第26話 なんかじゃ、ないです


 静かな、ともすれば静謐せいひつな空気すら漂う図書室。

 都合がいいのか悪いのか誰も利用者はいない。


 紙とインクの匂いがかすかに漂う図書室、並ぶ本棚の間を悠莉の手を引いて歩いていく。

 そして、もはや定位置と化した読書スペースの一角に、俺と悠里は並んで座った。

 普段は体面に座っているのだが、悠莉がシャツの裾をまんで離さなかったので隣に座っている。


 半身くらいの距離感。


 机に隠れている膝の上に、ほんのりと冷たい悠莉の手が伸びてきた。

 細い指先が太もものあたりに触れて、ぴとりと置かれる。

 悠莉の手はこごえているかのように震えていた。


 それに優しく右手を被せると、悠莉は無言で受け入れた。

 じんと俺の体温が悠莉の冷たさと溶け合う。


 俺も悠莉も、無言のまま時間だけが過ぎていく。


 悠莉が何かを抱えているのは明白だった。

 けれど、それを俺に話すかどうかは別問題。


 誰にだって知られたくないことの一つや二つくらいあって然るべきだし、それをむやみに暴こうとも思わない。

 ただ、それでも。

 こんな様子の悠莉を放っておくなんて、とてもじゃないけど無理だ。


「……落ち着くまで、一緒にいてやるから」


 それだけは伝えておこうと思って口にすると、悠莉は静かに頷いた。


 チクタクと壁掛け時計の秒針の音だけが時間を刻む。

 さあさあと窓に当たる小雨が奏でる旋律せんりつ、図書室前を過ぎていく生徒の声、俺と悠莉が呼吸をする音。

 心臓の音すら聞こえてきそうな静けさのなかで、俺は何もすることなく悠莉といることを選んだ。


 時間にして十分ほど経ってから、


「…………ごめんなさい」


 悠莉は、まだ濡れた声色のまま小さく謝罪の言葉を呟いた。

 涙は流れていないものの、ふとした瞬間にせきを切ってあふれ出そうな危うい気配を感じて、制服のポケットから取り出したハンカチを差し出す。


「謝らなくていい。これ使ってないから。涙の痕、拭いた方がいいぞ」


 悠莉は少しだけ迷う素振りを見せつつもハンカチを受けとって、おもむろに目元を拭う。

 それから浅く息をついて、ようやく顔をこちらに向けた。


 目元は赤くなっていて、まだ瞳は濡れている。

 寝不足なのかくまのようなものも薄っすらとあった。

 やや垂れたまなじりには疲労感がにじんでいて、それでも俺に心配させないようにと浮かべた表情には力がない。


 憔悴しょうすいという言葉は当てはまるような悠莉の様子。


「無理しなくていいぞ」

「……無理はしていません」


 ふるふると首を振るも、それが嘘であることくらい俺にでもわかる。

 けれど、本人が言っているのなら信じるほかない。


 俺は黙って受け止めよう。

 少しでも悠莉が楽になるように。


「これは全部、私が悪いので」


 力なく笑む悠莉の目には、諦念ていねんが宿っていた。

 何をやっても無駄だと心の底から信じ切っている、そんな気配。


 今日の悠莉は、下手に触れれば壊れてしまいそうな危うさを漂わせている。

 何がきっかけで崩れるのか、さっぱり見当もつかない。


 それでも、見てみぬふりは出来なかった。

 俺にできることはなにか――そう考えて、自分の想像力のなさに呆れてしまう。


 結局思いついたのはありきたりで、それこそ彼氏彼女の仲の人がやるようなことで。

 もしそれを悠莉が受け入れて、抱えたものを吐き出して楽になってくれるなら。

 

 拒否されても、俺が恥ずかしい思いをするだけだ。


「……俺の胸なんかでよければ貸すぞ」


 誤魔化すように冗談めかして言うと、


「……なんかじゃ、ないです」


 悠莉はふるふると横に首を振って、ぽすんと額を俺の胸に埋めた。

 白い長髪が広がり、さらりと流れて悠莉の背に収まっていく。

 仄かに甘さを帯びた芳香がいきなり近づいて、呼吸をするだけで肺いっぱいを満たしてしまう。


 瞬間、思考が固まる。

 確かに胸を貸すとは言ったものの、本当に借りられるとは思わなかった。


 悠莉の性格的に、こういうことはしないだろうと高をくくっていたのだが……それが裏目に出たらしい。

 だが、一度言ったことを引っ込めるわけにもいかない。

 厳密に言えば収集がつかなくなってしまったという表現の方が正しいものの、突き放すことなく悠莉を受け止める。


 こんなところを誰かに見られたら誤解されることは確定的だが、そのときはそのときだ。

 悠莉にも誤解の解消を手伝ってもらうとしよう。


 俺の言葉ではだめでも、品行方正な悠莉なら何とかなる気がする。


「……あったかいですね。心臓の音が近いです」

「緊張してるんだよ。汗臭くないか? 心配になってきた」

「全然、そんなことありません。すごく、落ち着きます」


 顔をうずめたまま、穏やかな調子の返事。


 ぐりぐりと額をこすりつける仕草がこそばゆく、つられて揺らめく髪の動きを眺めていた。

 自然と腕が悠莉の背に伸びて――いや、ととどめる。


 流石に抱きしめるのは行き過ぎだ。

 それこそ恋人がするようなこと。


 終着点を見失った腕が伸びた先は、悠莉の頭だった。

 驚かせないように軽く頭をでると、一瞬だけ肩を震わせたものの、拒否するような素振りは見せなかった。


 細く柔らかい髪の手触りは上質な絹を思わせる質感でいつまでも触っていたくなったが、二、三度だけ繰り返してから手を止める。

 すると、悠莉は顔を埋めたまま首を振って、


「――でて、ください」

「いやでも」

「蓮くんならいいです。それに……その方が、気が紛れそうなので」


 泣き入りそうな声で確かな信頼を言葉として伝えられれば、俺としても断れない。


 決して撫でる以上のことをしないようにと意志を強く持って、再び悠莉の頭へ手を伸ばす。

 今度は触られるのをわかっていたからか、悠莉も驚きはしなかった。


 白く長い髪へ手櫛てぐしを通す。

 最後まで引っかかることのない髪は、悠莉の努力の賜物たまものだろう。


 触っているこっちが気持ちいいと感じてしまうくらいだ。


 それからも撫でていると、気が済んだらしい悠莉の頭が胸から離れていく。


 俺に見せた顔は、始めよりははるかに見ていられるものになっていた。


「大丈夫そうか?」

「おかげさまで」

「ならいい。あんなことをした甲斐があった」

「……どうして蓮くんは、何も聞かないんですか」

「聞ける雰囲気じゃなかったし、聞いてどうにかできるとも思えなかったから。まあ、胸くらいはいつでも貸せるけど」

「……じゃあ、私が聞いて欲しいって言ったら、聞いてくれますか」


 玉虫色の感情を帯びた眼差し。


「……聞いて欲しいなら、聞いてやる。決めるのは全部、悠莉だからな」

「煮え切らないですね。でも、いいです。今更ですから」

「それはどういうことだよ」

「どういうことでしょうね」


 くすりと小さく笑んで、悠莉は身体をこちらへ傾けてくる。

 肩を胸で受け止めて、ころんと頭をもたれさせた。


 心臓に悪い行動に驚きながらも、それは表に出さない。

 折角悠莉が話そうと自ら踏み込んでくれたのだ。


 悠莉はすーっと息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 胸に手を当ててさらに一呼吸おいて、


「――昨日の夜。美鈴さんの家で浴衣を着替えて家に帰ったのですが……そこで、母親と会いました」


 そう告げた悠莉の声は端々が震えていて、かすれて消えそうなものだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る