10_#2



「蛭間さんっ」

「なんだか君はいつも慌てているね」

「言ってる場合ですかっ。とにかく来てください」


 特殊鑑識班の研究棟に続くエレベーターが開くと同時に、研究員・押野おしのたくむが待ってましたとばかりに現れた。いつも目立っている寝癖はさらにひどく、彼の目の下にはくっきりと隈ができている。押野は蛭間の腕を多少強引に引っ張りながら、研究室へと向かった。


 『研究室 - C』というプレートが掲げられた部屋の前まで移動し、中に入る。室内には十名にも満たないほどの研究員がパソコンと睨み合っていたり、薬品の調合や資料作成を行なっていた。皆押野と同じように、髪は乱れ疲弊した表情だった。

 「こっちです」と通されたローテーブルに蛭間は腰をかけて座ると、押野はそのまま早足で近くのデスクまで移動する。一冊のファイルとノートパソコンを取り出し、蛭間の向かいの席に座ると、パソコンを開いて操作を始めた。


「河内奏太の件について、蛭間さんに見てほしい映像がありまして」

「映像?」


 タッチパッドを操作しながら押野は、ノートパソコンのディスプレイを蛭間の方に向けた。開かれた動画ファイルの中央には再生ボタンのアイコンが表示されており、押野がエンターキーを押すことで動画の再生が開始される。


「河内奏太から採取した肉片を顕微鏡で捉えた観察映像です。この薄い紫色をしているのがM細胞ですね」


 球状の体の四隅に生えた短い突起と、内部で接合している大小一つずつの球体、そしてそれらに糸を通すように繋がり、コイルのように一部が複雑に絡まっている紐状の細胞。顕微鏡内には、無数のM細胞が捉えられている。


「これは……」 


 五秒ほど経ち、観察映像の様子に蛭間は目を細めた。M細胞がボコボコと急激に分裂、増殖したその直後に、それらが泡のように弾けてみるみるうちに消失していったのだ。その後もM細胞は不規則に増殖しては消え、また勢いよく増殖しては弾けて消える、という現象を繰り返していた。


「妙だな」

「ええ、ええそうでしょ。とてつもなく妙でしょ」


 三十秒ほど続いた動画は、全てM細胞の増減現象を記録したものだった。再生が終わったタイミングで、押野はテーブル越しに前のめりになる。


「M細胞は増えることはあっても、減るなんてことはありえない……こんなの今まで、初めて見ました」

「一度M細胞が分裂を始めて増殖すれば、増殖の際の刺激が近接したM細胞に影響して連鎖反応を起こし、爆発的な増殖を招く……確かそんなようなことだったかな」

「はい。頻繁に、M細胞は火薬、M細胞の増殖は着火と例えられます。一度火がついて一箇所でも爆発が起きれば、どんどん誘爆する。それと同じように、人間のM細胞は身体中に存在してるので、一回でも体のどこかのM細胞が増殖すれば、全身を蝕み暴人化して、死ぬまで増殖は終わらないはずなんです」


 蛭間は腕組みをしながら口を開いた。


「彼の体内で異常が見られたことは確かなようだね……河内奏太が、首を注射器のようなもので刺されたと証言していたのを覚えているかい?我々はその際に何らかの薬物の投与がされた可能性を睨んでいるんだが……それについて、何か分かったことはあるかな」


 押野は栗色の癖毛をわしゃわしゃと掻き乱し、難しい顔をした。


「僕、薬物はけっこう詳しいですけど。正直M細胞をこんなにめちゃくちゃに操作する薬物なんて聞いたことありませんよ。ましてや暴人化前の状態に戻すくらいM細胞のはたらきを抑える薬物だなんて。暴人くんの死体から薬物の反応は見られなかったんですけど、なにせ運び出した時には死体がすでに腐ってぼろぼろに崩れてしまっていたので、正確さには欠けます」

「特に分かったことは無し、か」

「ああ、待ってください。でも……」


 押野はそう言うと、ファイルから一枚の紙を取り出した。白黒に印刷された紙に、何やら細かく書き込まれている。紙を蛭間の方に向けて差し出した。


「これこれ。見てください。蛭間さんが採取した河内のサンプルを使ってもう一度DNA鑑定にかけた結果なんですけど……」


 見たことのない専門用語や英語がびっしりと書き連ねられた資料に、蛭間は首を傾けた。押野は白衣の胸ポケットに刺してあったボールペンを一本取り出し、出ていないペン先で資料の中の一項目を丸く囲んだ。


「河内の体内から、全く別人のDNA型が検出されたんです」


 押野の予想外の言葉に、蛭間は金色の瞳を僅かに見開いた。


「河内の体内に注入されたのが、そのDNAだと?」


 一呼吸おいてそう尋ねた蛭間に、押野は悩ましそうに唸る。人差し指でこめかみをぐりぐりと押している。


「確信は持てないですけど。それに、脊椎動物であるヒトは移植免疫を持っているので、他人のDNAを移植したところで拒絶反応を起こすんです。あっでも、まあ一応、ヒトキメラってのはあるんですけどね?でも今回はそれは考えられないし……仮に移植が可能であった場合でも、M細胞のはたらきをあそこまで変容させるDNAなんて存在するのかという疑問があるし、ああ、ていうかそもそも、DNAにそんな影響力があるかどうかは……」

「ありがとう、もう大丈夫だよ」


 片手の掌を押野に向けて黙らせた蛭間はそのまま手を顎に添えると、顔を上げた。押野は相当疲れているようだ。


「つまり、『河内奏太の体内での異変は、検出された謎のDNAが影響している可能性が考えられるが、前例がない未知な部分が多いため詳しくはわからない』。そういうことでいいかな」

「え。あっハイ。そうですね、すみません」

「ご苦労さま。……差し当たって、我々は何をすればいいかな?」


 少し反省したように俯く押野に、蛭間は微笑みながら、組んでいた足を解いて膝の上で手を組んだ。押野は上目遣いで蛭間の様子を伺うと、視線を空中に泳がせて考えながら口を開いた。


「リビングデッド殺人事件の犯人……"生ける屍くん"でしたっけ?彼らが、みんな河内奏太と同じ境遇だったとしたらの話ですけどね。彼らのサンプルを提供して欲しいです。もし彼らから河内と同じ謎のDNA型が検出されたら、彼らのM細胞を脅かしてるのがそのDNAの仕業だっていう確信が高まるかもなんで。……うーんでも、そんな神話じみた話あり得るのかなあ」

「神話?」

「僕の界隈では有名な話です。ある日村に一人の男が現れるんですけど、彼の血を飲んだ暴人がたちまち人の姿に戻ったっていう。もちろん神話なので、作り話でしょうけど」


 蛭間は目を細めて笑った。


「そんな血が本当にあればいいけどね」

「まあ、そうですけど」



でもこの話、続きがあるんです。そう言って、押野は続けた。


「初めのうちは村の人々は男を歓迎し、神様と崇めて大切に扱っていたんです。でもみんなが男の血を欲しがるあまりに、村の人たちは争いながら、我先にと乱暴に男から血を奪うようになるんです。それである日、ついに村人たちはその男を殺してしまう」


「殺された男の正体は下界に降り立った神様で、欲をかいて自身の血を奪った人間と、私欲のために他人を傷つけてまで血を手に入れようとした人間に天罰を下し、その命を奪っていったんです。結果、村人の大半が死んで村は滅び、おしまい。作り話とはいえ、救いようのない結末ですよ」

「人間の愚かさを嘆いたような物語だね」

「昔の人は、神とか超常現象の力を使って教訓を唱えていたんでしょうね。実際に、本当にそんな血を持つ人間が存在していたとしても、根本を断たない限り世の中は良くならないと思うんです」


 研究室の棚に飾られたアクアリウムに視線を泳がせながらそう語る押野は、いつになく真剣な様子だった。蛭間はふと視線を伏せ、腕を組む。


「ふっ。なんだ、君はもっとひねくれてると思ってた」

「あ〜っそれ、絶対褒めてないですよね。でも僕は真剣ですよ。M細胞の分裂及び増殖を根本的に止めることこそが、人類の最たる課題です。河内の体に入れられたものがどんなものかは現状謎ですけど、この事件、ヤバそうなんで絶対に食い止めないと。これ以上被害者を出したくないですし」

「私もそのつもりだよ」


 蛭間は立ち上がり、肩に浅くかかったジャケットを深くかけなおした。


「人を殺し続け生きるのを選ぶか、人を殺さず苦しみながら死ぬか」

「え……」


 アクアリウムを泳ぐ淡水魚に視線を向けた蛭間の横顔を、押野は見つめる。


「君ならどっちがいい?」

「何です急に……今日の蛭間さん怖いんですけど。あ、いつものことか」


 同室の研究員によると、押野は研究室から出る蛭間の姿が見えなくなるまで頭を上げなかったという。


* * *



 



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