第19話:「少年公爵」

「それじゃ、しっかり。頑張っておくれよ」


 シュペルリング・ヴィラの母屋の2階、公爵が来客の応接などを行うために用意されている応接室。

 その前までルーシェとシャルロッテを見送ってくれたマーリアは、そう言ってウインクをして見せると、まだ緊張で堅苦しいルーシェの肩を軽くたたいて、歩き去って行った。


 本当は、メイド長であるマーリアもルーシェの公爵への挨拶に同行したがっていたのだが、館で雇っている使用人が極端に少ない以上、仕事が多くて忙しく、ここまで一緒に来るだけの時間しか作ることができなかったのだ。


「大丈夫。私がついています。……ほら、ルーシェ。深呼吸をしなさい」


 不安そうにマーリアのことを見送っていたルーシェに、シャルロッテはそう言って、はげますように微笑んで見せる。

 その微笑みを見て、ルーシェもぎこちなく笑みを浮かべ、言われた通りに深呼吸をする。

 すると、ほんの少しだけ気持ちが楽になったような気がした。


 そんなルーシェの様子を見てうなずくと、シャルロッテは丁寧に4回、扉をノックした。


「どうぞ」


 ほどなくして、部屋の中から返答がある。

 扉越しでくぐもってはいたが、聞いていた通りに若い、まだ声変わりもしていないような少年の声だった。


「失礼いたします。公爵殿下」


 ノルトハーフェン公爵、エドゥアルドの許可を得ると、シャルロッテは静かに扉を開き、部屋の中へと入る。

 ルーシェは1歩が踏み出せずにいたが、扉を閉めるためにこちらを振り返ったシャルロッテに視線でうながされて、やや慌てて部屋の中へと入った。


 シャルロッテはルーシェが部屋の中へと入ったこと確認してからそっと扉を閉めると、公爵の方を振り返り、さりげない仕草で目立たないように衣服を整えると、うやうやしく一礼して見せる。


「殿下。お忙しいところ、失礼いたします」

「……しっ、失礼、いたしますっ」


 そのシャルロッテの様子を見て、ルーシェも慌てて頭を深々と下げた。

 こういった手順は事前に教えてもらってしっかり覚えていたつもりだったのだが、緊張してしまっているせいですっかり頭の中から抜け落ちてしまっている。


「気にすることはないさ。どうせ、この館には、僕たちしかいないんだから。そんなにかしこまらなくてもいい。顔をあげてくれ」


 幸いなことに、公爵は少しも気にしてはいない様子だった。

 シャルロッテも平然としている様子で、公爵の許しを得るとすぐに顔をあげて、いつものようにピンと背をのばした立ち方になる。


 ルーシェは、ほっとしながらシャルロッテに続いて顔をあげたのだが、そこで少しきょとんとしてしまう。


 なぜなら、エドゥアルド公爵は、ルーシェのことを少しも見てはいなかったからだ。


 エドゥアルド公爵は、確かにそこにいた。

 公爵は、客人を応接するためのソファとコーヒーテーブルがセットで置かれているその向こうに用意された、公爵が私的な用事や、このシュペルリング・ヴィラに持ち込んだ仕事を片づけるために置いてある執務机のそばに置かれたイスに腰かけている。


 貴族というから、どんなにか立派で派手な衣装で着飾っているかと思えばそうではなく、白いシャツの上にベストを身につけ、下にはズボンという動きやすそうないでたちで、ネクタイが少し強く主張しているくらいだ。

 どうやらそれが、若き少年公爵の普段着であるようだった。


 そして、少年公爵の視線は、机の上に落とされていた。

 その先にあるのは、内容はわからないがなにかの書類のようで、なにやら数字のようなものが整然と並べられている。

 エドゥアルドはその書類を見るのに夢中で、ルーシェたちの方を少しも見ていない。


 ルーシェはなんだか、緊張していたのが馬鹿らしく思えてきてしまった。


 この館で、なんとしても働かせてもらう。

 そうして、1人と2匹の家族で、これからもずっと一緒に暮らす。

 あの、スラム街での、過酷な生活から抜け出すのだ。


 そう思って、ルーシェは館の主である公爵に嫌われないようにと、必死でいたのに。

 当の公爵は、ルーシェになんの関心も持ってはいないようなのだ。


 ルーシェが入室時のマナーをすっかり失念してしまっていても、公爵がなにも言ってこなかったのは、なんのことはない。

 そもそも、ルーシェのことを見てすらいなかったからだ。


 そう思うと、ルーシェは少しだけ気が抜けたようになってしまった。


「それで? ……その、ちんちくりんが、新しいメイドか? 」


 それから、エドゥアルド公爵はようやくルーシェの方をちらりと見ると、またすぐに机の上の資料へと視線を落としながら、いかにもどうでも良さそうな口調でそう言った。


 その言葉に、ルーシェは少しだけムッとする。


 確かに自分はスラム街で生きてきた、取るに足らないような存在で、強大なタウゼント帝国でも指折りの大貴族からすればその辺に落ちている小石のような存在かもしれなかい。


 だが、ルーシェはこれから、その公爵のメイドとして働くのだ。

 せめて、自分の身の回りの世話をする相手の顔くらいは、いくら公爵といえどもきちんと覚えるべきではないかというのが、ルーシェの率直な気持ちだった。


 しかも、エドゥアルド公爵はイスに深く腰かけ肘かけを使って頬杖をついている。

 とても、人と対面する時の態度とはいえなかった。


「はい。そうです。殿下」


 だが、シャルロッテは慣れた様子で、エドゥアルド公爵の態度を軽く流した。

 どうやら公爵は普段からこんな雰囲気でいるらしく、シャルロッテにとっては今さらなことであるらしい。


「この件、ご了承いただけるでしょうか? 」


 それから、シャルロッテはルーシェたちの運命を決める判断を公爵にあおいだ。


 緊張していた自分がすっかり馬鹿らしくなってしまっていたルーシェだったが、さすがに身体を固くし、ゴクリ、と生唾を飲み込む。


 だが、意外なほどにあっけなく、公爵は資料に視線を落としたままうなずく


「お前と、マーリアが推薦するのだから、僕としても異論はない。……けれど、その小娘、ちゃんと役に立つのか? 」


(なによっ! 公爵さまだからって、えらそーに! )


 ルーシェは、館で働けることになって嬉しかったが、それよりもあまりにもこちらに関心がないようなエドゥアルド公爵の態度が気に入らなかった。


 おまけに、小娘だなんて!

 それは、確かにルーシェは貧弱な身体つきのスラム育ちだったが、公爵だって1つしか年が違わない、子供と呼んでも差し支えないような年齢なのだ。


 もちろん、そんなことは口には出さず、表情にも出さずに黙っているが。


「もちろんでございます。まだ未熟ではありますが、殿下のお役に立つかと」

「ふん。……なら、いい」


 シャルロッテの返答に鼻を鳴らしてうなずいてみせた後、エドゥアルド公爵は、「話はもう終わりだ」とでも言いたそうに、頬杖をついていない方の手をひらひらと振った。

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