第1章:「見習いメイド・ルーシェ」

第1話:「公爵家のメイド:1」

 ノルトハーフェン。

 [北の港]という意味を持つ名をかんしたその港町は、冬になるとその一部が氷に閉ざされ流氷が漂う北の海、[フリーレン海]に面した場所にあり、古くからタウゼント帝国の海の玄関口として栄えてきた。


 外洋から深く、広々と入り込んだ湾は、大型船舶が容易に奥まで入れるほどの水深を持ち、波も穏やかでフリーレン海が凍りついてもその流氷は湾の奥にまで達しないという、天然の良港となっていて、ノルトハーフェンという港町が生まれる土台となっている。


 この場所をおとずれるたびに、この辺り一帯を治めているノルトハーフェン家に仕えるメイド、シャルロッテ・フォン・クライスの脳裏には、[産業革命]という言葉がちらついてくる。


 ノルトハーフェンには、いくつもの高い煙突がそびえている。

 それは、巨大な製鉄所であったり、その鉄を使って大砲や小銃を生産する武器工場であったり、隣国のオストヴィーゼ公国から輸入した羊毛を糸にする紡績工場、それを布にする織布工場の煙突で、昼夜を問わず、もくもくと煙を吐き出し続けている。


 鉄を溶かして精錬するために、あるいは、産業機械の動力源となる蒸気機関を動かすために、大量の石炭を燃やし続けているのだ。

 18歳になったばかりのシャルロッテにとって蒸気機関というものは生まれた時からすでに存在してはいたものの、ノルトハーフェン公国でその存在が当たり前のものとなったのは、ここ数年のことでしかない。


 蒸気機関の発達する以前から、あるいはそれと並行して、水力を利用して動力源を得る技術というのも発達してはいた。

 しかし、水力をうまく使うためには、豊富な水や、[高いところから低いところへ]流れる水の力を利用できるような、地形的な条件が必要だった。


 その点、蒸気機関の登場は、まさに革命であった。

 石炭、あるいはまきなどの燃料と、水力で必要とする水に比べればずっとずっと少ない水だけで、人間にはとてもマネできないようなパワーが手に入るのだ。


 遠く海の向こう、ヘルデン大陸と海峡を隔てた場所に浮かぶ島国、イーンスラ王国で始まった、蒸気機関を動力源とする産業機械の導入は、数十年前にもさかのぼる。

 イーンスラ王国では、その発達した工業力により高品質で安価な毛織物を各国に輸出し、タウゼント帝国でもこのノルトハーフェン港を通じて盛んに輸入を行っている。


 ノルトハーフェン公国では、数十年前に始まったものをようやく導入して使いこなし始めたところだったが、これでもタウゼント帝国の中では産業化が進んでいる方だった。

 帝国内の他の諸侯も、自らの領地に盛んに近代産業を導入し、富を得ようと躍起やっきになってはいるものの、直接イーンスラ王国の進んだ産業文明に触れることの多かったノルトハーフェンは、1歩以上進んだところにいる。


 蒸気機関を導入した産業化は、それを動力源とした産業機械を置いた工場での大量生産を可能としつつある。

 それは、かつては手作業でいくつもの工程をかけてようやく生産していたものを、機械によって素早く、そして休むことなく生産できるということで、そこで生産されるものの品質は高く、そして安価だった。


 だが、シャルロッテにとって、それは、必ずしも良いことばかりではなかった。

 かつての労働集約型の手工業が廃れ、効率的な機械工業に置きかわった結果として、職を失った人々も数多く存在している。

 そして、なんの処理もされずに垂れ流しにされる煤煙ばいえんの臭いは地上にも届き、シャルロッテは不快でならなかった。


 シャルロッテが歩いているのは、ノルトハーフェン公国で産業化が進む中で、結果的に生まれた貧民街スラムだった。

 産業化によって失業してしまった人や、工場での働き手となるべく地方から集まってきて薄給で働く労働者たち。

 そういった人々が集まってできた、薄汚れていて煩雑な街並みを、シャルロッテは平然とした表情で歩いている。


 一国を治める公爵家に仕えるメイドらしく、仕立てのよいメイド服に身を包み、よく整えられた赤みの強い茶色の髪を持つ美しい女性であるシャルロッテには、似合わない場所だ。

 地面は石畳で舗装されてはいるものの、生活で生まれるゴミそのまま散らばったままで汚く、左右に立ち並んでいる石造りの建物も手入れがされておらずボロばかりだ。

 そこに暮らす、着の身着のままのような状態の人々も、スタスタと歩いていくシャルロッテに奇異の視線を向け、薄気味悪がっている様子だった。


 周囲の人々がシャルロッテを薄気味悪がっているのは、彼女の特徴的な容姿にも原因がある。

 シャルロッテは右側の前髪を長くのばして隠してはいるものの、右目はアンバー、左目はグリーンという、左右で瞳の色が異なるオッドアイなのだ。

 これは先天的なもので、シャルロッテはこの自身の特徴とうまく折り合いをつけながら生きている。


 シャルロッテとしても、わざわざこんな場所に足を踏み入れることなど望んではいなかった。

 どうしてもここでしか果たせない所用があるために、しかたなくここにいるだけなのだ。


 ここは、煙突から吐き出される煙の臭い以外にも様々な臭気が入り混じって息を止めたくなるほどだったし、なにより、シャルロッテのような、若い女性が安心して歩けるほど治安のよい場所でもない。


「おい、姉ちゃん。待ちな! 」


 案の定、シャルロッテは、3人組のごろつきたちに呼びつけられた。


 1人は、リーダー格らしい、筋骨隆々としていて、シャルロッテを乱暴に呼びつけた大柄な男。

 もう1人は、視線がやたらと鋭く、下品な笑みを浮かべながら、抜き身のナイフをちらつかせている男。

 3人目はヨレヨレの服をだらしなく着崩した男で、シャルロッテの背後に回り込むようにする。


「なんでしょうか? 」


 正面を大男とナイフ男、背後をだらしない男に囲まれて立ち止まったシャルロッテだったが、彼女は眉一つ動かさずに、平然と男たちを見返して、冷静な声でそう言った。

 自分からトラブルを起こすつもりは、シャルロッテにはまったくないのだ。


「へっへっへ、ツレないねェ、姉ちゃん。ま、そのツンとしたところが、またたまらねェぜ」

「まったくだ。けどよ、そんな美人の姉ちゃんが、こんなところを1人で歩いていちゃぁ、危ないぜ? 」

「そうそう。いつ、暴漢に襲われるともしれねェしな」


(今まさに、暴漢に襲われているところなのですが……)


 げひゃひゃひゃ、と下品な笑い声をあげるごろつきたちに、シャルロッテは内心で呆れながらも、トラブルを避けるために彼らを無視して進もうとする。


「おっと、だから待ちなって! オレたちは親切な男なんだ」


 そのシャルロッテの進路を、再び大男が塞いだ。


「ここは危ないところだって、言っただろう? だから、オレたちが姉ちゃんを守ってやるよ」

「へへへへ、そこにいい近道があるんだ。案内してややるぜ? 」


 下品な笑みを浮かべている大男とナイフ男の言葉に、シャルロッテはさすがにこらえきれずに小さくため息をつき、それから冷静な口調のまま言う。


「けっこうです。わたくしはこの辺りは知っておりますので」

「はっ、強情な姉ちゃんだ! いいから、オレたちと仲良くしようぜェッ! 」


 その時、突き放すような口調で言ったシャルロッテの背後から、だらしない男が緩んだ笑みを浮かべながらシャルロッテに抱き着こうとした。


 その動きは、シャルロッテからは見えていないはずだった。

 だが、彼女は鋭く双眸そうぼうを細めると、素早く動き、後ろ足で、正確にだらしない男の鳩尾みぞおちを蹴り上げていた。


「ぉごはっ!!!!? 」


 強烈な勢いで鳩尾みぞおちをクリーンヒットされただらしない男は、口から吐しゃ物をまき散らしながら奇妙な悲鳴をあげ、白目をむいてその場に崩れ落ちた。

 その光景を目にして、大男もナイフ男も、一瞬で仲間が倒されたことに顔色を変え、身構える。


 だらしない男の吐しゃ物がかからないように素早く身を引き、残った2人に対峙するためにかまえを取り直したシャルロッテは、スカートのすそを上品な形に整えなおし、2人を冷徹な視線で睨みつけた。


「これは、わたくしを、公爵家のメイドと知った上での狼藉ろうぜきですか? 」

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