第8話 新生活
--あの夜、二月川から帰る帰路の車中。
白鳥の手を取った俺はぼんやり窓の外を眺めながら口を開いてた。
「……どうして俺に良くしてくれるんですか?」
「……敬語。」
「……良くしてくれる?」
指摘されて言葉を変える。なんだかやりにくかった。気安くタメ口をきくほど、俺と彼女の距離はまだ縮まってない気がしていた。
でも、あの時……俺の弱さが彼女の冷たい手に触れた時、触れた手の分くらいは近づいたような気もしてた。
「あんなこと言われて、優しくされたって、思ってます?」
「違うの?」
「怒るかと思ってました。」
俺に敬語を使うなと言いながら彼女の言葉遣いは何も変わらなかった。
何も変わってない。出会った時から……
「ひとりは寂しいでしょ?私もです。」
ただそれだけ言って彼女はまた笑った。優しげに湛えるその表情は、どこか彼女の本心とは遠いように思える。
ただ、言葉に滲ませた感情らしきものは、俺の心に絡みついた。
「……あなた--あ〜…なんて呼べばいい?」
「柊奈ちゃん。」
「……白鳥さん。」
「やだなぁ他人行儀で。」
「……白鳥は、ひとりぼっちなの?」
「いっつもひとりですよ。ひとりが好きなので…でも飽きちゃった。」
ハンドルを握る白鳥はこちらに視線だけ寄越して紅い瞳を細めてた。俺の表面を突き抜けて奥まで見透すような透明な眼差しだ。
綺麗な目をしてるって思った。
「なんにもないんだもの。この町は。」
それにどんな意味が込められてるのかは、推し量るには俺は彼女を知らなすぎる。俺はただ黙って規則的に横に流れていく都市高速の明かりに目をやった。
「なんにもないんです。無くなっちゃった。私の宝箱……」
「宝箱?」
「憐ちゃん。」
「憐ちゃん?」
「あれ?嫌?どう呼べばいいですかね?これから。」
これからという言葉が深く染みる。薄っぺらな半紙に滲む墨汁みたいに、ペラペラで何も無い俺にこれからを想像させた。
ただ、あんまり突拍子もない出会いに、そのこれからもやっぱり見当もつかない。
それは、まだ変わらない……
「なんでも……」
「憐ちゃんは、本当に私と生きてくれる?私、結構面倒臭いですよ?」
「……抽象的すぎてよく分かんない。」
「よく分かんないのに約束しちゃだめでしょ。」
「どういう意味?」
「私と、これからの時間を、紡いで行ってくれますか?ずっと。」
都市高速の真ん中で工事してた作業車のオレンジのランプが白鳥の横顔を照らす。流れるような一瞬に覗いた彼女の顔は幼い子供みたいに無邪気に笑ってた。
「……ずっと。」
「ずっと。」
「……多分。」
「あははは、多分かぁ。」
『一緒に生きる』の意味を考えた。考えたけど、やっぱり一番それっぽい答えは『添い遂げる』とかそこら辺…
彼女の隣に並ぶ自分の姿が、やっぱりイメージできないけど…
俺はあえて、その言葉の意味を彼女に問うことはなく…
少しだけ開けた窓から流れ込んでくる冷たい空気を吸い込んで、彼女の語るこれからに思いを馳せていた。
********************
桜区から帰ってきた俺は鍛冶山区の駅の前に立っていた。
今日はあの犬山という駅員と遭遇することはなく、ぶたれることなく無事に駅を出られた。
ロータリーの前に立ちながら手に提げた通学カバンをどうするかと悩んでいたら、排気ガスを吐き散らしながら白いクラウンが俺の前に停車した。
「おかえり。」
「ただいま。」
白鳥の車に乗り込んですぐ、目の前に煙草が突きつけられる。受け取って口に咥えたらまたすぐに目の前でライターが点火された。
「ちゃんと挨拶してきました?」
「誰に?」
「お世話になった人達。」
「まぁ……」
「じゃあ行きましょうか。我が家へ。」
言うと同時にアクセルを踏み込んだ車が走り出す。ぐるりと回る車に揺られながら硬いシートに身を沈めた。
「それは?」
「警察から俺の私物、貰ってきた。これ俺の高校のカバン。」
「へー。思い出の品ですね。どうするんですか?」
「……捨てる。多分。」
俺がそう言うと白鳥は満足そうに笑った。
駅から歩いたら1時間はゆうにかかる『杜の隠れ家』も、車ならものの20分程だ。
「…店の辺りって、小嶽山の林道あるよね?」
「ええ。」
「紅葉のシーズンにはいっぱい人来るんでしょ?温泉あるとか聞いた。」
「ありますね。」
「その割には交通の便悪くね?」
「シーズンになるとシャトルバスが通りますから。」
「そうなんだ……」
「あそこら辺は人も住んでないし…普段はバスも一時間に一本とかですけど。」
車はどんどん町の中心から離れて、道行く人の数も少なくなっていく。田んぼばかりの寂しい道は彼女の言った『ひとりぼっち』と重なる光景だった。
「…白鳥はこの町の生まれ?」
「ええ。」
「出ていこうとか思わなかったの?」
「夢だったので。田舎で喫茶店やるのが……」
「あれ、白鳥が開いた店なんだ。ご両親は?」
「ん?挨拶してくれるんですか?」
「え?いや……」
『一緒に生きる』の言葉が過ぎる。やっぱりそういう意味ですか?
「居ませんよ。亡くなりました。」
「そう…ごめん。」
「だからひとりぼっちです。あなたは?」
「……母さんだけ。俺が川入ってすぐ自殺したって。」
「一緒ですね。」
開けた窓から流れる風に煙草の煙がついて行く。目に入って染みた。
……母さん。
顔も思い出せない。藤城に写真くらい貰えば良かったかもしれない。
「責任、感じてます?」
「なにが?」
「お母さん亡くなったの、絶対あなたのせいですよね?」
忘れてた痛みがズキリと蘇った。古い傷口に指を押し込むように…紫色になった傷口から赤黒い血が一筋垂れていく。流れる血が焼くように俺の胸が痛いと叫ぶ。
「……まぁ、多分ね。」
「関係ないか。だって私と生きるんだもの、ねぇ?」
悪意があるのかないのか、俺の傷をえぐってる自覚があるのかないのか、白鳥は笑った。
俺はその顔を見れずにただ前を向いていた。
きっと俺に、被害者ぶる資格はない。
俺の瘡蓋が盛大にひっぺがされた頃、俺たちは『杜の隠れ家』に到着した。
今日から住み込みで働く……つまりここが俺の“家”になるわけだ。
裏口から入って直ぐに白鳥は2階に案内してくれた。
2階の階段を上がって突き当たりの部屋。白鳥は扉を開いた。
「今日からここが憐ちゃんのお城です。」
「……。」
畳3畳分くらいの部屋に、ベッドと小さなテレビが置かれてた。壁には小さなクローゼットもついていて、大きな窓もついている。白い無地のカーテンが暖かい日差しを薄ら迎え入れてくれている。
「元々は私が使ってた部屋ですけど…」
「え?白鳥はどうすんの?」
「もう一部屋あるのでご心配なく。ささ、荷物置いて、支度が出来たら下に降りてきてください。」
俺を部屋に押し込んだ白鳥はそのまま扉を閉めて出ていった。階段を踏む軽快な足音が遠のいていく。
とりあえず通学カバンを床に置いて、俺はクローゼットの中を開けてみた。中には数着、男物の衣類がハンガーにかけてある。それ以外は何も無い。
わざわざ用意してくれたんだろうか。礼を言わなきゃなと思いながら俺は着ていたダウンジャケットをクローゼットにかけた。
部屋を出たら向かいにもう一部屋。あれが彼女の部屋だろう。
2階は狭くて階段を上がった先はその2部屋、その2部屋の間に伸びる狭い廊下しかない。
廊下の窓際には小さな花瓶に花が生けてあった。マーガレットだろうか。目に優しい白い花が控えめに愛らしく殺風景な廊下を彩っていた。
そのまま下に降りたら階段横にトイレ、ここにもマーガレットが咲いている。反対側の引き戸の向こうは台所だろうか。
カーテンのようにしかれた暖簾をくぐると小さな扉があって、扉を押し開けた。
その先には見慣れた--と言うほどでもないがあの喫茶店の内装がひんやりした空気で俺を出迎えた。まだ明かりもついてなくて開店前の店内はひっそりと寂しい雰囲気だ。
扉を開いて直ぐにカウンターの向こうに出たようで、コーヒーや食器類が並んだ棚の横で白鳥がウキウキした様子で俺を待ってた。
彼女の手に提げられたおろしたての衣服に目をやる。
「……それ。」
「うちの制服です。今日から従業員ですので、ささ。着てみてください。」
なんだか嬉しそうに白鳥は制服とエプロンを押し付けてくる。
「……どこで着替えたらいい?」
「どうぞ。」
「いやどうぞじゃなくて…」
一旦店内から出て廊下で着替える。視線のようなものを感じるがもう気にしない。
制服は白鳥と同じもので白いシャツの上から黒いベストを着て、下も黒のズボン。その上に腰掛けのエプロンを巻く。白鳥のものと違ってクロスタイだ。
手早く身につけて俺は白鳥の元に戻った。俺の制服姿に彼女は大層満足した様子でぴょんぴょんうさぎみたいに飛び跳ねた。
「おーっ!いい感じではないですか。サイズも問題ないですね。」
「……なんでサイズ分かったん?」
「愛。」
彼女の印象がどんどん初対面の時から離れていく。こんな人だっけ?
「まぁいいじゃないですか。仕事の時はそれ着てくださいね?明日からコーヒーの銘柄とか淹れ方、指導しますので。」
「今日からじゃないの?」
「今日は店開けませんので。」
白鳥はそう言うとモップとバケツを持って来て俺に押し付けた。
「さ、最初のお仕事です。」
「……掃除。」
「明日朝から開けるので、今日やっとけば明日しなくていいでしょう?」
開店前にやるんじゃないのか…?
「水は裏口から出て直ぐに水道あるんで、そこから撮ってください。」
そう言いながら白鳥はカウンターに置いてた長財布を手に奥に引っ込んでいく。
「……どこ行くの?」
「夕飯の買い出しですよ?私が戻ってくるまでに終わらせてくださいね?」
奔放な店主はそう言ってステップを踏むような軽い足取りで店を出ていった。
……俺に掃除を押し付けて。
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