第4話 誰かも知らない彼女
昨日の雨から一転、今朝はよく晴れた。
青空を覗かせる寒い朝は空気が綺麗な気がして、意味もなく深呼吸したりする。肺に入ってくる冷気が頭を冴えさせる。
足下を埋め尽くす枯葉達を踏みながら奏でる足音は軽やか。パキパキと気持ちいい足音が耳を刺激する。
俺はその足で図書館に向かった。平日の朝。すれ違う人々はスーツや学生服に身を包み、寒そうに肩をすぼめて歩いてる。その隣を俺は歩く。無職は気楽なものだ。
朝の図書館はほとんど人が居らず、ちらほら若者が椅子に座って参考書を開いてるだけだった。浪人生かなんかだろうか。
図書館の独特な空気感というか、文字の世界にのみ没頭する彼が作り出す静寂はなんだか安心する。
図書館の隅に置かれたパソコンの前に座る。検索サイトに『那雪菜月』の名前を入力し検索をかける。
藤城が言った通り調べたら彼女のことはすぐに分かった。
--那雪菜月
現役高校生にして数々の作品を残している洋画家。10歳にして西日本の新人画家、芸術家にとって登竜門となる『西日本洋画賞』にて大賞を受賞。その後数々の作品が著名なコンクールに入賞している。
作品の多くは自然を題材としており、『人と自然の調和』が多くの作品のテーマになっているようだ。荘厳な大自然に人工物や人の営みを混ぜ込んだ画風が特徴。
北桜路市港中央区在住、父親は著名な画家那雪龍介。彼女もまた父の影響で5歳の頃から芸術に触れて育ったという。
--20〇〇年12月23日より、現在に至るまで行方不明。
ネットで検索をかけたら、彼女の作品がいっぱい出てきた。
芸術に造詣のない俺にはよく分からないが、俺の想像する色がごちゃごちゃした“芸術”と違い、少ない色で描かれてるように見えた。実際は色んな絵の具とか使ってるんだろうけど……
出てきた詳細にある通り、広大な空や山々、海、そういった大自然の中に人工物や人々の暮らしの風景が織り込まれている。
一見すると写実主義の作品なのかと思ったが、海原に佇む電波塔や氷の大地の中を泳ぐ旅客機など、中には幻想的な雰囲気の作品も多々見受けられた。
見たって分からない。分からないけど、俺は夢中でそれらの作品を漁っていた。
こんな作品達を生み出す所謂“天才”と、自分がどうしても結びつかない。そう思うくらいには彼女の作品たちは俺を惹きつけた。
何故だろうか……胸が締め付けられる。じんわりのとした痛みが胸の奥に広がってる。俺は、この作品を知ってる気がした。
作品たちを見ていたら本人の写真が出てきた。白いセーラー服姿で賞状を手に写真に写っている。なにかのコンクールの入賞時の写真のようだ。
写真の向こうの彼女はうっすらとした微笑みを浮かべて視線の先の人々に自らの手の中の栄光を見せている。
ただ、その表情や視線にはどこか憂いが帯びていて、喜ばしい場面だと言うのに柔らかな表情とは裏腹に寂しそうに感じた。
俺はそんな彼女の顔に…パソコンのモニターに指を這わせていた。この写真の彼女の顔を見た途端、彼女が死のうとしたという話に妙な説得力が生まれた気がした。
分からないけど……本当に自分の意思で死のうとしたのか、死んでしまったのかも……
「……君は誰だ?」
********************
その後彼女と俺の母校についても調べてみた。
北桜路市桜区にある共学の進学校。偏差値は65。今年で創立110年で三学期制、歴史のある学校のようだ。進学率はよく、東大合格者も出ている。進学校ではあるが就職率も悪くない。
20〇〇年12月24日、二学期終業式の日に同校男子生徒(18)による放火事件が発生。
式の為大勢の生徒、教職員の集まる体育館にてガソリンが撒かれたうえでライターで放火。生徒、職員含め111人の死者、負傷者多数の被害を出した。教育施設に対する、それも未成年による放火殺人として当時は世間を震撼させたようだ。
尚、犯人の男子生徒もこの火災で死亡している。
図書館を後にして公共職業安定所に向かった。
職安には人が大勢居り、藤城の語った就職難という言葉が思い起こされる。
生活保護を受給する際に世話になった職員に事情を説明して適当な仕事がないかと尋ねてみた。
職員の進めてきた仕事はどれも土木関係。日雇いや短期のものも多い。工場勤務の場合はリフトの免許等が必要なものがほとんどだという。
なにより、ほとんどの求人は運転免許を必要としているものばかりだった。
いくつかの求人をプリントアウトしてもらって隅っこに座る。職安の居るほとんどは中年、高年の男性だ。
「……土木か。務まるのやら……」
自分の体を見てみる。線が細くてひょろっとして見える。ただ、意外と筋肉はあるようでもしかしたらなにかスポーツをしてたのかもしれない。
体力的には問題ないだろうが、問題は仕事のほとんどが日雇いや短期間のものということ。今後のことを考えたら長く働ける所がいい。
それより、こんな素性の知れない男を雇ってくれるだろうか……
********************
後日いくつかの会社に連絡を取ってその中の交通整理のアルバイトを選んだ。
車道工場の交通整理とのことで一日中立ち仕事。条件は18歳以上であること。資格は不要。交通費支給。場所は扇区だった。
空白だらけの履歴書を持っていったらすぐに受かった。一週間後から現場に入った。
短期のアルバイトで期間は約一週間。時給は決して高くはなかったが無収入という状況に俺は内心焦っていた。
何らかの生活向上の努力は生活保護を受ける上で必要な条件だ。とにかくお金が欲しかった。
2月の寒空の下での立ち仕事はなかなか堪えた。けれど、基本立ってるだけなので難しいことはなく何とかやり遂げられた。
バイト代は手渡しで茶封筒に入った現金を受け取った時はなんだかちょっとした感動を覚えた。
現状はなにも解決してないにも関わらず、少しだけ社会の中で居場所を得られたような気分になった。
初めての労働で得た賃金、何に使うか迷った。もちろん無駄遣いできるものではない。ただ、自販機の前に立ってコーヒーを買おうとした時、その指がピタリと止まった。
約束--という程のものでもないのだが、思い出したから。
--またのお越しをお待ちしています。
あの喫茶店で俺に優しい笑みをくれた店主の声が頭に浮かんだ。
俺は駅で港中央区に帰る為の電車を待ってたけど、その足を反対側のホームに向けていた。
********************
扇区から鍛冶山区までは電車で普通電車で20分くらい。俺は数日ぶりに鍛冶山区の駅のホームに降り立ってた。
改札に上がる為の階段を登る。時刻は昼を過ぎていて駅にはほとんど人影がなかった。
桜と紅葉のシーズンには賑わうというこの地区も、シーズン以外だと人が少なく寂しい。田舎町、といった感じだ。
ホームから改札のある2階に上がってきた時、前から歩いてくる人影を見て俺はビクッとした。
前から歩いてくる青いシャツの女性は、いつぞやの駅員だった。名前を確か…犬山といった。
なんで俺がびくつくんだか分からないけど、何となく視線を下げて目を合わせないように歩く。
向かいから向かってくる彼女も下を向いていたようで俯いた顔からは表情は伺えない。そうやって何事もなくすれ違うだろうと思ってた……
「……っ!?」
しかし、不意に顔をあげた彼女の息を呑む音に俺は視線を上げた。
やはり目の前で、蛇に睨まれた蛙のように固まっている彼女の姿があった。その表情は前回と同じで、やはりこの前のが気の所為などではなかったと確信した。
なんだか気味の悪いものを感じて俺はそのまま足早に立ち去ろうとした。
「……なんで?」
すれ違う瞬間、彼女の口からそんな声が吐息と共にこぼれた。俺は思わず彼女の方を見ていた。
彼女の目は俺を真っ直ぐ見つめていた。
混乱と不安に揺れる眼は俺の顔を至近距離から舐めまわすように見つめていて、半開きの唇からは荒い息が漏れていた。
「……えっと、なにか?」
流石にこの状況で無視もできなくて、俺は愛想笑いと共に彼女に尋ねた。
それに対する彼女からの返答はなく、二人の間に至近距離で無言で見つめ合うという謎な時間が流れる。
人気のない駅の乾いた空気が俺たちの間を通り抜けていく。
「……なんで?あなた……」
「?」
「こんなところに……」
聞き取り辛い彼女の言葉に耳を傾けた。ただ、それは俺に向けて放たれた言葉ではなさそうだ。
「なんでって……」
そこで俺の中で、火花が弾けるような衝撃が駆け抜ける。ハッとした。
彼女の呟き、態度--
「……もしかして、俺の知り合いですか?」
「は?」
恐る恐る尋ねる俺に彼女の口から間抜けな声が飛び出した。相変わらず小刻みに揺れ動いてる瞳が懸命に俺を捉える。
「もし勘違いならすみません。俺、実は最近まで事故で昏睡状態だったんです。目が覚めたらなにも覚えてなくて……」
「……なにも、覚えてない?」
「もし、もしお知り合いなら、どういったお知り合いなのかを教えて--」
興奮していた。もしかしたら過去の糸口が見つかったのかもと……
興奮のあまり彼女に詰める俺に対して、彼女の方は俺が詰めたぶん後ろに退る。その表情はどんどん温度を失っていく。
「あ、すみません……急に……勘違いなら……」
「覚えて、ない?」
確かに彼女はそう呟いた。確認するように……
「……やっぱり、お知り合い--」
顔が弾けたのは直後だった。
喋ってる途中で襲いかかる突然の衝撃に奥歯が盛大に舌を押しつぶす。圧された舌が割れて血の味が広がる。
頬が熱い。じんじんする。
横にぶれた視界を戻した先で腕を振り抜いた彼女の姿を見て、どうやら叩かれたらしいと俺は理解した。
相当強い力でぶたれたようだ。かなり痛い。ヒリヒリする。でもそれより突然の暴挙に対する困惑が先行した。
「……ふっ。」
「は?」
「……ふざけんなっ。」
腹の底から絞り出したような声だった。視線を落とした彼女の声は喉を鳴らすように低く、それでいて確かな激情を孕んで俺の中に溶けていく。
「……あの。」
詳しい事情を訊こうとまた一歩踏み込んだ俺の肩が、彼女の細い腕に強く押された。バランスを崩した俺は冷たく固い地面に盛大に尻を打ち付けた。
「……って。」
「……っ。」
尻もちをつく俺を見下ろす彼女は、激しい動悸を全身で表し、込み上げてくる
そのまま逃げるように踵を返して彼女の は階段へ駆けていく。
その姿に呆気にとられた俺はなにも出来ずにただ床に転がったままだった。
一人わけも分からず取り残される俺を置いて、地面を踏むヒールの音だけがただ響いてた。
言葉にならない叫びみたいに……
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