第5話 大切な人だったのかもしれない
火傷したみたいに頬が熱い。叩かれた肩頬は火照ったみたいに熱を帯びていた。
相変わらず寂しい田んぼの畦道を歩く。前回と変わらない静かな街の光景だ。すれ違う学生まで前回と同じ。遠くの方で白い鳥が水田で戯れていて、虫が鳴いている。
澄んだ青空に線を描くように伸びる電線と広がる田んぼで羽を伸ばす野鳥の光景は、なんだかこの前検索した那雪菜月の作品みたいだ。
人の営と自然の調和--
彼女はこの市の出身のようだ。もしかしたらこういう光景を地元で目にしていたことが、彼女の創作に影響を与えたのかもしれない。
広大で人影のない景色と吹き荒ぶ冷たい風は、冬の哀愁を感じさせた……
一時間と数十分、歩いた所で俺はあの店を再び目にした。ここら辺になるとバス停も少なくてもしかしたらバスの終着の先なのかもしれない。交通の便は最悪だ。
青空の向こうに雄大にそびえ立つ小嶽山の入口の林道には、白い太陽の光がうっすらと差し込んでいて薄暗い路に白い線のような光を落としていた。
なんともいえない幻想的なその雰囲気はそれだけで画になった。
そんな林道の入口から少し外れた脇に、変わらず『杜の隠れ家』は建っていた。
入口前の立て看板は出ていたけど、入口の札は『CLOSE』となっていた。
「……開いてないのか。」
平日の昼間。休みとは考えられないけど、看板に書かれた営業時間が『起きてから寝るまで』だ。
店主も趣味でやってると言っていた。もしかしたら不定休なのかもしれない。待っていたら開くのかも……
店の横に回って窓から中を覗いてみる。
店内には人影はなくて、手前のテーブルの上には椅子が乗せられていた。開店前といった感じだ。
「……ほんとに休みかも。」
わざわざ足を運んだけど無駄足だったかもしれない。
寒いし待っていても仕方ないので俺は帰ることにした。駅まで戻ればコンビニもあるだろう。そこで適当に昼食を済ませよう。
来た道を戻ろうと店の入口まで戻った時、土を踏むような足音が聞こえた。
振り返って見た時、店の裏手から白い煙が立ち登ってるのを目にした。人がいるのかと見ていた俺の視界に、あの人が飛び込んできた。
「……ん?」
向こうもこちらに気づいた様子。口に煙草を咥えたあの店主が銀色の毛先を揺らしながらこちらを見た。
すぐに客と気づいたのか、店主は眠たそうな双眸を細めて笑った。
「……どうも。」
「いらっしゃいませ。」
********************
店主はすぐに店を開けてくれた。まだ開店前の店内に通されて昨日と同じカウンター席に腰を下ろした。
「お待ちしてました。」
「……どうも。なんかすみません、今日、お休みだったんじゃ……?」
「いつも休みみたいなものなので……今日は夕方から開けようと思ってたんです。」
「夕方…」
「ごめんなさいね。掃除の途中だったから……ご注文は?」
「……じゃあ、前回と同じものを。」
「今日はサンドウィッチがオススメですよ?」
「……じゃあ、サンドウィッチと、ブルーマウンテン。」
俺の注文を受けて店主は微笑んで頷いた。外で冷えた頬が白くなっていた。
前回と同様、目の前でコーヒーを淹れてくれた彼女からブルーマウンテンを受け取って一口啜る。当然だけど、自販機で買うコーヒーとは味が全然違うく感じる。
スパゲティの時より素早くサンドウィッチは提供された。スクランブルエッグとハムと、フルーツサンドだった。結構ボリュームがある。この店はちゃんとした食事が出てくる。前回のスパゲティもちゃんと手作りって感じだった。
俺がサンドウィッチを頬張る前で店主はまた違う豆をコーヒーミルでひいてペーパードリップしている。
「……いい匂い。それはなんてコーヒーですか?」
「キリマンジャロですよ。フルーティーな香りでしょう?でも酸味の強い味なんです。」
「へぇ……」
「タンザニア産のコーヒー豆は全部キリマンジャロなんです。」
「へぇ…」
「一口いかがですか?」
「え?」
熱いカップを差し出してくる彼女のいきなりの行動に困惑する。だってそれは自分が飲む用に淹れたんだろう。
俺が飲んだあとあなたも飲むんですか?そのカップで?
「いや……次の機会に。」
なんだか勝手に変な想像が膨らんで俺は辞退した。そんな俺の対応に店主はキョトンとしてからクスリと笑った。
「じゃあ、次の機会に…また約束です。」
「……っ。」
「お得意様ですね。」
いたずらっぽく笑う彼女の顔から視線を逸らす。口の中で溶けるフルーツサンドの果汁が甘かった。
--しばらくお互いに静かな時間の中、コーヒーの味を楽しんでいた。店主が口を開いたのは俺がサンドウィッチを完食したのを見計らった頃だった。
「新聞読みました。」
「ん?」
「二年間意識不明だった男性が意識を取り戻したって…それで過去の記事を調べてみました。二年間川で心中未遂を起こした高校生が居たって……」
心臓が凍りついた。ぎゅっと締め付けられて息が詰まる。
自分から話したんだからまあ詳細がバレても当然だが、彼女の口から出てきた『心中』の言葉に一瞬俺の時が止まった。
カップに触れた手が少し震えた。
それは、空っぽでなにも分からない自分の領域に他人が入ってきたことへの焦り、あるいは記憶を無くしてから初めて拠り所となりつつある場所で、自分の不確かな過ちに言及されたことへの罪悪感と言いようのない不安感か……
「……まぁ。」
「すみません。興味本位で……」
「いや。」
心地いい静寂が一気に居心地の悪いものに変わった。俺から何かを言い出せずにただ彼女の言葉を待った。
「新聞には同じ高校の女子生徒って書いてましたけど…」
「まぁ、なんにも覚えてないんですけど……」
「……大切な人がいらしたんですね。」
上から降り注ぐ彼女の声は予想しなかった程に優しげで、温かい毛布みたいに冷え込んだ心臓を、鼓膜から入ってきた声が包み込んでくれた。
慈愛と、どこか憂いが混じった声が心地よかった。よく分からないけど、許された気がしたから……
「……本当のところは分からないんです。心中っていうのも、警察の捜査の結果の…憶測だし、肝心の彼女は見つかってなくて……」
「そう書いてましたね。」
「俺の方もこんなだし……」
コーヒーを啜る。コーヒーの熱が舌に乗りそのまま喉を流れていく。お腹に落ちた温かさは手足にまで熱を与えてくれた。落ち着いた。
「……それは、思い出さないといけないですね。」
次に彼女が口にしたのは前回とは真逆の言葉だった。俺はカップの中の黒い水面に映る自分から視線をあげた。
俺を見つめる視線は冬の雪のように柔らかかった。きっと触れたなら溶けてしまうくらい…
「やっぱり、大切な方だったと思いますよ。」
「……。」
「最期まで一緒に居たんでしょう?」
大切な人……
--心中。恋仲の男女同士なら情死か……
確かにそのワードを耳にしたらそういう関係なんだって思う。俺も最初そう考えた。
ただ……彼女の--那雪菜月という人物を知れば知る程、それがなんだか現実味がなくて、信じられなくて……
光の中を歩いていたであろう彼女の姿が、俺の『大切な人』なんて括りにはまるのは、どうしても想像ができなかった。
でも……
影に濡れた彼女の眼差しを目にした。彼女が死のうとしたんだっていうのは、なんだかそれが事実として目の前にあっても疑わない気がした。
若さと才能に溢れた栄光の中にあって、彼女の影は深く濃かったんだろうなって…思った。
なんでそう思うのかも、分からないけど…
「……その人、那雪っていう人なんですけどね。」
「……っ、へぇ。」
ぽつりと呟いた俺の言葉に店主は微かな反応を示した。彼女の目を見る俺に彼女は言った。
「有名な方ですね…那雪……画家の那雪さん?」
「ご存知ですか?」
「この市の出身ですから…えっと、娘さんがいらしたと思うけどその方ですよね?お名前は--」
「那雪菜月。」
「ああ…確か娘さんも絵を描かれてたって。すごいですね。そんなすごい方と同級生で、懇意にされてたかもしれないなんて……」
店主は俺の顔をじっと見て笑った。
「モテそうですもんね。」
「……俺?」
「ええ。素敵なお顔ですよ。」
お世辞だろうけど、こんな美人から言われたら悪い気はしない。というか照れてしまう。無意識のうちにまた視線を逸らす俺がおかしかったのか店主はくすくす笑ってた。
「可愛い人ですね。」
「馬鹿にしてます?」
「全然?」
店主の鈴のような笑い声が店内に静かに色を付ける。お陰で湿っぽかった空気が少しは緩んでくれた気がする。
「……二月川でしたっけ?」
「へ?」
「自殺しようとした場所……」
「……ええ、桜区にあるって言う…」
「行ってみました?」
「……いや。寒いし、冬の川は危ないし……」
「事件現場に行けばなにか思い出すかもしれませんよ?」
店主の言葉に俺は言葉に詰まった。
正直、行くのが怖いってのもあった。実際、行ったらなにか思い出しそうだから……
思い出してしまったら、この人が言うように俺は死にたくなるんじゃないだろうか……
記憶を取り戻したその場で川に入っていこうとする自分が想像できてしまった。
過去の傷……過ち……分からないけど、分からないからこそ、記憶を取り戻すのが怖いっていう感情が根底にあった。
「……。」
「……今夜はよく晴れるそうで。」
「は?」
俯いたまま動かない俺に店主は世間話の続きをするように軽い口調でそう呟いた。
「行ってみませんか?二月川…」
突拍子のない彼女の提案に俺は固まっていた。
二人の間で、コーヒーのかぐわしい湯気がゆらゆら揺らめいてた。
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