メイド・ルーシェのノルトハーフェン公国騒乱記(完結:続・続編投稿中)

熊吉(モノカキグマ)

プロローグ

第0話:「寝物語」

 丘を、川を越えて、山にはトンネルを掘り、2本の線路がヘルデン大陸の上をどこまでも、どこまでも続いていく。

 時に土地を切りし、あるいは盛りし、路盤ろばんめ固め、バラストと呼ばれる砂利をき詰め、枕木の上に鋼鉄製の線路を引いて作られたその複線は、ほんの数年前に開通したばかりであったが、今やタウゼント帝国の大動脈として、日々、たくさんの人や物を、つい何年か前には考えられなかったような速度で運んでいく。


 タウゼント帝国は、かつて[老いた帝国]と呼ばれていた。

 その歴史は長く、千年以上にも及ぶとされる。

 もはや、帝国がどのような歴史をたどってきて今の姿があるのか、誰もすべては把握しきれないほどの年月、帝国はヘルデン大陸随一たいりくずいいちの強国としてあり続けてきた。


 タウゼント帝国を打ち立て、初代皇帝位についた伝説的な皇帝の、5人の子と、その5人の子が立てた5つの公爵家。

 アルトクローネ、ズィンゲンガルテン、ヴェストヘルゼン、オストヴィーゼ、ノルトハーフェン。

 帝国はこの5つの公爵家から、選帝侯と呼ばれる貴族たちの投票によって歴代の皇帝を選出し、その長い治世を、栄枯盛衰えいこせいすいをくり返しながら連綿れんめんと伝えてきた。


 故に、帝国は[老いた]。

 5つの公爵家を中心とする体制は帝国の安寧を長く、途絶えさせることなく伝えたが、一部の特権階級によって続けられる統治は帝国の体質を固定化し、停滞させ、よどませた。


 だが、今の帝国には、新しい風が吹いている。

 長きにわたって変わることなくあり続けたタウゼント帝国は、いまやその殻を完全に打ち破り、破壊し、その破片の上に生まれ変わろうとしている。


 どこまでも続く鉄路の上を、濛々もうもう煤煙ばいえんと水蒸気をあげながら驀進ばくしんしていく列車は、風を巻き起こしながら走り抜けていく。

 半分に欠けた月に照らされた世界を、汽車は、放牧地でのんきに眠っていた羊を叩き起こし、周囲の草木をざわめかせながら、力強く、振り返ることもなく進んでいく。


 引いているのは、何両もの客車と貨車。

 客車には、地位のある者や金持ち、労働者など、様々な人々が数えきれないほどに乗っており、貨車には、ここではないどこかで生産された様々な物資が山と積み込まれている。


 かつての[老いた]帝国では、考えることもできなかった光景。

 広大な帝国の各地に住む人々が当たり前のように交流し、ここにはないものをあちらから、あちらにはないものをこちらから、簡単に、素早く運ぶことができる。


 そしてそれは、帝国国内だけにはとどまらない。

 線路の行き着く先には海が広がり、そして、その海の上を、無数の貿易船が行き交っている。


 かつての帝国は、その国内だけがすべてであった。

 ヘルデン大陸の中央部にあり、古く、強大であった帝国は外国との交流など必要とせず、目の前にあるものだけで満足し、その外側にどんなものがあるのか、歯牙しがにもかけていなかった。


 だが、今の帝国は違う。

 汽車が向かう先、広大な海を越えた先には、帝国とは異なる人々、文化、そして産物を有する多種多様な国家、地域があり、帝国は、世界が広大であることを知っている。


 その先に広がるのは、無限に思えるほどの可能性であるのと同時に、生まれ変わり、ようやく新しい国家としての器を固めつつある帝国にとって、様々な危険をも内包した世界だ。

 長い眠りの中にあった帝国はすでに目覚め、古い体制から脱却し、親善の笑顔の裏でぬかりなく刃を研ぎ澄ませ、帝国主義の原理に従って繁栄を目指す諸国家の中を生き抜こうとしている。


 汽車は、多くの人を、物を乗せて、迷うことなく進んでいく。


 その進む先になにが待っていようと、帝国はもはやそれを恐れることはないだろう。


 やがて汽車は、海のそばに広がる港街へと近づいていくと、自身の到着を告げるために長く、勇ましい汽笛をあげた。


────────────────────────────────────────


「あらあら。今日も、時間通りね」


 薄く開いた窓から、肌寒い夜の空気を震わせながら届いてきた汽笛を耳にして、1人の老婆は顔をあげ、それから、嬉しそうに微笑んだ。


 もう、その年齢は70歳を超えようかという、肌にはいくつもの深いしわがあり、髪もすっかり白くなった老婆だった。

 だが、その美しく澄んだ碧眼へきがんは子供の無邪気さと、老婆の長い生の中で培った人格の深みとをあわせもったように穏やかに輝き、若々しい印象がする。


 そこは、こぢんまりとした、だが決して狭苦しくはない、落ち着いた雰囲気の部屋だった。

 老婆がいつも使っているのであろうベッドに、客を招いてお茶をするためのテーブルとイス、それからついたてに隠れて、老婆が1人の時間を楽しむためのイスがあり、その他にも、本棚やクローゼット、身だしなみを整えるための大きな鏡のついた化粧台など、ゆったりと心地よく過ごせるだけの家具がそろっている。

 壁は石造りで、床はよく磨かれたフローリング。

 木をアーチ状に組んで作った天井からは、派手ではないが立派なシャンデリアが吊り下げられているが、今は使われておらず、代わりに壁に配置されたガス灯が、部屋の中をほのかに照らし出している。


 その部屋の中で、老婆は火をつけていない暖炉のそばに用意した安楽椅子あんらくいすに腰かけ、のんびりと編み物をしていたところだった。


「少し、寒くなって来たかしら」


 汽笛の音が鳴りやむと、老婆は編み物の道具を近くの台に置き、そう言いながら立ち上がると窓へと向かい、そっと静かに窓を閉めた。


「おばあさま! おはなしきかせてっ! 」


 その時、老婆の部屋の扉が、勢いよく開かれた。


 転がり込むように飛び込んできたのは、2人の小さな子供。

 1人は、快活そうな、明るい金髪と碧眼へきがんを持つ、6歳ほどの女の子。

 もう1人は、黒髪に灰色がかった碧眼を持つ、女の子よりも少し幼く、両手にクマのぬいぐるみを抱えた眠そうな男の子だった。


 わーっ、と駆けよって来た女の子は老婆の服のすそをつかみ、「ね、おはなしして! おはなし! 」と盛んにせがみ、男の子は女の子の後ろで、眠たそうな目で老婆の方を見上げている。


「はいはい。わかりました。それじゃ、眠くなるまで、おはなしをしましょうね」


 その2人の様子を見て老婆は優しそうに微笑むと、それから、2人の手を引いてベッドへと向かう。


 パジャマ姿の2人の子供がベッドの布団の中に納まると、老婆はすぐ近くにイスを引いてきて腰かけ、わくわくするような視線を向けてくる女の子と、やはり眠たそうな視線を向けてくる男の子に見つめられながら、なにかを思い出すようにまぶたを閉じる。


 やがて、老婆は優しい声で、2人の孫たちに語りだす。


「むかぁし、むかし、あるところに、1人の女の子がいました。

 女の子はとてもとても貧乏で、食べ物を買うお金もなくて、毎日、毎日、お腹を空かせていました。


 そんな女の子を助けてくれる人なんて、誰もいませんでした。

 なぜなら、女の子の周りに住んでいる人たちもみんな、貧乏で、その日、その日を暮らしていくので精いっぱいだったからです。


 女の子は辛くて、悲しくて、そんな毎日がすっかり嫌になってしまいました。


 けれども、女の子には、大好きな家族がいました。

 それは、1匹の、大きくて頼りがいのある犬と、1匹の、やんちゃで家族思いな猫でした」

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