メイドのパン屋

 ちるるる、という鳥の鳴き声に意識が浮上する。まぶた越しにわかるほどの明るさ。ということは、いま窓に目を向ければ真っ青な空を見られるということだろう。


 ――つまり、寝坊をしたということだ。


 冷静にそう判断を下しながら目を開く。一番に視界に入るのは、見慣れた天井だ。そのことを確認して安心したところで、ベッドから降りる。


 洗面所へ行って顔を洗い、タオルで水気を拭う。鏡を覗くと、そこには黒曜石のように黒い髪と眼の美人が、潤んだ瞳で眠たげにこちらを見つめていた。目が潤んでいるのは先ほどあくびをしたからだ。このようにひとつひとつの些細な動作が絵になってしまうのだから、ときどき自分の顔が嫌になる。

 『前』はこんなんじゃなくて、もっと平凡な顔だったのに。


 時間がないので少し乱暴にガシガシとくしで髪を梳かし、明るい水色のシュシュを使って低い位置で一本にまとめる。


 部屋に戻って寝巻きから黒色のシャツと紺色のジーパンに着替え、靴下を履く。ショルダーバッグを引っ掛けてその中にスマホを放り込む。

 最後に動きやすい運動靴に足を突っ込みながら麦わら帽子を手に取り、戸締りをする。


 階段を何段か飛ばすようにして駆け下り、自転車に鍵を差し込んでは跨がる。そしてペダルを漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ!

 のんびりと犬の散歩をする近所のご老人方と挨拶を交わすときには減速し、


「おはようございます」


「あら、おはよう。今日はずいぶんと遅いのね?」


「寝坊をしてしまいまして。急いでいるので、すみません」


 いってらっしゃい、という声を後ろに足を動かす。返事ができず申し訳ないが、今回ばかりは仕方がない。わかってもらえるだろう。


 どうにか踏切に捕まらずに、全速力で職場までの道のりを走り抜けた。


 ブレーキを鳴らして自転車を止めた頃には、息は切れ切れだった。店の裏に自転車を停めて急いでドアを開けると、ベルの涼しげな音色が迎えてくれた。


 店の奥では、色素の薄い茶髪を肩ほどまで伸ばした女性が忙しく働いている。遅刻したことを謝るために声をかけようとし――


「お、おじょ、ゲホゲホッ、ゲホ、ゲホゲホゲホッ」


 喉が渇いていたため、盛大に咽せた。


「遅刻してきて一番にすることがそれなのね。ちょっとは落ち着きなさいよ!」


「すみま、っせん」


「謝ってる暇あるなら早く支度してきなさい!」


「はいっ!」


 彼女は店主でもないのに、目尻を吊り上げてがなり立てた。本当の店主は、その隣で微笑ましそうに穏やかな表情を浮かべている男性なのだが。まったく、彼女も彼女だし、彼も彼だ。

 荷物を置き、手を洗い、制服とエプロンを身につけたら準備完了。


 ――とまあ、こんな感じで、元・お嬢様と元・メイドの働く《メイドのパン屋》が、今日もオープンした。



 《メイドのパン屋》とは、最近噂のメイドが働くパン屋である。

 メイド喫茶ならぬメイドパン屋。

 メイド喫茶よりも気軽にメイドさんを見られると評判だ。

 (けれども、本当にホンモノのメイドが働いているとは誰も思っていない)


・メイドちゃん

 前世がメイドの、現パン屋のメイドさん。

 現世の顔が良すぎてめんどくさいと思ってる。

 お嬢様と再開できて、実は結構喜んでる。

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