第9話:「ルーシェ:1」
なんだか、ふわふわとした心地だった。
上も下も、なにか柔らかくて、肌触りの良い暖かな、それでいて重さを少しも感じさせないもので包まれている。
とても、気持ちがいい。
少女にとって、こんな感覚は初めてのことだった。
屋根もない、作りかけの廃墟での暮らしは、寒くて、固くて、いつもいつも、身体が痛くなる。
雲に実体があって、その中に包まれたら、きっと、こんな心地なのだろうか。
少女がそんなことを思いながらうっすらと
丁寧に表面を仕上げられた木材が美しく組まれた天井がある。
少女がスラム街で目にしてきた、粗末な道具で、ヘタな人間が加工を施した板切れとは違う、本物の職人が、最高の材料で作った天井だ。
少女は自分の目の前にそんなものがあることに驚いて何度かまばたきをした後、それから、その場所がいつも自分の寝泊まりしていた廃墟ではなく、立派な建物のなかにある部屋であることに気がついて、さらに驚いたように
おそるおそる、周囲を見回す。
そこは、1人で使うのには十分すぎる広さのある部屋で、きちっと隙間なく敷き詰められ、表面を磨かれた木製の床に、なにかの花の模様が描かれた壁紙で装飾された壁を持つ。
天井や床と同じく部屋を支える柱も上質な木材で作られており、蝋燭を置いて明かりをとるための燭台が設置されていたが、今は火のついていない蝋燭が置かれているだけだった。
それでも、部屋の中は明るい。
少女が見たこともないような、透明で薄いガラスが、白く塗られた木枠の中にはめ込まれた大きな窓があり、そこから明るい日差しがふんだんに部屋の中に取り込まれているからだ。
家具は、クローゼットと、小物なのを収納しておくための背の低い、なにかを置くための台をかねているようなリビングボードが1つずつ。
中身はほとんど入っていない様子だったが、どれもスラム街ではお目にかかれないような、きちんとしたお店や工房に行かなければ手に入らないような品物だ。
それと、少女が寝かされていたベッドが1つ。
少女は、そのベッドを見て、また驚いた。
自分が[暖かくて、ふわふわしていて、気持ちいいなにか]だと思っていたものが、自分の身体の上にかけられた羽毛布団だったからだ。
こういった製品を作っている工場で、掃除などの下働きをしたこともあったから知識としてそういうものが存在しているとは知っていたが、その白さ、肌触りの滑らかさ、そしてその軽さは、少女にとって未知のものだった。
「……ここは、天国? 」
少女は驚きすぎてきょとんとしてしまったあと、ポツリと、夢見心地のまま呟いた。
その時、ノックされることもなく部屋の扉が開かれた。
少女がぎょっとして開いた扉の方を見ると、部屋に入って来た相手の方も、目を覚ました少女の姿を見て驚いているようだった。
それは、きれいな女性だった。
地位や富を持つ人々に仕えるメイドと呼ばれる人々が身に着けているような衣服に身を包み、その手には、折りたたまれた衣服を持っている。
少女が慌ててそのメイドから逃げるように布団を頭から被ってその中で縮こまると、メイドは少し安心したように微笑み、つかつかとリビングボードまで歩いていくと、持ってきていた衣服をその上に置いた。
それからメイドは、布団の中でうずくまっている少女の近くにまでやって来る。
「安心しなさい。ここには、あなたを傷つけるような人は、誰もいません」
緊張し、ここが天国などではなく現実の世界であることに絶望し、見ず知らずの場所、見ず知らずの人々の中にいるということに恐怖して身体をこわばらせていた少女の身体の上に、布団越しに優しく手で触れるような感触が伝わってくる。
まるで少女を安心させるように、優しくなでるようにしているその手の感触と、メイドのはっきりとした真っすぐな心のこもった言葉に、少女は布団の中で数回まばたきをしながら、身体に込めていた力を緩めていく。
やがて、少女は布団の中からゆっくりと顔を出すと、かなり安心したような、だがまだなにかを疑っているような視線で、メイドのことを見上げながら口を開く。
「その……、お姉さまは、天使さまですか……? 」
ここが、天国ではない、現実に存在する世界のどこかである。
少女はすでにそのことを理解してはいたものの、それでも、自分が暮らしていた場所とのあまりのギャップの大きさに戸惑い、自身の目の前にあらわれたメイド服の若い女性が、自分を迎えに来た天国からの使者かもしれないと、そんなふうに思えてしまったのだ。
ちょうど、窓から差し込んで来る光がメイドの背中に後光のようなものを作り、彼女の赤みの強い茶色の髪を美しく輝かせていたし、そしてなにより、前髪で隠されてはいたものの、その女性の瞳の色は左右で違う。
この世の人とは、少女にはとても思えなかった。
メイドはその少女の問いかけに驚いたようにまばたきをしたあと、それから、「うふふっ」と、こらえきれずに少しだけ笑った。
それから、少女に優し気な笑みと視線を向ける。
「違いますよ。おあいにくさまですが、私は天使ではありませんよ。……私の名前は、シャルロッテ・フォン・クライス。……ノルトハーフェン公爵家にお仕えしている、メイドです」
そのシャルロッテの言葉に、少女はくらくらとした気持ちになる。
スラム街で暮らしていた少女でも、ノルトハーフェン公爵家という名前は知っている。
この地域一帯を統治している、タウゼント帝国の伝統と権威のある大貴族で、少女たちのような貧民からすれば雲の上の人だ。
そして、その公爵家に仕えているというメイドが目の前にいるということは、少女は今、その公爵家に関わる建物の中にいるということになる。
少女は、自分が寝かされていた部屋の作りの良さの理由について納得したが、同時に、[とんでもないところにいる]と理解して、途方に暮れるような気持だった。
「いろいろとお話をする前に……、まず聞かせて欲しいのだけれど」
「……あっ、は、はいっ! な、なんなりと、お嬢さま! 」
呆然としたようになっていた少女だったが、シャルロッテの問いかけに慌てたようにうなずいてみせる。
すると、シャルロッテは、少し困ったような、嬉しいような顔をした。
「そんなにかしこまらないでください。私はメイドであって、お嬢さまなどと呼ばれるような分際ではないのです。……なんだか、むずかゆい」
「ご、ごめんなさいっ! ……えっと、では、なんとお呼びしたら、よろしいのでしょうか……? 」
「シャルロッテ、あるいは、シャーリーと」
シャルロッテは少女にもっと気楽な呼び方をして欲しい様子だったが、少女は「ぅーっ」と、悩み深そうに困ったような顔でうなり声を漏らす。
初対面の、しかも年上で、少女からすれば雲の上の存在である公爵家に仕えているメイドを、本人の希望とはいえ名前で気軽に呼んでしまっていいのかと思ったからだ。
「えっと……、それでは、シャーリーお姉さま、で……」
少女は苦心の末にシャルロッテのことをそう呼ぶことに決めたが、シャルロッテは、嬉しいような、困ったような顔をする。
だが、少女の気持ちも理解してくれたのか、その呼び方を受け入れてくれたようだった。
「まぁ、その呼び方でもかまいません。……それで、あなた」
「は、はいっ、シャーリー姉さまっ」
「あなたのお名前は? 私は、あなたをどんなふうに呼べばいいのかしら? 」
緊張し、はにかんだような様子の少女を見つめながら、シャルロッテは優しく、少し楽しそうに、小さく首をかしげて見せる。
少女はその問いかけに、少し視線をそらし、「本当にこれは現実なのかしらと」と小さな声で呟いた後、ふたたびシャルロッテのことを見上げ、その問いかけに答える。
「えっと……、ルーの、えっと、あ、あたしの名前は、ルーシェ、です」
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