館には彼の出生から芸術家として大成するまでの軌跡が余すことなく記録されてた。
壁に飾られた写真でその画家の顔を拝むことができた。気難しそうな男性は、眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。白髪混じりの髪に痩けた頬は、写真の詳細に記載された45歳という年齢より老けて見えた。今から15年前の写真だった。
美術館の入口にはちらほらと人が居たけど、この記念館には俺と白鳥以外の人影はなかった。
しんとした静寂が館内を包み、並んで歩く俺たちの間にも、静かな時間が流れてた。
「……彼の作品、買おうと思ったらうん百万するらしいですよ。」
「……へぇ。」
記念館には彼の人生の足跡を辿るように入口から幼少期に愛用してたパレットや筆、そして処女作である『凪の空』から順番に作品が展示されていた。
彼の作品たちも娘同様自然をモチーフにしているらしく、雄大な大自然の写実画がまるで本物みたいに生き生きと額縁の中で息づいてた。まるで窓の外から大自然を眺めてるようだった。
暗く澱んだ空や、静かにうねる水面、貧弱な草木の生えた寂しい草原は見ている俺の心に共鳴するように自然と視界に入ってくる。
展示された作品は40程で、ここにないものもあるとの事。
後年にいくにしたがって作品の色調が明るくなっていく。影を感じさせる初期の作品に比べて明るい印象だが、その絵の一つひとつにはやはり見る者の心に乾いた風を吹かせるものがあった。
「……。」
ゆっくり歩きながら絵画を見ていた俺の足が止まる。
「……これって。」
「ん?」
視界の端に映りこんだそれは、無意識に俺の足を硬直させていた。
作品は夜の清流を前に咲き乱れる夜桜を描いたものだった。桜の向こうに見える小さな灯りたち、暗い空に浮かぶぼやけた月……
俺は目を離せずその作品を凝視した。
題は『春の故郷』。
川辺の匂い、夜の冷たさ--
まるでそこに居るように感じることが出来た。夜風に吹かれた指先がひんやり冷たくなる感覚まで……
俺は、この絵を知ってる……
「……これ、二月川ですね。」
下のプレートに書かれた説明文を白鳥が読んで呟いた。
「故郷の北桜路で一番好きな景色をを描いたんですって。」
「……そう。」
「憐ちゃん、那雪菜月の作品を見に来たんですよね?ここはお父さんのコーナーですよ?那雪菜月はあっち。」
手を握って俺を引っ張ろうとする白鳥について行かずに、俺はその絵をずっと見つめてた。
「……白鳥。この絵、知ってる?」
「知ってるって?」
「有名だったりするのかな?」
「……さぁ。那雪龍介自体が有名な画家ですから…作品の知名度は当然あるんじゃないですか?私はこの作品は初めて見ましたけど…」
「……そう。」
広い記念館を縦に真っ二つに割るように立つ壁の向こう側が、那雪菜月の作品の展示エリアだった。
那雪龍介のエリアに比べたら小さく、まだ新しいようだ。
壁にかかった作品たちは、ネットで見たものが多く、12点の作品が飾ってあった。
彼女は10歳の頃から画家としての活動を初めて、18歳までの8年間で16の作品を生み出した。
こうして実物を見るとやはり、繊細な筆遣いみたいなものを感じることができる。まだ10代の細い手から表現された世界はどれも父親のものより俺の胸を打った。
こんな才能を持ちながら、彼女は影のある表情を帯びていた。
彼女は自らの意思で、あの川に入ったんだろうか… だったとして、俺は何故、それを止めなかったんだろうか。
輝きに溢れた前途の前で彼女はどんな思いで筆を取っていたんだろう。そんなことを考えたら、泥の中に沈んでいくような気分になった。
飾られた写真の中の彼女は、穏やかな笑みを浮かべていたけど、やっぱり俺には濃い影を帯びているように見えていた……
********************
記念館を後にして、白鳥に誘われ本館の方も見て回った。
今はルーヴル美術館から貴重な芸術品の数々が持ち込まれ、期間限定で展示しているらしい。白鳥が「せっかくだから見ていきましょうよ。」と強く言うので、言われるがまま本館に足を運んだ。
はるばるフランスからやってきた美術品たちは強いライトを浴びて優雅に館内に立ち並んでいた。美術の造詣のない俺の目にも、それらの品が他とは違う空気を放っていることを肌で感じる。
そこだけ空気が違うように、遠い時代を超えて今日までその“美”を保ってきたそれらは、壮大で美しいその優美を俺たちに見せてくれていた。
“芸術”を見てるんだって、実感させてくれた。
帰りの車中、なんだか白鳥が不機嫌そうだった。おそるおそるどうかしたのかと尋ねる。
「……別に。何話しかけても無視されたのでへそを曲げてるだけです。」
「ああ……」
美術館では様々な才能の結晶を前にただただ魅入っていた。それもあるけど、やっぱりその最中も俺の中に『春の故郷』がこびりついてた。
多分うわの空だったんだろう。
「せっかくのデートなのに。そんなんじゃ女の子にモテませんよ?」
「え?デートだったの?」
「そういうところです。」
「悪かったよ。ごめんて。」
よく分からないけど、今日付き合ってもらった彼女の不機嫌な横顔に申し訳ない気持ちになった。
「……ところで、那雪龍介ってまだこの北桜路市に住んでるのかな?」
「もう亡くなってますよ?」
「え?」
「最近じゃなかったかな…」
ぶすくれたまま白鳥はそう教えてくれた。
見る者を引き込むあの世界を作り出した二人が、もう二人ともこの世に居ないんだ…
いや、那雪菜月はまだ死んだって決まったわけじゃない……
「……ところでそれ、どうするんですか?」
視線だけ寄越して白鳥は尋ねた。その目は俺の膝の上の骨壷に注がれてる。
「どうって……お寺かどっかで供養……」
「あーあ、またお金がかかる。」
わざとらしく言う白鳥の言葉に俺はまた心苦しくなった。
そうだ、俺は今無一文に等しいんだ。今の俺は経済的にも白鳥に依存してる。
供養してお墓に入れるとなるといくらかかるんだろうか…
「それよりですね、私に考えがあるんですけど……」
「なに?」
「散骨。」
白鳥は前を向いたまま言った。その提案に俺は眉根を寄せていた。
「……撒くの?どこに?勝手にそんなことしていいの?」
「いいも悪いも、ちゃんとした供養でしょ?バレなきゃいいんです。」
バレなきゃって……
「二月川。」
「え?」
「二月川に流しましょう?あなたが『死んだ』場所に……一緒に逝かせてあげたら、一番の供養でしょう?」
「……俺、まだ生きてる。」
「でもお母さんからしたら死んだも同然でしょう?」
アイスピックで心臓を突かれたみたいにズキンと痛んだ。図々しくも俺の良心は、母親の死を人並みに悲しんでいる。その程度の良心はあってよかったと、内心でほっとする自分にも嫌気がさした。
白鳥の言う通り…母さんが死んだのは俺のせいだろうに…きっと……
「今から行きましょ?」
「今から?」
「まだ日も高いし。」
そういう白鳥は既に桜区の方にハンドルを切っていた。俺の答えを聞く気はないらしい。
もしかしたら、俺の過去の一部である母さんの遺骨をあの家に持って帰りたくないのかもしれない……
俺はそんなふうに思った。
桜区に着いたのは16時くらい。そこから車で15分程走って、俺たちはまたあのコンビニに車を停めた。
明るい時間帯に来るとまた印象が違った。ちょうど下校時間なのかコンビニの周りには学生服姿の少年少女たちが集まっている。
俺も白鳥もそんな子供たちを横目に見ながらあの坂を上がっていく。
夜中に登った坂は街灯の明かりも頼りなく寂しかったけが、まだ日が出ている時間帯の坂道はすぐ下の町の喧騒を遠くに聞きながら緩やかに続いてる。朝に散歩なんかしたら気持ちいいかも。
しばらく歩いてあの開けた場所にまでやってきた。やっぱり人気はない。ガードレール越しに望む町はどこまでも広がっていた。
「疲れた…」
「ここら辺にします?」
二人でガードレールに腰を預けてずっと奥の川を眺める。サラサラ流れる川の向こうの桜の木たちが俺たちを見つめてる。
俺は抱えた骨壷のカバーを外して中を覗いた。
中に丁寧に詰められた母さんの骨は、2年という年月がピンとこないくらい白くて綺麗だった。
触れた指先にザラザラした感触が伝わる。本当の意味で、母さんと対面した。意外にもなんの感情も湧いてこなかった。
小さな骨壷を抱えた時は、母さんが死んだんだっていう実感があったけど、いざ中の遺骨を見たらこれが母さんって言われてもよく分からなかった。
「じゃあこれ。」
「?」
白鳥がそこら辺で拾った石を手渡してくる。
「すり潰して粉にしましょ。で流すの。」
「……。」
車から持ってきたシートの上に遺骨を出す。ひとつずつ丁寧に手で取り出して並べた。両手で抱えるくらいの骨壷の中身も、大きなものは上の方しかなくて、下の方の骨は細かくなってた。
それをまた一つずつ石で押しつぶすようにして粉にしていく。弱い力で簡単にボロボロに崩れていく骨を見てなんだか悪いことをしてる気がした。ていうか悪いことなんじゃない?
「…ここ、骨撒いていいの?」
「だからバレなきゃいいんですって。細かくしとけば分かりませんよ。」
「…煙草。」
「焼香代わりです。一本どうぞ。」
こんな時に煙草なんてと思ったけど、俺は白鳥から煙草を受け取って火をつけてた。もやもやと白い煙が立ち上って遠くの空に吸い込まれていく。空も赤く染まりだし夜の訪れを予感させる。
「……こんなやり方でいいのかな。」
「いいんじゃないですか?だって--」
深く紫煙を吐き出す白鳥は煙を追って空を見上げた。紅い瞳が藍色の空を映して暗く染まってる。
「ここで流してあげたら、そのままあなたと同じ場所に行ける気がしませんか?」
白鳥の煙と共に吐き出された言葉に複雑な気持ちになる。本当に死んだみたいな気分だ。
「……俺、生きてるから。」
「あなたの過去と……心。流れて行ってしまったお母さんとの記憶……」
「……。」
「お母さんも、今のあなたも、もう他人です。」
白鳥の言葉はまた、ひどく耳障りの良いように聞こえてた。そう思うことで救われた気にはならないけど、そう思えばなんだか母さんが救われる気がしたから。
煙に包まれた河川敷から、細かくなった灰を流した。
感触も分からないくらい粉々になった母さんを手ですくって風に乗せて川に帰していく。灰が手を離れる度に心の中で呟いた。
……ごめん。
あなたの事を知りたい…
もし、許されるなら、取り戻した記憶のその先で、あなたに会いに行ってもいいですか……?
あの日の夜よりは静かに流れる川の水が、母さんを攫って流れていく。
どうか、流れに乗って行った先で、『俺』に出会えますように……
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