何が私を生かすのか、そして死は遠ざかるのか
前回更新したのが2021年9月20日。ずいぶんと前の更新となる。
本来、私は前回のことで終わったと思っていた。区切りは付いたと。ただ、時折見に来てくださる方々がいて、ランクに変動があった折りにそれを見直していると、どうにも続きを書きたくなってきた。
なので、ちょっと蛇足を書く。
希死念慮との戦いは、情熱によって支えられる物では無い。それは真っ先に殲滅されるからだ。だから私がそれと戦うときには論理と条件付けであった。弱り行く意志の中で自分を維持するのに役立つのは論理、条件付けで私はそこに幾つかの物をセットした。
一つは夢。これをするまでは死ねないという執着。
もう一つは恩。かなりの金を掛けて育ててくれた親の恩に報いる。
この二つは何度波に襲われようと私の中からこぼれ落ちずに居た。
だから私はこれに命を預けた。もし、この二つがこぼれ落ちたら後はもう何も私を現世に縛ることはなかった。
幸い、その頃を何とか乗り切って私は生き延びた。
しかし困ったことも起きたのだ。
生きるための条件として決めたことが終わってしまったのだ。
夢は叶った。しかも2度も。
恩は返した。少なくとも当初の条件では。
これは困ったことになったと、ここ数年感じている。余り真剣ではないが。
もし、「次に希死念慮がきたらどう対処すれば良いのか」分からない。
代替案はある。一つだけだが。
それはペットのデグーのことだ。私は彼を既に数年飼っている。彼が大往生を遂げるまで生かし、見守るのは私の義務だ。
だがそれだけだ。
今私が生きているのは惰性だ。そして死ぬまで辛いことがないからだ。生きていたいからではない。死にたくないだけなのだ。
50を超え、夢を叶え、結婚もパートナーも居ない私はどうすれば良いのか。
どうしなくても良いのかもしれない。そこが私のゴールなのかもしれない。
もしこのまま生き続けていたとしても、孤独死まっしぐらだ。老人ホームに入る蓄えもない。
私はどうやったら生きるのか。生をあきらめるのか。死は遠ざかるのか。死に飛び込むのか。
考えても詮無きことを、何かの度に意味も無くグルグルと考える。
もはやただの思考実験でしかないが。
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