第2話 平和な世界:中
授業は後半。
高校教師、佐藤は気持ちを切り替えるつもりで一息ついて、生徒の視線をホワイトボードに誘導する。
「
しかしこれらがほぼすべての人類に行き渡った後、有り得ざる現象が生じたのです」
佐藤はホワイトボードを操作し、映っていたスライドを次のものへ。
そこに表示されたのは、人の形の面影を残す、異形の存在。
「その現象の名は『シグルイ』。
人類の暴力性を治療したMoM細胞を体内に持っているか否かに関わらず、人類を傷つける人類が現れ始めたのです」
シグルイは病気ではない。
シグルイとなった者を検査してみても、何らの異常も見られなかったのだ。
ただ1つ。本来あるはずのない暴力性を有している、という以外には。
「シグルイを発生した者もまたシグルイと呼ばれますが、その特徴は目に見えて明らかです。
異常な筋肉の発達に伴う容貌の変化。中には、翼などの人間には本来ない期間が備わる例も報告されています。
しかし問題なのは肉体面の変化よりも精神面の変化です。本来あり得ざるはずの暴力性の発現。人に暴力を振るえるようになる、ではなく、暴力を振るいたくて仕方がなくなる、というのがシグルイなのです」
どれだけ温厚な人間であろうと死を求めて動く獣と化す。故に
平和な世界でこれを命名した人は、一体どんな気持ちだったのだろうかと佐藤は思う。
「シグルイの出現はこの平和な世界において新たな、そして最大の脅威となりました。
何故ならすでにほぼすべての人類にMoM細胞が投与済み。シグルイもまた人であるため、人類は既にシグルイに対抗する手段を失っていたのです」
武器は大戦の終結と共に失われた。
徒手による制圧ですらMoM細胞により不可能となった。
物理的に実現された平和は、新たな脅威に対応することができず、人類はこのまま終了を迎えることになる。
そう、誰もがそう思った。
「しかし、まだ希望は残っていたのです」
佐藤は、ここからの展開に熱がこもりすぎないよう、注意する。
歴史は事実の連続だ。
それを語る際、熱が入り込めばそれは物語となり、途端に客観性を失ってしまう。
歴史を語る者として、そして若人を導く教師として、それはしてはならない、と自制する。
「人類を脅かす新たな脅威、シグルイ。
これに対抗する人類がまだ残っていたのです。
『彼ら』はMoM細胞によってもなお暴力性を、しかし理性も失わなかった者。
現代における、最後の
――『殺人鬼』。彼らは、そう呼ばれています」
最後の一音が消えると同時。
授業終了を示すチャイムが鳴り響いた。
● ● ● ● ●
「ふう……」
職員室。
多数の机が横並びになっている部屋で、佐藤は自分に割り当てられた椅子に座って一息ついていた。
リングのついた人差し指を軽く振ると、ホロフォンがスリープを解除。ノート大のホログラム型の画面が現れるため、ちょちょいと操作して学年主任に授業終了の報告を送っておく。
すぐに確認の印が付く辺り、主任も今は暇しているらしい。
もう一度指を振ってホロフォンをスリープに戻し、家から持ってきた梅昆布茶を嗜んでいると、
「あ、佐藤先生。おつでーす」
快活な女性の声がかけられる。
後ろを振り向かなくてもわかる。
少しくたびれたジャージを着て、健康そうに日焼けしたその人は、
「お疲れ様、吉川先生。
サッカーボールを持ってるってことは今日の体育はサッカーだったの?」
「そっすねー。ま、今日は軽くパス回しとかしたくらいですけど」
そう言いながら吉川はボールを脇に挟んだまま、先ほどの自分と同じようにホロフォンで主任に報告する。
吉川みどり。自分の2年赴任してきた後輩の体育教師だ。
男子的なノリが通じる先生として、生徒からの人気もある。
最近自分の人気も取られている気がしないでもないが、それは文系の自分とはタイプが違うだけ。若さとかじゃないはず。2歳しか違わないし。まだ20代ギリギリだし。
「あれ佐藤先生、それ梅昆布茶ですか。渋いっすねー」
「渋……。まあ、表現としてはギリギリということで」
「?」
不思議そうに首を傾げる吉川。
安心すると良い。いつかあなたにも分かる日が来る。具体的には2年後とか。
「ところで佐藤先生は今日は何の授業だったんですか?」
「今日は1年3組で近代史の授業だったわ。今日は西暦2000年代から現代にいたるまでざっくりと話しただけだけど」
「はー近代史。私もやったはずなんですけどねー。どういうわけか何にも覚えてません!」
それでいいのか高校教師。
そう思わなくもないが、歴史を振り返ってみれば、教師という職にも止められるものは大きく変わったのだ。
情報技術の発展した現代。単に知識を教え伝えるだけならリモートでどうとでもなる。
その時点で学校という施設はその主目的を大きく見直すことになった。
すなわち、知識を伝授する場所から、社交性・協調性を身に付ける場所に、だ。
如何に同年代の、あるいは年上の人と付き合うか。そうした空気感はやはり実地でなければ学べないというのが現代の学生と教師の共通認識だ。
「ん? 近代史、それでもって1の3って……」
思案に耽っていると、何かに気付いたように吉川が表情を変える。
そう。1の3で近代史の授業をするというのは若干の緊張を生じさせるイベントなのだ。
「あなたの言いたいことは分かるわ、吉川先生。
1年3組と言えば彼女――この中野宮高校に通うただ1人の殺人鬼。
「あの、えっと、大丈夫だったんですか。……色々と」
多くの意味を含んだ吉川の質問の意味は曖昧でありながら、理解できる。
殺人鬼。この平和な世界における非日常の担当者。
彼らは常人にできないことができるがゆえに特別であり、特別であるがゆえに特別扱いされ、特別扱いされるがゆえに些細な疑いで排斥の対象となる。
それは高校という1つの閉じられた社会の中では、特に顕著なものとなる。
「ねえ吉川先生」
「は、はい!」
「もしかしてあなた、殺人鬼がシグルイの予備軍だなんて馬鹿げた噂を信じてるわけじゃないわよね?」
「っ! そ、それは……」
必死に首を横に振るがその態度こそが彼女の本心を現しているといえるだろう。
ため息は漏れるが、実際の所、佐藤にも分からない話ではないのだ。
MoM細胞がありながら暴力性を失わない。それは殺人鬼もシグルイも変わらない。
今はシグルイから守ってくれるけど、いつかその矛先がこちらに向くのでは。それは誰もが一度は陥る思考だ。
しかしそれを表に出してしまうあたり、吉川もまだまだ教師として若いと言わざるを得ない。
一息をついて、佐藤は吉川の初めの質問に答える。
「宵月さん、さっきの授業の時間は教室に来なかったわ。
ホロフォンで授業の配信版を見てたらしいから、私としてはそれでオッケー」
シグルイの単語が出始めたときから生徒たちが彼女の空席をチラチラと見ることが増えたような気もするが、それはそれで仕方ないことでもある。
生徒達には殺人鬼との付き合い方を覚えてほしいが、彼女にも殺人鬼でない者との付き合い方を覚えてほしい。
偏見をなくす、という目標を掲げるのは当然だが、一日二日でどうなる問題でもなし。ならばそれをうまくいなしていく方法も彼女に学んでほしい、というのが佐藤の方針だった。
「あれ、でも彼女今日学校には来てましたよね。
じゃあ、さっきの授業の時間はどこにいたんですか、佐藤先生?」
吉川からの再びの質問に、佐藤は視線を真上に向ける。
その先にあるのは環境に配慮した人工灯。
その更に向こう側を透かすように見て、
「きっといつもの所よ。
この学校で、一番解放的な気分になれる、彼女のお気に入りの場所」
● ● ● ● ●
中野宮高校の屋上。
その場所は、晴れの日の昼休みともなれば昼食をとる生徒で溢れかえる場所だ。
自分自身すら傷つけることを禁じるMoM細胞の普及に比例するかのように、屋上を囲うフェンスの高さは低くなり、今では腰ほどの高さまでに落ち着いている。
「それでもフェンスに近づけば自己保存ドローンがすっ飛んでくるとか、なんて優しい世界なのかしら」
授業と授業の間のたった10分間の至福の時間。
本来生徒がいるはずのない時間、本来生徒が辿り着くことができない給水塔の上に、
眠そうに開いた視線の先にはついさっき終わったばかりの授業の配信画面。
指を振って画面を消して、アリスは50分振りの解放感を勝ち取る。
自分に与えられた時間はわずか10分。その間に考えることといえば、
「さて、次の授業はどうしてくれようかしら」
目前に迫る予定のことだ。
とはいえ選択肢は2つ。教室で受けるか、ここで受けるかだ。
サボるという選択肢も自分としては有りなのだが、そんなことをすれば母にバレる。
あの動物的な勘が神がかった母は、わずかな後ろめたさから何があったのか察してくる。
そしてその日の夕食のランクをしれッと一段階下げてくるのだ。それは困る。
「次の授業は、と」
ホロフォンを立ち上げ、今日の時間割をチェック。
よし。次の科目が理系なら教室、文系なら
何度か操作して、1年3組の今日の時間割のページをスクロール。
そうして判明した午後2つ目の科目は、
「ふむ。古典文学」
ゴリゴリの文系だ。
時間割のコマ部分をタップしてさらに詳しい内容を表示。今日は西暦2000年前後に日本で局所的に流行したライト系文学作品らしい。個人的には頭空っぽにして読めるので時間潰しにはもってこいだ。感想文を提出しろと言われたら難易度が跳ね上がるタイプのものでもあるが。
「ま、屋上残留は決定。残り約4分。
だらっと過ごすことにしようかしら」
「いやいや待ってください。ちゃんと教室で受けましょうよ、授業」
声が聞こえた。
頭だけを動かして、給水塔の上から下を覗けば、長いストレートの黒髪を着た制服が見える。
それはクラスメイト、数少ない友人の一人と言っても良い、
「なんだ、
「なんだとはなんですかアリス。
それが授業ボイコットした友人を迎えに来た人に言う言葉ですか。
とりあえずそんな危ないところから降りてきてください」
とりあえず首も痛かったので言われた通り給水塔から飛び降りる。
足首をうまくクッションにして音もなく着地する程度、日頃の鍛錬を考えれば造作もない。
「一応言っておくけど」
「ん? なんですか?」
「授業は配信のやつ、見てたから。サボりじゃないから。佐藤先生に聞けば分かると思うけど」
「ほう、成程?」
これは真実。
「ではホロフォンを立ち上げてくれますか、アリス。
あなたのことですから、別ウィンドウを開いて授業以外のもの見てたとしても不思議ではないので」
それも真実。
「おのれ、小癪な……!」
「どこぞの悪役ですかあなたは。
まったくもう、一体何を見てたんですか。この時間、何か面白い番組でもやってましたっけ」
観念してホロフォンを立ち上げる。
現れるのは配信を終えた授業の真っ暗な画面と、もう一つは、
「お昼の情報番組ですか。
あ、これ、アリスのお父さんがレギュラーで出てるやつでしたっけ」
その通り。
今も画面の中で父が最近発売されたばかりのスイーツを頬張って感想を求められている。
『どうですか、
『いやこれめっちゃおいしいですよ。ちょっとお土産用にいくつかもらえたりします?』
『ダメですねえ。自力で買ってくださーい』
『ダメかー』
「何というか、ファザコンというか……」
「勘違いしないで。これはちゃんと仕事してるか監視してるだけだから」
「はいはい、そういうことにしておきましょう。
では、私たちは私たちの仕事に勤しみましょうねー」
いつの間にか背に回った清香に優しく押される。
しまった。うまく話を逸らせたと思ったら軌道修正された。
ここからサボるのは……無理か。無理っぽい。
先程の授業の気まずさが残るであろう教室が一歩前に進むたびに近づいてくる。
その時、
「……おっと」
ホロフォンが着信音をあげる。
しかもこの着信音は、ある特別な発信元からの時だけのものだ。
音が消えるとともに、ホロフォンが自動的に立ち上がり、今来たばかりのメッセージを示す。
「……ふ」
「どうしたんですか、アリス
急にそんなに嬉しそうな声をあげて」
「いや、別に?
これからの憂鬱な授業を吹き飛ばす、素敵なイベントが夜に待ってるって分かっただけよ」
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