第2話 妖雲

 西郷頼母は、藩祖「保科ほしな家」の分流という名門の家に生まれた。

 5年前、33歳で会津藩筆頭家老の職を父から引き継いだ頼母は、早々に会津藩の難局に立ち向かうこととなった。



 文久2年。

 鶴ヶ城の一室で、2人の家老が藩主からの文に驚愕していた。


「『京都守護職』だと⁉︎」

 頼母は、書状を持つ手を震わせた。

「いま京都は、無法者と化した浪士たちの横行により荒れているという。京都所司代や奉行所は機能しておらず、混乱を極めているそうだ。それを鎮めるお役目とのことだが……」

 もう一人の家老、田中土佐も表情を曇らせる。


「幕府は殿に、不逞浪士を鎮圧する軍事司令となれと言っているのだろう。狸どもめ……殿の人の良さにつけ込んできたか」

 頼母の口から、つい恨み事のような言葉が漏れた。

 時代は今大きく動いており、二百年続いた徳川の世は確実に綻び始めている。

 そして、幕府への不満の輩が集結し公家達が暗躍する京都は、軍事的にも政治的にも極めて危険な場所だった。


「京都に軍勢を差し向けるなど……火事場に薪を背負って出向くようなものではないか。出来るはずもない」

 頼母は、隣の土佐をチラリと見た。

「京は遠い。江戸だけでなく、そちらにも藩士を駐留させるとなると、費用だけでも馬鹿にならんな」

 土佐は顔を顰めて腕を組んだ。


 京都守護職の話はどう考えても「お断り」だと、2人は判断していた。

「しかし、殿が直ぐ断らず、国元に意見を訊いてきたということは……」

「拙いな。恐らく迷っておられる」

 2人は同時に溜息をつく。

 若き藩主容保は、聡明で真っ直ぐで優しい人柄だ。平時ではいずれも美点だが、今はそれらが仇となりつつある。

 目の前の人に誠実に向き合ってしまう容保は、窮状を訴える幕閣を相手に、恩義をもって生真面目に応えようとしてしまうに違いない。

 

「頼母。これは、行くしかないだろうな」

「ああ。一刻も早く江戸へ出立するとしよう」


 頼母と土佐は、馬に跨り、藩主松平容保のいる江戸へと急いだ。

 しかし、白河に着いた時、容保が既に京都守護職を受けたという報告が入った。



 憤りと焦りを抱えた2人は、江戸藩邸に到着するや否や、容保に拝謁すると切々と訴えた。

「殿、時勢は不利です。藩士の命を危険に晒し、財政逼迫に拍車をかける。その様な危うい任を受けるわけには参りません」

「是非ともご辞退を」


 静かに訴えを聞いていた容保が、一瞬歯を食いしばった様に見えた。

「辞退はしない。我々は何の為にあるのか。徳川、将軍家を守るために我々はあるのだ。武士の本分とは何か。主君の為に生き、主君の為に死すのが忠義というものではないのか。私は、京都守護職を受ける」

 容保の瞳には痛々しい程の覚悟が浮かんでいた。

 背後から、幾人かの嗚咽が漏れ聞こえる。 

 京都で死ぬことをも決意した主君に対し、頼母らは何も言うことは出来なかった。

 

 しかし頼母は諦めなかった。

 一年後。

 京都に上った頼母は再び容保に守護職辞任を迫った。

「もう十分『義』は果たしました。お戻りください、会津へ」

「何を言うか。京都は漸く安定してきたというのに。今帝をお護りできるのは、我が藩以外に無いのだぞ」

 誠実に職務にあたった容保は、天皇の信頼を得、御製を賜るほど寵愛されていた。

 帝を、京都を護らんと燃える容保にとって、京都まで追いかけてきて未だに守護職返上を説く頼母は、時流の読めない厄介な家老にしか見えなかった。

「殿、目をお覚ましください。貴方は、会津藩を潰滅させるおつもりか」

 涙を流して訴える頼母に対し、容保の我慢は限界を超えた。


――家老職罷免、閉門蟄居


 頼母の諫止は叶わなかった。

 

 この時より頼母は「腰抜け」「不忠者」と呼ばれ、日陰者となったのだ。


 主君の言うまま、望むままに物事を進めるのは簡単だ。迎合し、他のものと同じように勇ましい声をあげれば良いのだから。

 そうすれば、上からも周囲からも信頼は深まり、今のように誹謗中傷を受けずに済んだのかもしれない。

 しかし、家臣とは下僕では無い。

 主君の決断が、国や領民に対して良心あるものでない場合、それは非であることを訴える事こそが、真の忠義であろうという信念が頼母にはあった。



 野山に囲まれた隠棲先の庵で、頼母は迫り来る戦の気配に憂色を浮かべる。

 殿に随行した、友人の修理からは、京都で少しずつ孤立していく会津藩の危うさを案じる文が届く。


 会津藩は、大きな岐路にあって、妖雲立ち込める道を選び進んでいくのだった。

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