第4話:「公爵家のメイド:4」

 スラム街には、どこもかしこも不快な臭いが漂っていたが、闇酒場に満ちていた得体の知れない密造酒の臭いよりは幾分かマシではあった。


 シャルロッテは地上の通りに戻ってきて、ブーツで石畳を踏みしめると、少しほっとしたような表情をし、それから、来た道を戻り始める。


 シャルロッテがスラム街にやって来た時はまだ午後の日の明るい時間だったが、今はもう、太陽は西の地平に沈みかけていて、ボロの建物が立ち並んでいるスラム街の通りはすでに薄暗い。


 ただでさえ治安が悪い場所であるのに、夜になれば、どうなるか。

 シャルロッテは、自分で自分の身を守る術を心得てはいたものの、来る途中で遭遇したごろつきたちの様な連中にまた襲われないとも限らない。

 少しでも早くスラム街を抜け出すために、シャルロッテは足早に進んでいった。


 だが、ほどなくして、シャルロッテは足を止めることになった。


 スラム街の、暗く、汚らしく、狭苦しい路地の奥で、争うような音が聞こえて来たからだ。


 それが、人間たちが争っているだけだったら、シャルロッテはそれを無視してその場を歩き去っただろう。

 しかし、男のだみ声に混じって聞こえてくる鳴き声が、シャルロッテの足を止めさせた。


 どうやら、その争いは、1人の浮浪者と、1匹の猫との間で行われているものらしい。

 もっとも、その戦いは浮浪者の方がすでに圧倒的に有利であるらしく、ネコを追い詰めた浮浪者が、面白半分に猫をいたぶっているところであるようだった。


「はっ、このドロボーネコがっ! たっぷり思い知らせてやるから、覚悟しやがれ! 」

「ふーぅ、ぅーッ! シャーッ! 」

「へっ! やせっぽちのクセにいっちょ前にひっかこうってか? この、のろま! そおれ、捕まえたぞ! 」


 路地は入り組んでいて奥の様子は見えなかったが、どうやら猫は浮浪者に捕らえられてしまったようだった。


 シャルロットは、暗くなり始め、かすかに星が見えている空を見上げ、小さく、「申し訳ありません、殿下」と呟いた。

 それから視線を戻すと、シャルロッテは進行方向を変え、路地の奥へと進んでいく。


「フン! よく見たら、この前のガキと一緒にいた猫じゃねぇか! なんだ? 仕返しにでも来たのか? それとも、コイツを取り戻しにでも来たのか? 誰が返すもんかよ! コイツはもう、オレ様のもんなんだ! 」

「ふぎゃー! しゃーっ! 」

「観念して大人しくしろ! 人間様に猫畜生がかなうとでも思ってんのか!? ちょうどいい、その皮はいでオレ様のブーツに張りつけて、残りはあのガキにでも食わせてやる! 」


 シャルロッテが路地の奥へとたどり着いた時、ちょうど、浮浪者は、捕まえた猫を絞め殺そうとしているところだった。


 シャルロッテが素早く視線を動かして状況を確認すると、どうやら浮浪者はそこに1人だけで、他に仲間はいないようだ。

 本当にただの浮浪者のようで、シャルロッテに襲いかかって来たごろつきたちとは様子が違う。

 のび放題の無精ひげで顔中毛むくじゃらで、衣服はつぎはぎだらけのスラム街ではよく見かけるボロ布だったが、酒だけは手放せないのかその腰のベルトには酒瓶が差し込まれ、酔っているのか浮浪者の顔は赤い。


 その浮浪者の男に捕まっているのは、酷い毛並みの、やせっぽちの猫だった。

 雑種のようで種類はシャルロッテにもよくわからなかったが、薄汚れたダークグレーの毛並みに、満月のような金色の瞳を持つ。


 猫は必死に浮浪者に向かって爪を立てようともがいているが、背後から首を締め上げられている上に、元々体力があまり残っていなかったのかその抵抗は弱々しいものに過ぎなかった。

 そして、シャルロッテの見ている前で、みるみるうちに猫は弱っていく。


「やめなさい! 」


 シャルロッテは、浮浪者のことを心の底から軽蔑したように睨みつけながら、思わず強い口調でそう叫んでいた。


 シャルロッテの存在に気づいていなかったらしい浮浪者は彼女の鋭い声に驚き、思わず猫を手放す。

 まだ息のあった猫は、ぼてり、と土がむき出しの地面に落ちると、そこに転がっていたなにかを全身の力を振り絞るようにしてくわえ、よろよろとした足取りで近くの暗がりに身を潜めた。


「ケッ! なんだい、なんだい、ずいぶん、いい身なりの嬢ちゃんじゃねぇかっ! 」


 シャルロッテの気迫に数歩、たじろいだように後退した浮浪者だったが、すぐに怒りをあらわにし、つばを乱暴に地面へと吐き出した。

 最初、驚きはしたものの、シャルロッテが可憐かれんな女性であると知って、自分自身の方が強いと勘違いした様だった。


「おうおうおう、どうしてくれんだぁ!? せっかく捕まえたのによ、あのドロボーネコ! 逃げられちまったじゃぁねぇか! ああ!? どうしてくれるんだよ!? 」

「お望みでしたら、こちらでいくらかお渡しできますが? 」


 シャルロッテは、目の前の浮浪者のことが嫌いでたまらなかったが、公爵家に仕えるメイドとしてふさわしい、毅然きぜんとした理知的な態度で浮浪者に応じ、懐から硬貨が詰まった小袋を取り出して見せる。

 もちろん、シャルロッテが浮浪者のことを嫌っているのは、彼が浮浪者であり、汚らしい身なりでいるという理由ではない。


「ぅへっ!? ……ふへっへっへっへっ」


 シャルロッテが取り出した硬貨の詰まった小袋を見て、浮浪者は目を丸くして驚いた後、その頬を緩ませる。


「なぁんだ、嬢ちゃん、礼儀ってもんをわきまえてるじゃないか! 」


 シャルロッテが見せている小袋に詰まっているのは、闇酒場の店主に渡したものとは違い、シャルロッテが個人的な買い物をするために持ち歩いている銀貨や銅貨が詰まっているものだったが、スラムで暮らしている人間にとっては大金だ。

 浮浪者は涎を垂らしながら緩んだ笑みを浮かべ、じり、じり、と、シャルロッテへ向かってにじり寄って来る。


 シャルロッテはとてもいい気分ではなかったが、わざわざトラブルを起こすつもりもなかった。

 小袋を開き、浮浪者に向かって差し出しながら、「お好きなだけお取りなさい」と、浮浪者の好きなようにさせる。


「へへっ、毎度アリっ」


 浮浪者はまず右手で、次いで左手で、小袋の中身を半分以上つかみ取ると、嬉しそうに緩み切った顔で、どこかへと歩き去って行った。

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