第15話 悪魔に取り憑かれた男
「--犬山千秋さん、お話よろしいですか?」
差し出した教科書を手に取った彼女--犬山に俺は詰め寄っていた。傍から見たら女性駅員に言い寄る不審者だ。人が居なくて良かった。
困惑、不安、衝撃--様々な感情の色が浮かんでは沈む彼女の瞳は、俺を見つめたまま固まっていた。石像のように微動だにせず俺を見つめて立ち尽くす犬山に俺は必死で呼びかけていた。
「あなた、俺の事ご存知ですよね?もしそうなら……俺の事…昔のことを聞かせて欲しいんです。お願いします。」
精一杯誠意を込めて俺は彼女に向かって頭を下げた。
俺のその行動が突然すぎたからなのか、彼女は目の端が裂けんばかりに両目を見開いていた。
「……お願いします。記憶が無いんです。思い出したいんです。」
「……あ。え?……。」
しばらく頭を下げ続けて、頭をあげた先でまだ犬山は混乱してる様子だった。
なにがそれ程想定外なのか…あるいは、本当に俺の勘違いで意味の分からない奴に詰め寄られて固まっているのか……
「……あの。」
「……ほんとに、なんも覚えてないん?」
「……え?」
空気を揺らすのは微かな呟き声。聞き取れず聞き返す俺に彼女の目はまだ揺れている。
「……まじで、ほんとなんだ。この前言ってたの……」
心にかかった雲から一筋の光が差す。俺の目も自然と輝いていたと思う。
「……てか、なんで生きてるの?」
「……いや、そもそも死んでない。」
「……。」
「やっぱり、俺の事ご存知ですね?少しでいいんです。お時間頂けませんか?」
無意識に一歩詰め寄る俺に犬山は二歩後退する。俺は慌てて距離を取ってからまた頭を下げた。
「お願いします……」
「……なんの、つもり?」
「……え?」
「今更出てきて…なんのつもり?私、今普通に生きてるんだ……」
「……。」
「……何がしたいの?」
犬山の視線が包丁の切っ先みたいに俺の胸に突き刺さる。
その目は不気味なものを見るような…水底から浮かんできた醜悪な腐乱死体でも見下ろすような、そんな心の拒絶を表していた。
彼女の言っていることの真意は図りかねた。それでも俺は頭を下げた。
「……ご迷惑はかけません。お願いします。少しでいいんです。」
「……ご迷惑。」
目の前に現れたことが迷惑だとでも言わんばかりに、冷たい茨のような視線が向けられる。
それでも藁にも縋る思いで俺は頭を下げていた。俺に出来るのはそれだけだと思った。
俺は彼女になにかしたのかもしれない……
そうも思ったから、深く下げた。
何に対する謝罪なのかも分からない謝罪など意味が無いけど…
「……今無理、仕事中。」
彼女の言葉に頭をあげる。辺りを見回す彼女はちらりと横目で俺に視線をよこしてから早口で告げる。
「駅の下にケムタッキーあるから、そこで……」
「……いいんですか?」
「12時に昼休憩だから。」
それだけ言って、彼女は足下に置いたカバンを手に取り歩き去っていく。脇に抱えた教科書をしっかり持って……
足早に俺から離れていく彼女の態度が信じられなくて、俺は背中を見せる彼女にまた小さく頭を下げていた。
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先に駅下のケムタッキーに入店し、窓際の席に陣取った俺は、コーラをストローで啜りながら彼女が来るのを待った。
この後、彼女の口からどんな話を聞かせてもらえるだろう……
微かな欠片だけ残して消え去った過去への手がかりに俺は心を踊らせる以上に、不安が募る。
彼女の俺に対する態度…そして言葉……
--なんの、つもり?
--私今、普通に生きてるんだ。
知らなくちゃいけないっていう気持ちと、知るのが余計に怖くなったという臆病な気持ちがゆらゆらと揺れていた。頼りない蝋燭の火みたいに……
ちびちび飲んでいたコーラもなくたって、氷の味しかしなくなった頃、店内に犬山は現れた。
立ち上がった俺の姿を見つけて彼女は真っ直ぐにこちらに向かってきた。
「なにか頼みますか?」
「長居するつもりないから。」
そう言って彼女は俺の対面にどっかりと座った。伏せられた目からは表情を読み取れなかった。
ようやく実現した過去の証人との対面に、俺の心臓がバクバクとうるさく膨らんでいく。
「……お時間取らせてすみません。」
「……敬語、やめて。気持ち悪い。」
「え?」
「らしくないから。タメだしタメ口でいい。」
恐らく彼女は同級生。かつての俺を知っているならまぁ分からなくもない話だった。若干の居心地の悪さを感じながら俺は口を開いた。
「犬山千秋さん……俺の同級生…だよね?多分。」
「クラスも同じだった。」
「そう……」
犬山は向かいの俺をまじまじと眺めて小さなため息をついていた。
「……まるで別人。」
「…そうなんだ。昔の俺ってどんなだった?」
「……。」
「……あの?」
「思い出してどうするの?」
唐突な問いかけに俺は直ぐに返せなかった。質問をよく噛み砕いて理解してから慎重に口を開いた。
「……どうするもなにも…それは思い出してみないと…知ってるかもしれないけど、俺、多分死のうとしたんだ。」
「……二月川。」
「うん。」
「その訳を知りたいってこと?」
「……それだけじゃないけど。自分がどんな奴だったのかを知りたい……」
「……知らなくてもいいことだってある。」
犬山はまた小さく聞き取れるか否かくらいの声で呟いていた。
「…記憶を取り戻したら、あなたはまた昔のあなたに戻るの?」
「……どういうこと?」
「私は思い出したくない。」
犬山はテーブルの上に置いた右腕の袖をゆっくりと捲り上げて、その腕を顕にした。
細い腕を見て息を呑む。その腕には生々しい火傷の跡が腕を這うように広がっていた。昔の火傷跡だろうが、癒えない傷跡は今も彼女を焼いているんだ。
焼け爛れた腕を見て真っ先にあの事件を思い出す。
二学期最後の日、愛染高校が放火された事件--
その時の火傷かは分からない…でも、彼女が見せつける火傷跡に俺は心臓を鷲掴みにされた思いだった。
「……それは?」
「あなたは知らないか…」
すぐに隠すように袖を戻す犬山が薄く開いた瞳で俺を見つめる。その色を帯びた視線は、俺を底なし沼に引きずり込むようだった。
「……2年前の放火事件の?」
「……知ってたの。」
「俺が…川に入った翌日だった…」
「--私は無関係だって思ってない。」
心臓を握っている手が氷になった。犬山の発したその一言に、わけも分からない絶望が込み上げていた。
「……私の事、殺そうとしたんだって思った。」
「……殺す?」
「でも、あの事件で
「まっ…待って。」
次から次に飛び出す言葉に俺はストップをかけた。そのまま聞いていたら心臓が壊れてしまいそうだったから。
「殺すって……俺が?君を?なんで?あの放火は俺が川に入った翌日だろ?」
「……。」
「そもそも、俺らはどういう関係だったの?」
「……望月海斗。」
「……望月。」
「覚えてないか。」
「名前は知ってる。その放火事件の犯人……でしょ?」
胸中で渦を巻く泥のような重たい悪寒が背中まで吹き出した。
その名前に記憶の中で心当たりはないけど……
「俺と彼は……知り合いだった?」
「知り合い?」
犬山は大きく息を吸い込んで、鼻から抜くように深呼吸した。その行為が俺には溢れ出す感情を抑え込んでいるように見えた。
「仲良しでしょ?友達のことも覚えてない?」
「……友達。」
込み上げてくるのは濁水--喉元までせりあがってくる吐き気は氾濫した川の汚れ水のように俺の内側を侵していた。
関係があるのか…?放火事件と。関わっているのか?どういう形で?
彼女の俺に対する対応の数々が忍び寄る影となり心を染めていく。煙草の煙にまみれた肺みたいに黒ずんでいく。
どうして死のうとした?なぜ彼はそんなことを?
「……俺と、君や望月という人とは…どういう繋がりがあった?教えて…その火傷跡は俺のせいなのか?」
「そんなの私が知りたい。」
彼女の眼光はナイフのように切れ味を帯び、煤だらけの心を切り裂いた。吹き出る血飛沫が色んなところから溢れ出てきそうだ。
不安が確実なかたちになった。知るんじゃなかった。
でも、知らないままではダメな気がした。そう思うのとは裏腹に、『思い出したくない』と語る彼女の言葉にそれ以上踏み込むのが躊躇われる。
「--俺は何者だ?」
それでも絞り出した言葉に犬山はまた鋭い瞳を向ける。射殺さんばかりに。
なにか取り返しのつかないことをした…その本人が、なにも覚えてないと被害者に訴えている。彼女の殺意すら感じる瞳に俺は弁明する言葉を持っていなかった。
那雪菜月が--母さんが--
そう言い思い続けた俺が初めて、『俺』自信に迫りたいと願っている。知らなければいけないと思ったから……
だから、俺を睨む犬山に懇願する。
俺には、彼女しか居なかったから……
「……あなた“たち”がしたことは忘れない。私自身の弱さも含めて……」
「何をしたんだ?」
「--桂花。」
彼女の口から再びその名前が出てきた。紡がれた声からは俺に向けるものとは比較にならない程の憎悪を感じた。
それほど彼女の語気は強まり、呟くようだった声もその名を口にする瞬間だけはっきりとしたものになった。
「……ケイカ?」
「ねぇ、『悪魔』ってどんな顔してると思う?」
「……は?」
冷たい笑みに口端を歪めた彼女は、その笑みを俺にむけていた。
「--本物の悪魔が居るとしたら、あの女よ。」
「……っ。」
「あんたは悪魔に取り憑かれた男……」
質問の答えはあまりにも突飛で抽象的で、そして全てを物語る。
ケイカ--俺はその一瞬でその名を刻んだ。
「取り戻さなくていい…なんにも返ってこないもの。あんたも、死ぬ思いしてやっと悪魔から開放されたの…だから、もう思い出そうなんて思わないで。」
「……ケイカって。」
「あと、もう二度と会わない。」
それだけ一方的に告げて彼女は席を立った。
一切振り返ることなく真っ直ぐ前を向いて歩き去る彼女の後ろ姿に、俺は『今を生きる』という言葉の“カタチ”を見た気がした。
そんな彼女の背中をこれ以上過去に引っ張ってはいけないと思った。
「待ってっ!!」
だから俺は立ち上がり、最後に声を張り上げた。店内の少ない客が俺の方に視線を向ける。彼女も立ち止まって振り返った。
吹雪のような凍える視線を向ける彼女に俺は乾いた口でその名を紡いだ。
「--那雪菜月って知ってるか?」
「……。」
これ以上聞く気はないと彼女はそのまま何も返さずに踵を返して歩き去っていく。
早足になる歩調に俺の言葉は追いつけず、取り残された声だけがどこへでもなく消えていく。
立ち尽くした俺に客達も興味を失い視線が外れていく。
ただ一人取り残された俺の周りを周りから切り離されたような空気が巻く。
この時俺は現実を知る。
俺はまだこの世界に一人取り残されたままなんだと……
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