第5話:「猫と犬と少女と高価なペンダント:1」

 浮浪者が去って行った後、シャルロッテは自分が助けた猫がどうなったのかを知るために周囲を探してみたが、猫はどこかへ逃げたのか、それともシャルロッテのことを警戒して隠れているのか、その姿を見つけることはできなかった。

 シャルロッテは猫のことが心配でならなかったが、もう帰らなければならない時間でもあり、あきらめて帰路につく他はなかった。


 だが、シャルロッテがスラム街の路地から出て行こうとした時、その出口の辺りで、さっきの猫がふらふらとシャルロッテの前に姿をあらわした。

 どうやら、自分を助けてくれたシャルロッテのことをそこで待っていたらしい。


 シャルロッテはその姿を見て、少し安心したように微笑み、それから表情を悲しそうに曇らせた。


 スラムに暮らしているような動物はみんなそうなのだが、この猫も例にもれず、酷い格好だった。

 毛並みは乱れていてボサボサで、色つやも悪く汚れているし、身体も痩せていて、日ごろからロクに食事もとれていないことがわかる。


 だが、それでも、猫はシャルロッテにお礼を言うためにそこで待っていたようだった。


 まだ心を開いてはいない様子で、警戒の入り混じったような視線をシャルロッテへと向けてきてはいるものの、猫はそこから逃げることもせずにじっとシャルロッテを見上げている。


「よし、よし。安心なさい。私は、あなたに酷いことはしませんから」


 その気丈な振る舞いに感心するような気持になったシャルロッテは、逃げない猫へと近づき、しゃがみこむと、優し気な笑みを浮かべて猫の頭をなでてやった。

 猫は相変わらず警戒するようにしていたが、そのシャルロッテの手を拒絶することはせず、じっと、なにかを考え込むようになでられるままになっていた。


「なんなら、私がお仕えしているお屋敷に、あなたを住ませてあげてもいいのですよ? 」


 賢い猫に好感をいだいたシャルロッテは、人間の言葉など伝わらないのを承知でそう提案してみたのだが、驚いたことに猫はその言葉に理解を示したようだった。

 シャルロッテに抵抗しなかった猫だったが、その時突然身体を引いて、シャルロッテの提案を断るようなしぐさを見せたのだ。


 猫に、言葉がわかるはずがない。

 だから、もしかするとその猫は、長く人間と一緒に接してきて、何となく雰囲気で人間の言うことがわかるほどに人間慣れしているのだろう。


「……そう。あなたには、家族がいるのね」


 シャルロッテは少し寂しそうに微笑むと、猫をなでていた手を引き、立ちあがった。


 シャルロッテが仕えている屋敷に住んだ方が、猫にとっては確実に楽で豊かな暮らしが送れるはずだったが、おそらくはそのことも気配で察しつつも、猫はこの貧しく、汚らしいスラム街に残ることを選んだのだ。


 たとえ毎日が辛くとも、一緒にいたい相手がいるのだろう。

 そう察したシャルロッテは、帰らなければならない時間が迫ってきていることもあり、猫に別れを告げてその場を立ち去ろうと、立ちあがった。


 だが、シャルロッテが歩き出そうとした時、そのメイド服のスカートのすそを、猫が手でなでた。


 シャルロッテは一瞬、猫の気が変わったのかと期待する視線を向けたが、猫はシャルロッテにぷいっと背中を向けて、数歩離れたところにいる。

 シャルロッテと一緒に住んでくれるつもりはないようだった。


 落胆しているシャルロッテの目の前で、しかし、猫は立ち止まると、シャルロッテの方を振り返り、じっと、なにかを訴えかけるような視線で見つめてくる。


(ついて来い、ということかしら……? )


 シャルロッテがそう思いつつも、いぶかしむような視線を向けていると、猫は顔を前へと向け、また路地の奥へと進んで行こうとする。

 だが、すぐにまた立ち止まって、シャルロッテの方を振り返るのだ。


「……わかったわ」


 シャルロッテはうなずくと、猫の後を追いかけることにした。


────────────────────────────────────────


 猫は、よろよろとした足取りで、だが、迷うことなく、スラム街の奥へ、奥へと進んでいった。


 そこは、もう何度かスラム街へと足を運んでいるシャルロッテも、知らない、行ったことのない場所だ。


 元々、ノルトハーフェンのスラム街というのは、貧しい人々が集まって暮らしていた地区に、工場などでの労働で日銭を稼ぐために地方の農村部からやって来た人々が加わって出来上がったものだった。

 スラム街の表通りに面した部分は、古くからあった建物が立ち並んでいてまだ道がわかりやすかったが、その裏側奥深くへと入ると、スラム街に住みついた人々が無計画に新築し、増改築した建物ばかりとなって、入り組んだ場所になっている。


 普通なら迷ってしまいそうな場所だったが、体力のない、半分は気力だけで歩いているような猫を追いかけることは難しくはなく、また、シャルロッテはしっかりと自分が来た道を戻れるように、歩いた経路を記憶にとどめている。


 粗雑な作りの建物の隙間から、いくつもの視線がシャルロッテを見おろしている。

 シャルロッテは公爵家に仕えるメイドであり、決して身分が高いわけではなかったが、その衣服は上質な布で作られた素晴らしいものであり、スラムに暮らしている人々にとっては手が出ないようなものだ。


 そんなシャルロッテの姿がめずらしく、うらやましく、そしてねたましい。

 複雑に感情の入り混じった視線を感じつつも、シャルロッテは平然とした態度を維持したまま、猫の後をゆっくりと追いかけていった。


 シャルロッテは、強い。

 自分の身の守り方は心得ているし、外見からはわからないが、スカートに隠れた自身の脚にいくつもの武器を隠し持っている。


 そのことで自信過剰となり、うぬぼれているわけではなかったが、シャルロッテはこの場でなにかがあっても容易に切り抜けることができると考えていた。


 それになにより、シャルロッテは、このノルトハーフェンを治めるべき、正当な領主であるノルトハーフェン公爵家に仕えていることに誇りを持っている。

 公爵家に仕えるメイドとしてふさわしい態度をとろうと、いつも心がけているのだ。


 ただ、自身の主である公爵の住む館にすぐに戻ることなく、猫に求められるままにその後を追いかけていることには、罪悪感もある。


(よほどの、事情があるのでしょうね)


 シャルロッテは、公爵の館に住まないかという誘いを毅然きぜんと拒絶した猫の態度からそう推測し、また、そうであってくれるように祈りながら、夕焼けの色が濃くなりつつあるスラム街を、猫を追いかけて歩み続けた。

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