第36話 笑いません


「……次からは事前に言ってくれると助かる。心の準備が必要」


 悠莉が離れてから高鳴っていた心臓も落ち着いてきたところで、ややにらんでいるように見えるような表情を作って口にした。


 当然だが、悠莉がしてきた行動に対して怒ってはいない。

 あの悠莉が抱き着くなんて大胆なことをするのは驚いたし、心臓に悪いのも事実だ。


「つまり、事前に言ったらいい……ということですか?」


 しかし、悠莉は含みを持たせた笑顔で返してくる。

 悠莉は言葉の意図をしっかりと認識しているはずだ。

 それでもこういう言い回しをしてきたということは……次もする機会があるかもしれない、と言っているように聞こえる。


 そして、その理解は多分間違っていない。


「……ダメとは言わない。ただ、時と場所だけは考えてくれ。わかるだろ?」

「余計な誤解を生まないため、ですよね」

「平たく言えばそうだな。あと、いきなりはやめてくれ」

「ドキドキするからですか?」

「……悪いかよ」

「そう思ってくれているならなによりです」


 照れ隠しをするように顔を逸らしつつ、どういう意味だと考える。


 頭のいい悠莉のことだ、もしかしたら全部わかっていてやったのかもしれない。

 だとしたら……とんだ小悪魔じゃないか。


 あんな表情で強請ねだられて断れる男がいたら、そいつは男じゃない。

 それくらいの破壊力が、悠莉の表情にはあった。


 だが、もう蒸し返したくない俺は、話題を変えることにする。


「肝心の面談はどうだったんだ?」

「特に何も……というか、父は必要な時以外は話さなかったので。成績を確認して、私が考えている進路にも何一つ口を挟むことはありませんでした」


 淡々とした喋り口の悠莉からは、感情があまり感じられなかった。


「直接私が何か言われることもありませんでしたし、面談が終わったらすぐに帰りました。ですが……やっぱり、大丈夫だと言い聞かせていても響くものですね。図書室に来るまでに途轍とてつもないさびしさに襲われてしまって……また、蓮くんに泣いている姿を見せてしまいました」


 困ったように眉を下げる。


 女の子の心情的には男に泣き顔を見られるのはあまり嬉しくないのだろう。

 本気で嫌がっていないのは、それなりに信頼されているからだと思う。


 素直に嬉しいことだし、今後とも信頼を崩さないようにしたい。

 それはそれとして――悠莉から向けられているのは、信頼だけなのかという疑問が湧いてくる。


 仲のいい友人というだけで正面からのハグは普通しない。

 同性ならすることもあるだろうが、異性となれば話は別だ。

 単純にボディタッチとしては過度だし、色々と間違いが起こることも考えられる。


 明らかに誤解を生むような行為を、好意のない相手とするだろうか。

 悠莉からは友人としての好意はあると思う。

 だけど、異性としての恋愛感情は? と聞かれると、微妙なところだ。


「……蓮くん、聞いてます?」


 耳元でささやかれた声。

 温かい吐息といきが耳たぶにかかって、ぞわりと甘いしびれが背を這いあがってくる。


 驚きつつも振り向けば、鼻先三寸に広がる悠莉の顔。

 怪訝けげんそうな雰囲気をたたえた緑の瞳が俺を覗き込んでいたが、俺の内心は間近にある柔らかでつやのある桜色の唇への動揺で満たされていた。


 ほんの数センチの距離。

 息がかかり、少し前に踏み出せば触れてしまうような、それでいてそれを奪うには心理的ハードルが高すぎる近くて遠い距離。


 思考速度が極端に低下したまま、俺は悠莉と視線を交わらせ――見つめ合っている状況に耐えられなかったのか、悠莉が先に顔ごと逸らしてしまう。


 気まずい雰囲気。

 真っ赤に頬を染めた悠莉に何か言わないとと思いながらも、心拍数が上がったままの心臓がうるさすぎて言葉が浮かばない。


「……何かリアクションがないと、恥ずかしいのですが」

「あんなことされたらリアクションどころじゃないんだって」

「どうしてですか?」


 純真な眼差し。

 本当にわかっていない様子の悠莉にどう答えたものかと考えて、


「……笑うなよ?」

「笑いません」

「…………こんなに可愛い女の子の顔が正面にあったら、誰でもこうなる」


 口にしてから言うんじゃなかったと後悔しつつ、熱を持ち始めた顔を悠莉に見せないようにと外側に逸らした。

 今、悠莉はどんな顔をしているだろうか。


 少しだけ気になっていた俺の頬に、ほんのり冷たい手のひらが触れた。

 悠莉の手だろう。

 それが俺の顔を引き戻して、再び正面で悠莉と向き合った。


 悠莉の顔も、紅葉のように色づいていた。


「もう一度、言ってください」


 口調は静かに、それでいて悠莉の瞳は甘くとろけている。

 おねだりをする子猫を悠莉の表情に重ね合わせて、息が止まった気がした。


 自分は何も変なことは言ってない。

 そうやって自分を正当化して気恥ずかしさを排しようとしたものの、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。


 苦しみを長引かせないためにも早いうちに言おうと思い、仕返しもかねてさっきとは言葉を変えた文章を考え、


「――悠莉・・みたいな可愛い女の子に見つめられたからだよ」


 内心震えつつも、表には余裕そうな雰囲気を意識的ににじませて、笑みを頬に刻みつつ悠莉に告げる。


 あえて可愛い女の子という抽象的な表現から悠莉という名前に変えたのは、意趣返しのつもりだった。

 あくまで俺が示しているのは目の前の女の子ではなく、本倉悠莉という一人なのだと意識させるために。


 効果はてきめんで、悠莉はぽかんと口を開けたままフリーズし、数秒後に言葉にならない声を発しながら顔を両手で覆ってしまった。

 耳まで真っ赤な悠莉のそれはとても可愛らしく、いじらしい。


 意地悪をし過ぎただろうかと感じつつも、もだえる表情を眺めるのをやめられない。


「……やっぱり意地悪です。そういうの、良くないと思いますっ」


 頬をぷっくりと膨らませながら俺へ抗議をする悠莉だが、目元が潤んでいるせいで怖さは一切感じない。

 そうでなくとも可愛い顔立ちなので、怒った顔があまり様にならなさそうだ。


揶揄からかわれるだけはアレだなーと思ってさ」

「その割に普通なのはなんでですかっ!」

「本気っぽい雰囲気の方がいいだろ?」

「それはそうですけど、限度というものがあります! こんなにドキドキさせて……まだ、心臓がびっくりしたままで」


 胸に手を当てながら訴えるものの、頬はかなり緩んでいる。


 それは俺を再び釘付けにするにはじゅうぶんで。


「……蓮くん。一緒に帰ってくれませんか? このまま一人で帰ったら、注意不足になってしまいそうなので」


 体のいい言い訳だ。

 俺もわかっているし、悠莉も俺がわかるように伝えたはず。


「悠莉は意外と寂しがり屋だからな」

「それは余計ですっ」


 不満げな演技をする悠莉に微笑ましいものを感じつつ、図書室を後にした。

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