夏の夜釣りは頭蓋が釣れる。

七八

第1話





 室外機の隣が、僕の定位置だった。


 百均で買った灰皿は、もう腹一杯だと悲鳴をあげているけれど、もう一本くらいは許容してくれよと吸い殻を捩じ込んだ。あと、十本はいける。


 風呂場からのお下がりの、プラッチックの椅子に腰掛けながら、僕は竿を振る。

 隠語じゃない。

 どこぞで拾ってきた木の棒の先に、釣り糸を結んだ手製の釣り竿だ。


 錆びた柵の向こう側に糸を垂らして、何かが釣れた試しなんて一度も無い。けれど、馬鹿みたいな酒をあおりながら、煙草を片手に糸を垂らしているこの瞬間は、とてつとなく有意義な時間に思えたんだ。昔からの、僕のただ一つの、趣味だった。



「お前、まだこんな事してるンな」



 からからと笑い声が聞こえて隣を見ると、えらく懐かしい顔が見えた。

 だから僕は、いよいよ夢の中でまで無益な釣りに興じる様になったのかと、溜息を溢した。



釣果ちょうかはどうよ」


「チョーカー?」


「釣りの具合はどうですかって事よ。お前釣り人なのに知らないの?」



 また、からからからりと笑う。

 ベランダから糸を垂らしている僕は、果たして釣り人なのだろうか。

 そもそも、何かが釣れると、思っているんだろうか。

 ツッコミどころが多すぎて、頭が追いつかない。



「その様子じゃ、なンにも釣れてないみたいだな」


「釣れると、思ってるの?」


「釣れる釣れる」



 やっとのことで口から出た言葉は、すんなりとかわされてしまった。ひょいと、乗り越えるみたいに。なんて身軽なヤツだろう。

 名前は何だったか、見覚えだけはあるくせに、僕はそいつの名前が分からない。

 けれどまあ、夢なんだから、そんなものなのかもしれない。

 考える事を早々に諦めた僕は、ズボンのポケットをまさぐった。



「ちょっと、煙草やめろよ」


「僕の家なんだけど……」


「ンな事どうでも良いよ」



 夢の中でさえ、喫煙者の肩身は狭かった。

 項垂れる僕をよそに、旧友は僕の隣にしゃがみ込む。



「椅子、使う?」


「いいよ。ほら、俺のも、あるから」



 煙草は許してくれないくせに、便利な四次元ポケットは存在するらしい。

 何処から取り出したのか、旧友の傍には、僕の座っているものと同じ椅子があった。

 風呂場からのお下がりの、プラッチックの椅子だ。


 そいつに気を取られていると、また独特な笑い声が聞こえる。

 からからから。

 変な笑い方だ。そう思いながら視線を戻すと、彼の手には、いつの間にやら。釣り竿が握られている。

 まるで、手品みたいだ。



「なんだよそれ、えらく立派だな」


「いいだろう。高かったンだぜ」



 釣り竿の良し悪しなんてわからないけれど。

 確かにそいつは、値が張りそうで、つやつやしている。加えて、ごついし、重そうだ。

 ベランダ釣りにそんな本気を出すなんて、こいつはえらく頭のおかしいやつだ。



「俺は大物を釣る気なんだ」


「ごめん。ここ、大物が釣れるポイントではないと思うよ」


「そうか?」


「うん。もっとほら、海とか、川とか。行った方が良いと思うんだけれど」


「そりゃあそっちの方が良く釣れるだろうよ。でもここには、ここでしか釣れないものがあるンだよ」



 分かってないなぁ、みたいな顔をしてから。旧友は竿を振った。

 ベランダでそんなに大きく竿を振るなんて、器用なもんだと感心してしまう。

 彼はベランダ釣りのプロなのかもしれない。

 だとしても、釣れるものなんて、下階の洗濯物くらいのもんだろうに。



「もしかして、下着泥棒の常習犯だったりする?」


「そンなチンケな事はしたこたぁねぇなあ」


「それは良かった。警察の出番だろうかと、少し考えてしまったよ」


「くだらない事言ってねぇで、お前もちゃんと釣れよ」



 だから、張り切った所で釣れるのは洗濯物くらいだって。

 そうしたら僕は立派な泥棒になってしまうじゃないか。

 それは、遠慮しておきたい。

 そもそも、僕の釣り糸の先には針もついていない。

 引っ掛けるものがないのだから、釣れ様もないのだ。

 それでも、彼がえらく真剣に言うもんだから。僕は「ほどほどに頑張るよ」なんて、当たり障りのない返事をして、お茶を濁した。



「なあ、覚えてるか」



 しばらく竿の先を眺めていると、旧友が口を開く。

 旧友らしく、昔話でもするつもりなんだろうかと思っていると、そいつは続けて「お前、小六まで寝しょんべんをしてくれたよな」と爆弾を投げ付けて来やがった。



「なんで知ってんの……?!」


「いやあ、あれは迷惑極まりなかった」


「僕のお漏らしの何が迷惑だったの……?!」



 どういう間柄なら、僕のお布団事情に関与する事ができるんだろうか。

 必死に名前を思い出そうと頭を捻ったけれど、かすりそうな名前がひとつもない。

 至極楽しそうに、からから笑う旧友は、確かに旧友に違いないのに。

 事実僕は、小学六年生まで、寝しょんべんをかましていたんだから。



「黒歴史晒すために、夢に出て来たの?」


「いンや、夜釣りをする為だろ?」


「釣れっこないから、帰ってよ」


「何を言うんだ、釣れるって」


「釣れないよ……!!」



 恥ずかしさから思わず叫んでしまったのに、彼はまるで動じない。

 それどころか、ちょっと馬鹿にしたような目で僕を見てくる。


 こうなると煙草を吸いたくて仕方がなくなるんだけれど、それは禁止されている。

 僕に出来る事は、溜息を溢すくらいのものだ。


 これ見よがしに「はあああ」と息を吐いてみたのと、彼の持つ釣り竿がビクビクと動いたのは、すっかり同じタイミングだった。



「え、嘘だろ……?!」


「おっし、きたきたきたきた……!!」



 旧友は立ち上がる。

 ビクビクに合わせるように、竿を一度大きく振ると、それからはぐるぐるリールを巻いた。



 コイツ、マジもんの下着泥棒だ……!!



 僕は居ても立っても居られなくて。自分の竿を置いて、立ち上がった。身を乗り出して、柵の向こうの、その下を覗き込む。


 不思議な事に。一寸先は闇と言わんばかりに、糸の先は闇に包まれていた。


 真っ暗な海に糸を垂らしているみたいに。本当に釣りをしているみたいに、見えやしないんだから。僕は驚いて、覗き込むのをやめた。



「おい! タモはねえのか?!」


「ないよ! そんなもん……!!」


「しゃあねぇなあ……! おし、上げンぞ!!」



 しかし変な喋り方をするやつだなぁ。

 僕があんぐり口を開けている間に、何かがぴゅうと宙を舞う。


 ぷらんと僕の目の前に吊るされたものは、一足の靴だった。



「なんだ、お前のくせえ靴かよ……」



 くせえ靴って、失礼だな、とか。

 なんで靴が釣れるんだよ、とか。

 ツッコミどころは四方八方にあったけれど、やっぱり僕は呆気に取られてしまって、言葉を返す事が出来なかった。


 旧友は苛立った様子で針から靴を外すと、僕に向かって投げ付ける。

 避ける気力もなくて、ぺちんと僕の足にぶつかった靴は、確かにいつか履いていた記憶のある僕の靴だ。



 ――夢、だから。



 ベランダ釣りでも、釣れるんだ。

 そう思うと、僕はちょっと楽しくなってしまった。

 椅子に座り直して、僕の竿を手に握る。

 どうせ夢なら、僕の釣り竿だって立派にしてくれたって良かったのに。



「……なんだよ、俺の竿はやらねえぞ」



 どうやら、物欲しそうに見てしまっていたらしい。

 でも、仕方がないじゃあないか。釣れるとなれば、俄然すごいつりざおが欲しくなるもんだろう。



「なんで、そんな立派な釣り竿もってるの?」


「そりゃあ俺がさ、一生懸命に働いたンだよ」


「僕も相当働いたよ。貯金はそこそこあるんだ」


「俺はさ、そうして貯めた全財産をコイツに注ぎ込んだわけよ」



 そりゃあびっくりたまげてしまった。

 ベランダ釣りの為に全財産を使ったのかと思うと、僕はこのしょぼいつりざおで良い気もしてくる。



「こんな日の為に、俺あ必死に働いたわけだからさ」


「こんな日ってどんな日だよ」


「お前とか、母ちゃんとか、父ちゃんと釣りする日だろ」



 この旧友にとって、僕は父母と並ぶほどに大切な友達だったのだろうか。

 それより。僕や父母と一緒に釣りをする為の竿を買うよりも、もっと有意義なお金の使い方があっただろうに。

 

 すごく腑に落ちなくて、渋い気持ちになっている間に、旧友はもぞもぞと椅子に座り直していた。


 そうして尻を落ち着けてから、竿を揺らして、彼はまた煩い口を開く。



「なあ、覚えてるか」



 この会話の始まり方は、嫌な予感しかしなかった。



「お前がさ、ほら。中学に入った頃だよ」


「……布団は毎日カラカラしたもんだったよ」


「違う違う。寝しょんべんは小六までだから」



 そう、小六までだから。

 もう僕に隠したい過去なんてない筈だ。どっしり構えて居ればいい。だってのに、僕はなんだか背中に冷たい汗が伝うのを感じてしまったんだ。



「ほら、好きなメスが出来ただろう」



 どういう教育を受ければ、女の子の事を雌なんて言う事が出来るんだろうか。

 母ちゃんと父ちゃんの顔を見てみたくなってしまったけれど、それよりもこの話は、何処へ繋がる?


 先回りをして黒歴史を探してみたけれど、見当もつかない。



「とりあえず、女の子でお願いしていい?」


「オンナノコ、出来ただろう?」


「まあ、うん。ハイ」


「結局、その年のバレンタインにチョコが貰えなかったか何かで、お前は諦めた」


「うん、諦めたね」



 お? 黒歴史にしては弱いぞ?

 僕は少し、嬉しくなった。そうだろうよ。僕に突かれて痛いところなんて、もうそんなには無いはずだ。



「そンでその夜、お前は泣いてたよな」



 なんで泣いているのを知っているんだ?



「でさ、言ってたよな。僕はもう一生童貞なんだーーーーってよ」


「いやいやいや、まって、それ」


「どうよ、童貞卒業出来たンか?」


「ああああああああああああああああ!!!!」



 歴史じゃない! 今の俺に対しての口撃か……!!


 竿をほっぽり出して掴みかかってやりたかったけれど、僕は生まれてこの方喧嘩なんてした事が無い。

 だから叫ぶ程度に留めて、立ち上がって、三回回って、座って、頭を振って、立って、四回回って、もう一回叫ぶ程度に留まった。



「うあああああああああ!!!!」


「うるっせえなあ」



 心底嫌そうに片手で耳を塞ぐけど、僕の方が耳を塞ぎたい。

 どうしてそんなに、非情な事を言えるんだろうか!

 どうしてそんなに、あっけらかんと! 無遠慮に! 人の下事情についてばかり! 話すんだろうか!



「信じられないよ……!!」


「その様子じゃあ、まだだな」


「うるっさいなあ!」


「気にすンな、俺も童貞だ」


「いや、知らないよ……! 興味ないよ……!」



 なんでちょっと嬉しそうなんだよ……!

 ――本当に、信じられなくて。ちょっと落ち着こうと、椅子に座り直す。

 本当にいよいよ煙草を吸いたくて。ポケットに手を伸ばしたのと、旧友の竿が引いたのは、ぴったり同じタイミングだった。



「おっ、来たぞ……!」



 そうすると、可笑しなもんで。彼は酷く真面目な顔をする。

 真剣な面持ちで竿を揺らして、釣れた獲物を逃がさないようにしっかり針をかけたら、ぐるぐるとリールを巻く。

 あんまりにも真剣なもんで。僕は悪態を吐くことも、煙草を吸う事も忘れて、ただただ見守った。



「ほら、――っよっと」



 ばしゃんと、水面を叩く幻聴が聞こえるくらい、真剣だった。

 緊張感のど真ん中にぷらんと吊り下げられたのは、一冊のノートだ。



「なんだよ、お前の汚ねえ落書き帳か」



 汚くて悪かったな。

 先と同じで、彼は針からノートを外すと、僕の足に向かって投げ捨てた。

 ばさりと捲れたページは、確かに汚ねえ落書きで埋め尽くされている。



「あ、懐かしい。なんか、架空のモンスターとか描いて遊んだよね」


「知るか、そンなくだらねえ遊び」



 一蹴しながら、彼はまた竿を振った。

 冷たすぎて、少し涙が出そうになった。



「じゃあ、一体全体、どんな遊びをしたっけね。僕たちは」


「そんなもんは、決まってンだろうよ」



 片方の手で、照れ臭そうに鼻の下を擦りながら。

 旧友は少し上へ視線をやって、懐かしむみたいな素振りをみせる。



「例えば、ほらな。ひらひらしたやつがあるだろうよ」



 何の事だろう。

 ヒラヒラしたやつの心当たりが無さすぎて、僕は首を傾げる。いや、本当に心当たりが無い。



「そのひらひらしたやつをな、ボコすんだよ」


「ボコすって何……?」


「こてんぱんにしてやるンだよ。お前はほらさ、なっさけねぇやつだから見てるだけだったけど」



 この旧友は、不良か何かなのだろうか。

 そんな友人が居たためしはないのだけれど。

 実は友人ではなくて、級友程度のもので、コイツが勝手に僕の事を心の友だとでも思っているんだろうか。



「とっ捕まえて、ボコボコにしてやったよな。お前はへらへら笑ってたくらいなモンだったけどよ」



 これ以上突っ込んで聞くのは恐ろしかったので、僕は竿を握った。釣りに興じる事にした。関わり合う事を放棄した。コイツは、やべえやつだった。



「ところでお前の竿はうんともすんとも言わねえな」


「……そんなもんだと思いますよ」


「そんなもンか」


「ええ、はい。……まったく、ハイ」


「じゃあもういいよ。お前は、酒でも飲んでな」


「酒なんて、何処にありますかね」



 それより、煙草を許して頂きたいものだなぁ。

 なんて、ぼんやり考えていると、彼は「隣にあるだろ」と呆れたように吐き捨てた。


 見れば確かに、室外機の前にクーラーボックスが鎮座している。

 いつから、あったんだろうか。

 首を傾げながら蓋を開けると、頭の悪そうな飲み物が、みっちりと入っていた。



「え、今はじめて夢に感謝したんだけど」



 飲み放題じゃん。

 一本手に取って、竿なんてほっぽり出して、タブをあげる。

 喉を鳴らしてごくごく飲み下してみると、なんと、味さえもあるのだから驚きだ。夢のくせに。



「え、……のむ?」



 名前が分からないので、呼びかけは出来なかったけれど。

 自分だけ飲むのも忍びない。勧めてはみたけれど、彼はまた、呆れた様子で竿を揺すった。



「俺はなあ、やめたんだ」



 何か酒に失敗でもあるんだろうか。

 そうともなれば、是非とも暴いてやりたいところだ。

 人の傷口を散々弄くり回してくれたんだから、お返しをするべきだろう。



「何か失敗でもしたの?」


「ああ、まあ……、とンでもねえのをなあ……」



 どんなことさ、なんて促さなくても、彼は続きを口にした。

 まるで聞かれるのを待ってましたと、言わんばかりに。



「ほら、お前の部屋でさ」


「僕の部屋?」


「ああ、酔っ払って暴れた事があっただろうよ」



 全くもって記憶に無かった。

 夢だから、思い出せないなんて事もあるんだろうか。

 だとしても、不思議なくらい、記憶に無い。



「大暴れしてさ、ふすまというふすまを全部まとめて穴ぼこにしたよな」


「いやいやいや、何してんの」


「母ちゃんに怒られてさあ……。そっから俺はなんにもやらねえんだ」


「そうだね。それはもう、お酒は飲まない方がいいよね」


「お前も、ぎゃんぎゃん泣いてやがったしなぁ」



 そうして、彼は懐かしむみたいに、遠くを眺める。

 その横顔は、どうしようもなく幸せそうで、少し驚いてしまった。

 ぶっきらぼうな喋り方で、けれども僕のことは本当に親しく思ってくれているんだろう。

 僕に、そんな友人は居ただろうか。


 小学生時代の僕の布団事情に明るくて。

 中学生時代の失恋を知っていて。

 ――童貞。

 ひらひらしたやつをボコボコにするのが好きな遊び。

 僕の部屋のふすまを、破き散らした。



「え、ちょっと待ってよ……」



 心当たりなんて、ひとりしか居なかった。

 ひとりと言うか――、



「ン……、まてまて、これは来たンじゃねえか……!!」



 僕が、……聞こうとしたのに。

 それを遮るように、旧友が立ち上がる。

 また、慎重にタイミングを合わせて、ぐいと大きく竿を振る。そうすると、竿が大きくしなって、下を向いた。

 くせえ靴や、汚ねえ落書きとは段違いに。大きく大きく下を向く竿の先には、きっと大物がいるに違いない。



「俺あ、こんな日がさ、来ちまったらどうしようって。ずうっとお勤めして来たわけよ」



 つうと、彼の頬を汗が撫でる。

 それを見た途端に、だ。急に、辺りの空気がひんやりと、冷たくなった気がした。

 やけに早く、心臓が音を立てる。

 苦しくて目を瞑ったけれど。それを邪魔するみたいに、目の前がちかちかと光った。


 うっすらと覗き見ると、辺り一面が無数の小さな光に照らされている。


 まるで、蛍のような。

 星みたいな。


 砂粒みたいな光は、上にも、横にも、下にも、全部に散りばめられている。


 とても幻想的な光景なのに。見てくれと、口から溢れてしまいそうになったのに。

 僕は、何も言えずに、旧友へ視線を戻した。

 彼はやっぱり、必死に、糸の先の何かと格闘している。

 それこそが自分の生きる意味だと言わんばかりに、鬼の形相で、リールを巻いている。


 美しい光景よりも、僕は、恐ろしい旧友ばかりを眺めていた。



「よしよしよし、……おい、上がるぞ!!」



 その声が早いか。竿がぽうんと跳ね上がり、白いものが宙を舞う。

 僕の目の前に吊り下げられたものは、白くて、つるっとしていて、それでいてがさがさしていそうで。からからの、頭蓋骨だ。





「――ああ、良かった」





 ――次に僕が目にしたものは、白い天井だった。

 僕は、ごわごわの布団に包まれていて。腕には点滴が繋がれていた。


 これじゃあ、まるで。

 大きな釣竿に、釣り上げられているみたいだ。


 夢の中の、アイツは。顔もまるで思い出せない。

 けれど、目の前に吊るされた頭蓋骨だけは、鮮明に覚えている。



 カレンダーの日付は、八月十五日。



 世間が休みの日でも、僕はあの日仕事に向かっていて。

 やけにぴかぴか眩しいお天道さまから逃れるみたいに、喫煙所に入った。

 風だけはめっぽう気持ちが良くて。釣りがしたいなあと、ぼんやり思ったところまでは覚えている。

 僕の釣りと言えば、もっぱらベランダ釣りであるから、屋上にでものぼったんだろう。



 ――ああ、良かった。



 声音さえも覚えていないのに。

 その言葉だけは、耳にこびりついて離れそうも無い。

 何か重大な事を成し遂げて、心の底から安堵したような。そんな、声だった。


 彼は、確かに僕の、旧友だった。


 それに、誰より大事な、兄弟だった。


 じんわりと視界が滲んで、世界がぼやけて見える。

 色んな感情が押し寄せてきて、もう、収拾がつかない中で。それでも、は、ひとつだけ、心に誓ったことがある。



 たばこ、やめよう。



 俺の小さい兄貴分は、あのにおいが、何よりも嫌いだったから。






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