第18話:「ご挨拶申し上げます:2」

 ルーシェが住み込みで働くことになった館の主、ルーシェがこれから仕えることになる、ノルトハーフェン公爵家の当主。


 その名前を、エドゥアルド・フォン・ノルトハーフェンという。


 挨拶をする前の予備知識としてシャルロッテが教えてくれたことだったが、エドゥアルド公爵はルーシェと1つしか違わない、14歳の少年なのだという。

 そのためか、現在のところはノルトハーフェン公国の実際の政務には関与せず、ノルトハーフェン公爵家に仕える重臣、ルドルフ・フォン・エーアリヒ準伯爵を摂政として、政務を任せているということだった。


 そして、ルーシェは初めて、自身がいる場所、これから自身の新しい職場となり、家となり、生きていくことになる館の名前を知ることができた。


 館の名前は、すずめ館(シュペルリング・ヴィラ)という。

 何代も前のノルトハーフェン公爵が別荘として建設させた館で、今はルドルフ準伯爵に政務を任せているエドゥアルド公爵が居館としている。


 言われてみると、確かに、館の中にはいくつもすずめのレリーフや模様を見て取ることができた。

 2匹のすずめが仲良くたわむれていたり、元気よく飛んでいたり。

かわいらしいレリーフや模様があちこちにある。


 どうして、すずめなどという、どこにでもいるような、他愛のない小鳥の名前を持っているのかというと、ここを別荘として建てた時の公爵が、政治など、世俗のことをすっかり忘れて、すずめのように無邪気に過ごすことができるようにと、あえてそういう他愛のない生き物の名前をつけたということらしかった。


 公爵とその近しい人々が暮らす母屋に、客人などをもてなすための離れに、使用人であるマーリアたちが使っている建物。

 それ以外にも、馬車のための車庫や馬小屋があり、それに加えて、広大な庭園を持つ。


 政治など、世俗のことを忘れて過ごす目的であるため華美なところはあまりなかったが、大貴族にふさわしい立派な館だった。


 だが、そこで暮らしていたのは、エドゥアルド公爵と、その使用人であるマーリア、ゲオルク、シャルロッテの、たったの4人だけ。

 これから、ルーシェと、オスカーと、カイが加わることになるが、それでも、たった5人と2匹だけ。


 シャルロッテから予備知識として館のことを口頭で伝えられたルーシェは、その事実に違和感を覚えたが、そのことを深く考えているような余裕はなかった。


 これから、公爵その人と対面し、挨拶をしなければならないのだ。

 緊張してしまって、それどころではない。


 そもそもルーシェからすれば、一国の主である公爵などという存在は雲の上の存在であり、そんな人と対面する場面を、これまで想像したことさえない。

 ひとまず、必要なことの大部分は、ルーシェの世話役を引き受けたシャルロッテがしてくれるということで、ルーシェはあらかじめ指示された定型文の言葉で公爵に挨拶をすればいいことになってはいるものの、息が詰まってしまうような気分だ。


 それでも、ルーシェはこの挨拶を成功させなければならない。


 せっかく、シャルロッテやマーリア、ゲオルクの好意で、館で雇ってもらえるかもしれないのだ。

 あのスラム街に戻ることなど絶対に嫌だったし、オスカーやカイと離れ離れになって暮らすことも、絶対に嫌だった。


 公爵の前でなにか粗相そそうがあったりして、館に置いてもらえないとなったら、どうしよう。


 シャルロッテたちはルーシェに味方してくれているし、大丈夫だ、と言ってくれてはいるものの、ルーシェの頭の中にはどうしても不安な気持ちがちらついてきて、消えることがなかった。


 エドゥアルド公爵に対面する時間が、近づいてきている。


 朝早くに起きたルーシェは、マーリアたちの日々の仕事を手伝った後、午前のあいた時間を使って、公爵に挨拶をするための最期の準備にとりかかった。


 シャルロッテにまたくしで髪を整えてもらい、大きな鏡を前に、メイド服を身に着けて、身だしなみを整えるのも手伝ってもらう。

 ルーシェの長くのばした髪は白いリボンで2つにまとめられ、ツインテールに整えられる。


「あなたは、決まった挨拶をして、あとは、公爵殿下になにか質問されても、素直に、正直にお答えすればいいだけ。他のことは、私がみんな、やってあげます。……だから、きっと大丈夫ですよ」

「はっ、はいっ、シャーリーお姉さまっ」


 身だしなみを整え終わったルーシェの両肩を両手で軽くつかみ、ルーシェをはげますように言ってくれるシャルロッテに、ルーシェはできるだけの笑顔で答えようとはしたものの、やはり緊張してしまってうまくできない。

 声は震えていて、うわずっていたし、精一杯の笑顔はひきつったぎこちないものになってしまう。


「少しくらい、緊張していてぎこちなくっても、平気さ。公爵殿下はまだお若いけれど、そのくらい軽く流してくれる度量はおありさ。それに? ちょっとくらいしくじっても、シャーリーがなんとかしてくれるよ」

「はっ、はいっ、メイド長さまっ」


 マーリアもルーシェのことをはげましてくれたが、やはり、ルーシェの緊張はとけない。


 マーリアもシャルロッテも、さすがに少し不安そうな表情でお互いに視線をかわしたが、もう、公爵との約束の時間まであまりない。


「まぁ、なんとかなるだろうさ」

「まぁ、なんとかしてみせます」


 マーリアとシャルロッテはお互いにそう呟くように言い、ルーシェを案内して、公爵が舞っている部屋へと向かい始める。

 ルーシェも、ぎこちない動きのままだったが、なんとか2人の後を追って歩き始めた。


 そんなルーシェを、オスカーとカイが待っていた。

 2匹の動物たちは、公爵が待っている部屋へと続く廊下で、お行儀よく座って、準備を終えたルーシェが部屋から出てくるのを待ち、そして、公爵のもとへと進んでいくルーシェを見守ってくれた。


 ルーシェを応援する、真っすぐな視線。


 ルーシェの緊張は、それでも完全には解けなかったが、ルーシェの足取りは少しだけしっかりとしたものになり、その視線も、自信のなさそうな下向きのものから、(絶対に、成功させたい)という決意のこもった、前を向いたものに変わる。


 そうして、ルーシェたちは、ノルトハーフェン公爵の部屋の前に立った。

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