コスモス

増田朋美

コスモス

コスモスの咲く季節になった。奥大井の森の中に、コスモスがあちらこちらに生えている。なんだか、人間が色んなことを心配しているのを無視して、コスモスが咲いているように見える。それは、人間には到底追いつかない、美しさなのかもしれない。

その日、森下正は、奥大井湖上駅で、観光客をおろしてから、タクシー営業所のある、千頭駅へ戻った。大体、このタクシーを使うのは、観光客ばかりである。大井川鐵道を使うなんて、仕事でくる人はほとんどいない。みんな、山の中の自然や、森の情景などを楽しむ、観光客ばかりだった。森下は、そんなことは気にしてはいけないことはわかっているのであるが、時々、観光客たちを憎みたくなってしまうときがあった。ナゼなら、観光客の多くは、みんな夫婦や、兄弟や、友人関係、あるいは職場の関係かもしれないが、そんな関係がうまく行っている人たちだったから。それに比べると、自分はなんて惨めなんだろうなあと、思ってしまうときがある。なんで、こうなってしまうんだろうなあと、自分の運命を呪うこともあった。だってそうじゃないか、自分の人生は何なんだろうなあと思うのだ。

昨年の夏までは、静岡市内で暮らしていた。普通の平凡なタクシードライバーとして、生活していた。勤めている会社も、その地域では有名な会社だったし、そこで働いているのは鼻が高かった。静岡市内でかなり歴史のある会社だから、注文もあったし、福祉事業的な、タクシーも、経験した。つまり車いす用のタクシーも、運転したことがあったということだ。それは、今どきの福祉制度の最前線のような気がして、自信を、持ってやれる仕事だと思っていた。

ところが、去年の秋、それが変わった。森下の妻綾子が、静岡市内のホテルに、若い男と一緒に行っていたのを目撃してしまったのだ。綾子は、そのときとても楽しそうな顔で、自分の前では見せたことのない顔だった。

森下は、勤務を終えると、自宅に帰って、綾子に聞いてみる。

「今日、お前が静岡ホテルの玄関から男と一緒に出てきたのを偶然みたが、あのようになったのは、いつからだ!」

綾子は、なにも感じないような顔をして、こういうのだった。

「半年くらい前から。」

「半年!そんなに俺のことだましていたのか、どこで知り合った!」

森下がいうと、

「短歌サークルよ。」 

と、綾子は答えた。たしかに、綾子は半年前か短歌を習い始めている。それはそうなんだけど、その上不倫まで始めていたとは、全く気が付かなかった。森下は自分も情けなく思う。

「あの男は、どういう関係なんだ?お前、恥ずかしくないのか?」

森下が聞くと、

「短歌サークルの代表をやっている方で、あたしの方からお付き合いしてくれといったから、なんにも恥ずかしくなんかないわよ。事実、あなたよりも、優しくて、上品な方だもの。」

と、綾子は全く悪びれた様子もなく言った。

「あなたは、何をしてくれたのよ。何もしてないじゃないの。私がいくらご飯を作ろうがなにしようが、いつも生返事ばかりで、ちゃんと感想を言ってくれたことも一度もないでしょ。暇さえあれば仕事ばかりして、休日は新聞読んでばかりで、私がどこかに行こうと言っても、何も答えてくれなかったわ。そんなあなたを、私は、ホントに、嫌になってしょうがなかった。たしかに、働いてはくれるけど、それ以外はないものね。だから、もっと、私のことを見てくれる人が、ほしかっての!」

そんなふうにしか、自分のことを見ていなかったのかと、森下は愕然とした。

「俺は、お前のために、仕事を一生懸命やってきたのに!」

それだけしか言えなかった。

「何を言っているの?笑わせるんじゃないわよ。仕事をしているだけじゃ、なんの意味もないわよね。あなたは、あたしが問いかけても何も答えてくれなかった!それはうんと反省してもらいたいわ。小山さんはね、私のこと、ちゃんと見てくれた。私はそっちの方に感謝したい。」

「何を言っているんだ!俺が仕事している間に、お前ってやつは!他の男に感謝したいなんて!」

森下はそう言うが、段々力がなくなってきた。

「あなたはそう言うけど、私だって女よ!50過ぎたって女よ!あなたがしてることは、そんな私のことをバカにしているだけよ!」

そんなバカな。たしかに、子供ができなかったことは、後悔している。それは、仕方ないことだと、産婦人科の先生に言われているし、綾子だって、ちゃんと受け取ったのでは、ないかとおもっていた。でも、こんなセリフを言われるとは思わなかった。

「もしかして、後悔してる?子供が出来なかったこと。」

もう、自然に任せよう、と言われて、ふたりともいつの間にか50歳を超えてしまっていた。

「そういうことじゃないわ。こどもができないのは、仕方ないというのは私も諦めていたけど、あなたみたいに、お金さえあれば良いっていう問題じゃないわ。きっと、あなたには、私の気持ちなんか、わかるはずはないわよ。」

綾子は、呆れた顔をして森下をみたのだった。

その翌日、森下が仕事から自宅に帰ってくると、綾子は、今日はお客さんがくるから、とだけ言った。宅急便でも来るのかなあと考えていたら、いきなりインターフォンが音をたてて、なる。

「はい、どうぞ。」

と、綾子がいうと、ガチャリとドアノブを動かす音がして、一人の若い男性が入ってきた。

「初めまして。小山繁晴と申します。半年前に、短歌の会で、森下綾子さんとしりあいました。」

そういうかれは、自分には叶わなそうな、強そうな男だった。身長もあるし、芽体もよく、たしかに頼りになりそうな男である。

「綾子さんとは、時々、会って話をさせてもらいました。綾子さんは、あうたびに、あなたのことを、話して聞かせてくれました。あなた、綾子さんのことを放置したまま、何もしないそうじゃないですか。僕は彼女のぐちを聞いて、一緒に食事してあげている間に、綾子さんが可哀想だと思いましたよ。いいですか、お金さえあげていれば、女房はしたがってくれるなんて、そんな考えは、古すぎます。昭和の初めじゃないんですから、もっと、彼女のことを見てやってください!」

そんなこと、だって綾子が自由に動き回れるようにしてあげるのも、愛情のひとつではないか、とおもっていたのに?

「あんたは、結婚の経験はありますか?」

森下がそう聞くと、

「ええ、一度だけあります。ほんの数年で、事故のために亡くなりましたけど、少なくとも、お金をあげて放置しっぱなしということはしませんでした。結婚生活は長続きして当たり前じゃありません。ある日突然消えてしまうことだってあるんです。森下さん、そういうことは考えたことありますか?奥さんがいて、当たり前だと思っていませんか?それこそ、究極の甘えで、愛情ではありません。それを、勘違いしないでください。」

小山は、強くいった。ああ、もうこの男にはかなわないな、と森下は思った。自分は、綾子を幸せにすることはできなかったのだ。松本清張の話にあるような、不倫相手を殺すなんていう気力も湧かなかった。もう、自分は、完璧に、まけてしまった。他に言うことはなにもない。森下はそう思った。

「わかりました。小山さんには、俺にはできないことができるのですね。」

仕方なく、そう言っておく。

「綾子を、今度こそ、幸せにしてやってくださいね。」

それしか、自分には言うことができなかったのだった。

そのことは、今でもよく覚えている。あのあと、綾子は、小山という人と一緒に、待ってましたというように出ていってしまった。きっと今頃は、小山という人に支えてもらいながら、幸せにやっているんだろう。そんな事を思い出したくもない。でも、何故か、思い出して苦しくなる。どうしてなんだろう。よくわからないけど、綾子の事を思い出してしまうのだ。それをしたくないので、森下は、静岡市を離れることにした。綾子どころか、もう周りの人間は、みんな信じられなくなって、森下はタクシードライバーの資格を利用して、この奥大井のタクシー会社に入り直したのだった。まあ、彼女は時々裏切るが、資格は一生裏切らないということは、本当で、森下は、直ぐに、奥大井のタクシー会社で働くことはできた。でもそれだけだった。それだけしか与えてもらえなかった。仕事の事を語り合う友人も、ましてや好きな女性なんて、何もできなかった。森下は、悲しい気持ちで、タクシーの運転手を続けていた。

その日も、千頭駅近くの、営業所で、また新たな観光客が自分を呼び出すのを待っている。ほかの運転手たちと会話することもなく、ただお客さんの言うことにウンウンと応じて、それだけのつまらない、世界に来てしまったものだと思いながら、一日を過ごしていた。

しばらくして、配車室の電話がなっているのに気がついた。受付係の女の子が、はい、はい、と言っているのが聞こえてくる。女の子は電話を切って、

「すみません、奥大井湖上駅からお客様のお呼び出しです。なんでも、接阻峡温泉まで乗せてほしいということです。」

と、運転手たちに言った。まあ、ここから、奥大井湖上駅となるとかなり遠いが、この当たりでは、そういうことでタクシーを呼び出すことも、不思議なことではない。終点の井川駅まで、タクシーを呼び出して、千頭駅まで帰るという例も珍しくないし、タクシーではなく、運転を代行することもある。例えば、井川駅まで電車に乗っていくから、井川駅まで客の車を運転し、帰りに、それを引き渡すというサービスもやっている。ところが、今回はそういうことではないらしい。ちゃんと、奥大井湖上駅から、接阻峡温泉駅まで乗せていってくれということである。それにしては、電車ひと駅分だから、本当に、短距離であるけれど。

「じゃあ、森下くん。奥大井湖上駅まで行ってみてくれ。」

上司にそういわれて、森下は、出かける支度を始めた。

「なんでも、障害のある人が一名いるそうだから、ワンボックスタクシーで行くように。」

「はいはい、わかりました。行ってきます。」

森下は、急いで、ワンボックスタクシーに乗り込み、急いで奥大井湖上駅までタクシーを走らせた。

奥大井はどこへ行っても森ばかりだ。道は車一台通るのがやっとで、途中の道に、駅はあるのに、人家は全くないところもある。そんなところに癒やしを求めて観光客がやってくるのである。みんなカバン熊よけの鈴をつけたり、なにかあったときのために、防犯ブザーを持ったりしている。本当にこの地域は、都会生活に疲れて、森の中でゆっくりしたいと思う場所なのだ。そういうことでなければ、こんな山の中に来るはずはない。同じ奥大井でも、寸又峡みたいに、店を出したり、名物の吊橋を作ったりしているところはあるが、接阻峡というところは、小さな温泉宿が二、三軒あるのみで、ほとんど何もない場所であるのが、大きな違いだった。その中でも、奥大井湖上駅は、湖のど真ん中に駅があるというので、その景色の良さで人を呼んでいるようなものだった。奥大井湖上駅から、遊歩道が整備されていて、そこから接岨峡温泉へ歩いていく人が多いので、奥大井湖上駅から、接岨峡温泉へタクシーを頼むという例は、なかなか聞いたことがない。

森下は、人が通るか通らないかの狭い道路を走って、奥大井湖上駅近くの遊歩道まで行った。すると、人が三人いるのが見えた。確かに、車椅子の人が一人いたので、上司が行った通りのことだということはわかる。

「あの、呼び出された、影山様でしょうか?」

と、森下は、杉ちゃんたちの前でワンボックスタクシーを止めた。

「おう、来てくれてありがとう。それでは、よろしく頼むぜ。接阻峡温泉の亀山旅館というところまでお願いします。」

と、杉ちゃんは言った。一緒にいた男性二人は、一人は、白髪交じりの髪をした男性であったが、もうひとりの小柄な男性は、なにか趣深い物があった。趣深いというだけではない。なにか、見覚えがある顔をしているのだ。あっと思うことがあった。彼は、あのときの小山と顔つきが似ているのだ。もちろん、身長は、五尺程度しかない小柄な男性で、小山のような体力がありそうな雰囲気の男性ではなく、顔は紙よりも白くて、ちょっと疲労しているような顔ではあるけれど、どこか似ている。あの時、綾子が、この人は、自分の事を癒やしてくれるのだと主張した人物に。

「おい、お前さん、水穂さんの事見て、何を考えてるんだ?」

と、車椅子の男性、詰まるところ杉ちゃんが、言ったので森下はハッとする。

「もったいぶってないでさ。僕らをタクシーに乗せてもらえんかな。」

と、杉ちゃんが言ったので、森下は急いでワンボックスタクシーのスロープを出して、杉ちゃんをタクシーに乗せた。

「ついでに水穂さんを乗せてやってよ。」

と、杉ちゃんにいわれて森下は、一瞬動作が止まってしまった。なんで、こんなふうに、自分を陥れた人物と、よく似た顔の人が居るんだろうか。

「おい、どうしたんだよ。水穂さんまた疲れちまうよ。ほら、乗っけてやってよ。」

杉ちゃんがまた言った。

「ああ、ああ、すみません。」

と森下は、自分の意識を殺すようなつもりで、後部座席のドアを開け、水穂さんという人物に乗るように促した。水穂さんはどうもすみません、と言って、後部座席に急いで乗った。それと同時に咳き込んでしまった。

「水穂さん大丈夫か。もうちょっとしたら、接阻峡に帰れるから、もうちょっとまってな。」

と、杉ちゃんは言っている。あの白髪頭の男性も、ちょっと心配そうな顔をしていた。

「じゃあお客さんは、助手席に乗っていただけますか。」

と、森下がいうと、

「そうですね。水穂さんが心配ですが、短距離なので、ちょっと離れてもいいかな。」

と、白髪の男性は言った。

「じゃあ花村さんよろしく。」

と、杉ちゃんにいわれて、花村さんといわれた男性は、助手席に座った。森下は、すべてのドアを閉めて、運転席に乗り、じゃあ行きますよと言って、接阻峡温泉へ向かって走り出し始めた。

接阻峡温泉は近かった。急いでいっても、30分もかかるようなところではない。

「接阻峡温泉駅でよろしかったですか?」

森下が確認すると、花村さんが、できれば亀山旅館の前でおろしていただけると助かると言った。森下は、わかりましたと言って、亀山旅館の前まで移動した。亀山旅館もさほど遠いところではなかった。

「さあ、着きましたからどうぞ。」

と、森下は、亀山旅館の前で、タクシーを止めた。

「じゃあ下ろしてくれ。よろしく頼む。」

と、杉ちゃんがそう言うと、森下は、ハイわかりましたと言って、杉ちゃんをタクシーから下ろした。そして、あの小山と似た顔をしている美しい顔の男性にも、降りてくださいと声を掛ける。花村さんが、水穂さんお手伝いしましょうか、というが、水穂さんはもう疲れ切ってしまったようで、座席がら立ち上がろうとするが、また咳き込んでしまった。花村さんは、わたしが背負いましょうかといったが、森下は、この男性をなんとかしなければならないと思って、水穂さんに自分の背中に乗ってといった。水穂さんがお願いしますというと、自分がまさか、妻の不倫相手に近い顔の男を相手にするとは思わなかった森下は、ちょっと、困った顔をしたが、そこは仕事だからとぐっと堪える。そして、水穂さんを背中に乗せて、亀山旅館の入り口へ向かっていった。まったく、人生とは変なものである。なんで、自分の敵だと思っていた人物と似たような顔をした人物を、客として相手にしなければならないのだろう。花村さんと杉ちゃんは、その後をついていった。この二人が、自分のしごとぶりを監視しているような気がしたので、森下は、何も文句もいえなかった。

「おーい、帰ってきたよ。水穂さんが疲れているみたいだから、タクシーで早めに帰ってきたよ。」

と、杉ちゃんが亀山旅館の入り口に向かってそう言うと、何だ、電車で帰ってくるんじゃなかったんですか?と仲居さんの声が聞こえてきた。そして、力もちそうなちょっと太った仲居さんが出てきて、水穂さんわたしが背負って連れていきますと言った。水穂さんは森下の背を降りて椅子に座った。力持ちの仲居は、水穂さん歩けますかと声掛けをしながら、彼を背中に背負って、松の間へ連れて行く。

「あの、今日はおいくらでしょうか?」

と、花村さんが声をかけた。さほど長い距離を走ったわけではなかったので、高額な値段にはならなかった。森下は、1400円というと、花村さんは、財布を開けて、急いでお金を取り出して、彼にわたした。ついでに領収書をいただけますかというので、森下は、急いで車に戻り、領収書を書いて花村さんにわたした。

「本当に今日はありがとうございました。手伝っていただいて助かりました。水穂さんも、早く帰れて良かったと思います。このあたりは、なかなかタクシーを呼ぶのも苦労するところですから、少し待つかなと思ったんですけど、すぐ来てくれて助かりました。」

と、花村さんは領収書を受け取って、森下に頭を下げた。なんだか自分が頭を下げられるなんて、そんな事はされた事ないので、びっくりしてしまった。自分がされたことなんて、妻の不倫相手にお前は価値がないといわれただけのことじゃないか。どうせ、自分なんて、何も役に立たないと思っていたのだ。そんな人間が、ありがとうございましたなんていわれるはずはない。

と、同時に、自分の携帯電話がなっているのに気がついて、森下はすみません、と言って、タクシーに戻った。出てみると、井川駅から、新金谷駅まで戻りたがっている客がいるので言ってやってくれという内容の電話だった。また、いつもと同じ、観光客がタクシーを待っているということだ。森下は、ちょっと世界が変わったなと思いながら、タクシーにエンジンを掛けた。

道路の周りは森ばかりで、何もないところだが、周りに植えられているコスモスが花を咲かせていた。



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コスモス 増田朋美 @masubuchi4996

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