第20話:「すずめ館|(シュペルリング・ヴィラ):1」

 始まる前はどうなることかと気が気ではなかったが、ルーシェの、エドゥアルド公爵との対面は何事もなく終わった。


 そもそも、あの少年公爵自身がルーシェになんの関心も持ってはいなかったのだから、なにかが起こるはずもなかった。


「失礼いたしました」

「し、失礼いたしましたっ」


 部屋に入った時と同じようにうやうやしく一礼するシャルロッテのマネをして一例をした後、ルーシェは公爵のいる部屋からでると、ほっとしたように深呼吸をした。


 正直、エドゥアルド公爵の態度は、あんまりだ、そう思いはしたものの、ひとまずはなにごともなく公爵への挨拶を終えることができて、ルーシェは嬉しかった。


「これで、あなたも公爵家のメイドですね」


 そんなルーシェの先に数歩移動し、振り返ったシャルロッテは、嬉しそうに微笑みながらルーシェの方を振り返る。

 公爵への初めての挨拶あいさつが問題なく終わり、ルーシェが、彼女の家族と一緒にこの館で働けるようになったことが嬉しいようだった。


「はいっ。これも全部、シャーリーお姉さまや、メイド長、ゲオルクさんたちのおかげです」


 ルーシェも嬉しくなって、そう言って微笑みながらシャルロッテへと深々と頭を下げる。


 そんなルーシェに、シャルロッテは微笑んだまま話しかける。

 その声音が、先ほどまでとほんの少しだけ違うものに変わっていたことに、すっかり安心して、浮かれていたルーシェは気がつかなかった。


「では、さっそくですが、ルーシェ」

「はいっ、シャーリーお姉さまっ! ルーに、なんでもお申しつけくださいっ」


 ルーシェはシャルロッテの問いかけに、なにか仕事を任せてもらえるのだと思って顔をあげたが、直後、シャルロッテの瞳を見て(あれっ? )と違和感を覚える。


 シャルロッテは、相変わらず微笑んでいる。

 だが、その瞳は、笑っていない。


 今までルーシェに向けられていた優しい瞳では、なくなっていた。


 ルーシェは、シャルロッテが笑顔のまま放っている気迫に圧倒され、数歩たじろいだように後ずさり、ゴクリ、とツバを飲み込んだ。

 なんだか、冷や汗がにじみ出てくる。


(シャーリーお姉さま、怖いよぅ! )


 こんな時に、あの大きくて頼もしいカイがいてくれたらと思うのだが、あいにく、カイも、オスカーも、大人しく待ってもらっているのでここにはいない。


「まずは、お勉強から始めましょうか」


 今までとは、あつかいが変わった。

 そのことに気づいておびえているルーシェに、シャルロッテは笑顔を向けたままそう言った。


────────────────────────────────────────


 始まったのは、ルーシェを[公爵家に仕えるメイドとしてふさわしく]するための、指導だった。


 エドゥアルド公爵との面会のために、ルーシェには必要最低限のマナーやセオリーが教え込まれてはいたが、これからこの館で働くことになった以上、守らなければならない、知っていなければならないことはたくさんある。


 これからは、公爵に挨拶をする以外にも、給仕をしたり、部屋の掃除や整理をしたり、メイドとして公爵の身の回りの世話をしなければならなくなるだろう。

 そういった仕事をしなければならない時の立ち居振る舞い、言葉遣い、心構えなど、ルーシェはなにもかもをこれから学んでいく必要がある。


 ルーシェは、スラム街でなんとか暮らしてきたような少女だ。

 当然、学校などといった教育機関で勉強をした経験などはないし、足し算や引き算といった簡単な計算であっても、2ケタの計算になるとかなり怪しく、正解を導けはするものの、かなり時間がかかる。


 それでは、公爵家に仕えるメイドとしては困るのだ。

 来客の対応などでは裏方に徹して表に出ないということもできるだろうが、最低限、公爵の要望を即座に理解してそれに答えられるくらいにはならなければならない。


 今回はシャルロッテたちに身だしなみを整えてもらったが、これからは、ルーシェが自分できちんと身だしなみを整えられるようにならなければならないのだ。


 幸いなことに、ルーシェがこれまで必死にスラム街で生きてきた経験は、ある程度役に立った。


 その日の食事にありつくためになんでも仕事をこなして来たから、掃除や洗濯、裁縫まで、上手ではないものの、ひととおりのことはできる。

 なにより、[辛いこと]の限界値が高く、シャルロッテの、時に立ち姿や歩き方にまで口を挟む厳しい指導を受けても、ルーシェは必死に頑張ることができた。


 正直、[優しくて素敵なシャーリーお姉さま]から、[厳しくて口うるさい先輩メイド]に豹変ひょうへんしてしまったシャルロッテのことが、ルーシェにとっては少し怖かったが、同時に、シャルロッテの厳しい指導は、ルーシェにとって嬉しいことでもあった。


 なぜなら、シャルロッテがこうして厳しく接しているのは、ルーシェが[お客様]ではなくなったということだからだ。


 この館で、若き少年公爵に仕えるメイドとして働いていく以上、ルーシェには一人前になってもらわなければならない。

 シャルロッテは、ルーシェをこの館に受け入れることを主導した者として、また、先輩メイドとして、ルーシェに対しての責任を持ってくれているから、厳しくなったのだ。


 ルーシェには、それがわかった。

 確かにシャルロッテはルーシェに厳しくなり、時に声を荒げてしかることもあったが、決してルーシェに無理はさせなかったし、ルーシェが頑張り続ける限り、根気よく何度も教え続けてくれた。


 だから、ルーシェは必死に頑張った。


 スラム街にいたころも必死だったが、今の必死は、なんだか以前のものとは違う。

 嬉しいというか、心地よいというか。

 少し変な、言い表すのが難しいことだったが、スラム街での必死は、ただただ生きるためのもので、今の必死は、誰かの信頼にこたえるためのものだ。


(絶対に! めげたりしない! )


 ルーシェは、毎晩、疲れてへとへとになりながらベッドにもぐりこんだ後、暗い天井を凝視しながら、そう決意を固め直してから眠りについた。

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