Sample:08『潜伏者』

 Sample:08『潜伏者』



 ~用語解説~


【暴人(ぼうと)】

 人間の体内に潜伏する細胞(M細胞)の爆発的な増殖により、理性を失い凶暴化した人々。その現象はしばしば「暴人化」と称される。


【M細胞】

 暴人化の原因になる、人間の身体中に微量に点在している細胞。別名「潜伏性狂気細胞」。一度分裂を起こすと爆発的に増殖する性質があり、体内の細胞をも喰らい尽くしやがて死に至らしめる。分裂の原因は未だ解明されていない。


 ~組織・人物紹介~



【真実也 基 (まみや はじめ) 巡査】

 警視庁公安部 暴人課 特殊対策班の新米警官。


【蛭間 要(ひるま かなめ)警部補】

 蛭間特殊対策班 班長。物腰柔らかだが掴みどころのない性格。


【安田 整一(やすだ せいいち)警部】

 安田特殊対策班 班長。最近、新米警官の教育に手を焼いている。


 ─────────────────────────────




『BLACK OUT~蛭間特殊対策班~』



 Sample:08



『潜伏者』




 *




 警視庁捜査一課の狭い廊下を、真実也は人を避けながら進んでいく。その少し前には蛭間が、先頭には安田が慣れた足取りで歩いていた。暴人課の人間が滅多に立ち入ることがない捜査一課の光景に、真実也は物珍しさから視線をあちこちに移す。


「聞いたぞ蛭間ァ、お前犯人の喉を踏んづけたんだってな。死んだらどうすんだよ馬鹿野郎」

「暴人は丈夫なので、ある程度は平気かと」

「ったく、俺が怒られんだよ。次から気をつけろ」

「善処します。そういえば、能木巡査はどうされたんです?」

「……オフィスに置いてきた。被疑者そっちのけでお喋りされちゃあ、たまったもんじゃねぇ」


 少しでも油断すると、忙しなく行き交う警官たちの波にさらわれる。会話を交わしながらすいすいと進んでゆく蛭間、安田の後を、真実也は見失わないようについて行った。


 廊下の角を曲がる度に、人数が減っていく。何度目かの角を曲がれば、やがて静まり返った廊下に出た。天井に心許なく点灯する蛍光灯の明かり以外に廊下を照らすものはなく、少し仄暗い通路の突き当たりには、重厚そうな扉と一人の男性警官が佇んでいた。男は安田達に気がつくと、片手を挙げて左右に振った。


「あっ来た来た。おうい、安田さんこっち」


 安田はおう、と短く返事をすると、扉の前にいる男へ歩み寄った。黒髪を後ろで束ねた40代ほどの男警官は、首の後ろを擦りながらへらへらと笑っている。


「取り調べ室の使用許可、無事取れましたよ。いやぁ〜運が良かった」

「ご苦労だったな」

「はいコレ鍵。被疑者はもう室内で待機してるそうですよ。後はご自由に」


 男は胸ポケットから取り出した黒いカードキーを安田に手渡すと、蛭間と真実也に視線を移し、「どうも」と気の抜けた笑顔を見せた。真実也と目が合うと、男は蛭間や安田とは違う雰囲気を察したのか、タレ目を細めて笑った。


「新人なのに大変だねぇ〜暴人課ってのは。ま、事情は知らねぇが頑張れよ」

「は、はいっ」

「おい南雲、用が済んだらさっさと仕事に戻れ。ここから先は極秘だ」


 安田に釘を刺されても尚ヘラヘラと軽い調子の男警官は、首の後ろを擦りながら答えた。


「へいへい。あ、終わったらオレに連絡くださいよぉ。鍵無くしたらオレが怒られちゃうから」


 それじゃあ、と手を振りながら、男は三人の間を通って歩いていった。しばらく男の背中を追っていた真実也は、振り返ると扉の横の「捜査一課取調室」のプレートに視線を移す。


「蛭間班長。暴人課でではなく、なぜ一課の協力を得てまでここの取調室を使うのでしょう?」

「おや、知らないんですか?暴人課には取調室が存在しないんですよ」


 少し驚いた様子で目を開く真実也に、蛭間は続けた。安田はカードキーを扉横の機械に差し込み、ポケットから取り出したメモを読みながらパスワードを入力している。


「今回のように、暴人自らが引き起こした可能性がある事件というのは前代未聞です。取り調べを含む犯罪捜査は基本的に刑事の仕事なのですが……事件に暴人が関わっている以上、暴人を専門的に扱っている我々暴人課が、その事件を担当しなければならないのです」

「そ、そうなんですか……これほど世間を騒がせている凶悪事件なら、捜査に慣れている一課と協力して捜査をした方が効率が良いと思うのですが」


 真実也がそう言うと、蛭間は人差し指をピンと突き立てながら、幼い子どもに言い聞かせるような口調で答えた。


「おや真実也君、それはいけません。我々暴人課は“一応”公安部。暴人に関する情報はすべて、トップシークレットという名の最高機密であるからして……」


 扉を数回ノックする音で、蛭間は言葉を止めた。


「白黒コンビ。いつまでぺちゃくちゃ立ち話してんだ、開いたぞ」


 開いたドアから顔を出した安田は、不機嫌そうな表情を更に濃くしかめて言った。





 *




 取調室の中は透明な壁を隔て、待機所と取調室の二つの部屋で構成されていた。真実也達がはじめに入った広さ六畳ほどの縦長の部屋には、資料が並んだ本棚とパイプ椅子が数台置かれている。パイプ椅子は部屋の左手一面に広がる透明な壁に沿うように備えつけられた、腰程度の高さのカウンターテーブルに向かい設置されている。隣の部屋の様子を座りながら観察するためのものだと、すぐに察しがつく。


「お目覚めのようだね」


 左手奥の部屋が、どうやらメインの取調室のようだ。天井には見たことがない青いLEDの照明が取り付けられていた。中央に置かれた正四角形のテーブルと、向かい合うように設置された二台の椅子。蛭間は、奥の椅子に腰をかける、砂埃で汚れた眼鏡をかけたまま俯く一人の青年──河内奏太を見ながら微笑んだ。

 銅像のように動かない彼だったが、よく見ると不規則に肩が浮き沈みを繰り返しているのが分かった。麻酔が切れた直後だからなのだろうか、精神的なものなのか、手足を拘束されているにも関わらず、朦朧とした様子で抵抗する素振りは見せない。


「真実也君」


 呼ばれると、真実也は姿勢を正し威勢よく返事をした。蛭間は「お座り」と真実也に微笑みかけながら、隣の空いた椅子を指差した。促されるまま真実也が椅子に座ると、年季の入ったパイプ椅子がギチ、と音を立てて軋んだ。


「安田警部殿では、被疑者を怖がらせてしまうでしょうねぇ。私が先に行く許可を頂けませんか?」

「喉を踏みつけて殺しかけた奴が何言ってやがる。はぁ……まぁいい、ただし安全第一で行けよ。拘束しているとはいえ、何しでかすかわからねぇからな」

「ええもちろん」

「殺すんじゃねぇぞ」

「ええ、ええ」


 懐から出した愛銃、“Logan”を片手の指で器用に回して安田にひらひらと見せつけた蛭間は、再びそれを懐にしまうと、安田からファイルとインカムを受け取り取調室に入っていった。


 透明な強化ガラス越しに、蛭間が取調室の部屋中央まで歩み寄るのが確認される。真実也と安田は椅子に腰を下ろし、その様子を見守った。ドアを閉める音にようやく反応し顔を上げた河内奏太は、蛭間を一目見るなり酷く脅えた様子で声を上げた。眼鏡をかけた人の良さそうな、素朴な印象の青年だ。真実也は河内奏太の瞳を凝視するが、瞳孔の散大は見受けられない。頬に残った傷口から出ていた黒い血液は、すっかり固まっていた。捕まえた時は確かに瞳孔が開いていたはずだ。真実也は訝しげに首を捻った。


「そんなに怯えないで。君が大人しくしてくれさえすれば、手酷いことはしません」


 感情の読めない笑顔を向けながら、蛭間は静かに椅子に座った。髪を右耳にかけるふりをしながらインカムを装着する。イスの軋む音に、河内奏太はまた酷く怯えた。


「聞きたいことはたくさんあるから、一つずつ質問していくよ。確認のためまず一つ」


 静かに話し始めた蛭間の声には、相変わらず抑揚が無い。

 次の瞬間、蛭間はいきなりファイルを机に叩きつけた。河内奏太(待機していた真実也も)の肩がびくりと跳ね、声を上げて怯えた。


「君は河内奏太さんだね?」


 愛想の良い、しかしどこか貼り付けたような笑顔で足を組みながら問いかける蛭間に、河内奏太は今にも泣きそうな顔で震える唇を噛み締めた後、ゆっくりと頷いた。蛭間と目が合ったのか、河内奏太は後ずさろうと必死に抵抗し、椅子がガタガタと部屋に鳴り響く。一方待機室にいた真実也は、蛭間の謎の行動に困惑していた。


「どうしてファイルを叩きつけたんですか……?」

「やりてぇだけだろ。あのドS野郎」


 そう言って安田は呆れたように舌打ちをした。真実也は未だ静まらない心臓の鼓動を抑えながら、静かに取調室の方へ向き直った。蛭間は机の上で手を組みながら口を開いていた。


「質問その二。単刀直入に聞こう、西区繁華街でホームレスと女子中学生を殺害したのは、君か?」


 蛭間の声に、河内奏太は明らかに動揺している。呼吸は荒くなり、視線は泳ぐ。


「お、俺は……僕はただ、生きたかっただけ──」

「質問の答えになっていないが?」


 彼が言い終わる前に言葉を被せた蛭間は、態度や口調こそ穏やかなものの、その低い声はえも言われぬ威圧感を放っていた。河内奏太は乾いた息を飲み、体を強ばらせる。『生きたかっただけ』。彼の発言に真実也は違和感を抱く。生きたかったから殺した、という言い分は、言い訳にしてもあまりに不可解である。


「ホームレスと女子中学生を殺害したのは、君かい?」

「そ、それは……はい」


 もう一度質問を繰り返した蛭間により、河内奏太はようやく口篭りながら頷いた。ガラス越しからでも伝わる妙な緊迫感に、真実也も自身の背筋が伸びるのを感じた。


「犯行の動機は?確か君はあの時、『生まれ変われた』と言っていたね。どういうことか、説明して欲しいな」


 蛭間がそう切り出すと、取調室に数秒の沈黙が走った。様子を伺うように真実也が姿勢を屈めて河内奏太の表情を覗き込めば、彼は落ち着かない様子で、視線を左右に動かし続けている。蛭間は彼の答えを急かすことなく、ゆっくりと瞬きをしながら静かに待っている。


 実際は10秒にも満たない沈黙だったのだろうが、真実也にはそれが永遠のように長く感じらた。沈黙を破った河内奏太の声がガラスの壁を通り、くぐもった音となって聞こえてくる。



「……きっと僕が何を言っても、信じて貰えない」

「君の話を信じるか信じないかは、我々が決めさせてもらうよ」


 そう言った蛭間の声色は、先程と打って変わり優しさを含んでいた。蛭間を数秒見た後、河内奏太は観念したように俯いた。湿り気のあるため息を一つ吐く。


「まだ無くしていなければだけれど……僕の胸ポケットに、入っています」


 何がだ?真実也と安田は顔を見合せた。


「警戒して近づけよ、蛭間」


 インカムのスイッチを入れた安田は、蛭間に向かい指示を送った。同時に、無意識のうちに椅子から腰を浮かせ、立ち上がろうとしていた真実也の肩に手を置きパイプ椅子に押し付ける。


「お前は落ち着け」


 真実也は眉を八の字に曲げて、勢い良く安田の方を振り返った。


「安田警部!」

「心配すんな、面倒くせぇ。相手は手足を拘束されてんだぞ。警戒しろとは言ったが、俺はどちらかといえば、奴が変な抵抗をしてあいつに撃ち殺されないか心配なくらいだね」

「蛭間班長はそんなミスは犯しません!」

「あーうるせ、黙って見てろ」


 二人がそうしている間に、蛭間は立ち上がり河内奏太に接近していた。怯むことなく彼の隣まで距離を詰めると、「失礼」と一言声をかけてから、彼が着ているシャツの胸ポケットに手を差し入れる。

 真実也は顔だけを蛭間の方に向け緊張した様子で見守るも、河内奏太は反撃することはなく、間もなく蛭間は一枚の紙を人差し指と中指で挟んで取り出した。蛭間は安田を一瞥してから、折りたたまれた紙を広げた。B5ほどのサイズの紙だった。


 折り目が何度もついたことによって端が切れている紙に黒いフォントで印刷された文字を、蛭間は目で追う。取調室の青い蛍光灯が、蛭間の金色の瞳に反射する。俯きながら河内奏太は、堰を切ったように語り始めた。


「暴人化初期症状が出たので怖くなって人気の無いところに逃げたんです。そうしたら男が急に現れて……生きるか、死ぬか……みたいなことをぶつぶつ言ってきて」


 一息で言い切った彼は乱れる呼吸を調えると、今度は先程とは違い丁寧に話し始めた。


「僕もその時、必死だったから。『生きたい』って言ったら……首を、針みたいなもので刺されました。男が、『これで生まれ変われる』とかなんとか言って」


 言葉を紡ぐ度に恐怖が蘇ってくるのか、河内奏太は声を震わせながらゆっくりと息を吸った。


「そこから気を失いました。目が覚めたら、暴人化初期症状が消えてて、何ともなかったけれど……その紙を一枚、握らされていて」


 再び取調室は沈黙に包まれた。メモを読む蛭間の表情は読めない。 痺れを切らした安田が、インカムの電源を入れた。


「一旦戻ってこい」


 右耳を抑えて安田の指示を聞いた蛭間は、静かに取調室から退出した。


「その紙にはなんて書いてあった?」

「……理解、しかねます」


 こつこつと靴音を鳴らしながら安田たちに歩み寄った蛭間からは、いつもの笑顔は消えていた。真実也の隣のパイプ椅子に腰をかけると、カウンターテーブルにその紙を広げ、二人が読めるように差し出した。覗き込んだ二人は、その怪文書に目を見張る。



「……なんだこれ」


 考えるより先に、安田はぼそりと呟いていた。




 * * *




 河内奏太の取り調べは、実に3時間もの時間を要した。取調室を後にした蛭間は安田と別れた後真実也をオフィスに帰し、一人屋上へと足を運んだ。夕焼けの空はビルの隙間に傾いた太陽を中心に広がるように、桃色と紫のグラデーションを描いていた。鉄格子に寄りかかった蛭間は煙草ケースから一本の煙草を取りだすと、ライターで先端に火をつけた。深く息を吸って煙を肺に送り、やがて唇の隙間から静かに煙を吐き出した。


 ガツン。足元で何かが鉄格子にぶつかる音がした。足元を見ると、鉄格子に勢いよく掴まりがしがしと揺らすノト特任警部の姿があった。


「やはり、ここにいらしたんですね」


 背後からの声に振り返ると、蛭間と目が合ったミフネが軽く会釈をした。ミフネはノトを挟んで蛭間の隣に立ち、眉を下げつつ口角を上げた。


「取り調べ、ご苦労様です」

「……悪いが内容については報告の後にしてくれないか。まだ整理しきれていないんだ」

「ええ、分かっています。ですから私が来たのは、その件ではありません」


 上っていく煙を目で追っていた蛭間は、ミフネに視線を移した。


「みちるさんから聞きました。配属間も無いみちるさんや真実也君に、貴方が早すぎる“解放”をさせたと」

「……この話は、どうしても今する必要があるのかい?」

「今するべき話は後にしてくれと、先ほど仰ったばかりじゃないですか。ですから伺っているのですよ」


 蛭間さん。ミフネが静かに名前を呼べば、蛭間は観念したように目を伏せた。


「……参ったな」

「急なのは承知です。煩い部下の説教だと思っていただいても結構です。ただ私はどうしても、貴方のとった行動の真意を知りたいのです」

「行動の真意。ね」


 蛭間はタバコに口をつけると再び空を仰ぎ、吐き出した煙を眺めた。ミフネは蛭間に向き直る。


「新米警官にいきなり暴人を“解放”させ危険にさらした挙句、達成出来なければ異動願を渡して異動を勧める。上に立つ教育者として、班長として有るまじき行為です。貴方ほどの聡明な方が、何故そのようなことを?」


 蛭間は答えない。桃色と紫色のグラデーションに染まった夕焼けの空に、煙草の白い煙が消えていくのをただ見ていたのだ。ミフネは蛭間の横顔に向かって、未だ合わない金色の視線に訴えかけるように、慎重な声色で尋ねた。


「……本当は彼らを──いいえ、彼を。特殊対策班から追い出したかったからではないですか」


 数秒の沈黙の後、蛭間は吸い込んだ最後の煙を静かに吐き出した。


「……追い出す?なんのために。またお得意の仮説かい」

「蛭間さん」


 目を細めて微笑みかけた蛭間に対しても、ミフネは決して表情を緩めない。彼の青く澄んだ瞳はどこまでも真剣で、波のように穏やかながらも心配そうに揺れている。


「はぁ」


 蛭間は鉄格子の縁に煙草を押し付けて消すと、短いため息をついた。


「あの人と、目つきが似ていたんだ」


 消えた煙草を手の中で転がしながら、蛭間は続ける。


「正義のために時に人の心を捨てなければならない特殊対策班では生きれない。あの目には……確かにとても強い正義感がある。しかし同時に優しすぎる。優しさとは甘さ。甘さが仇になって、自らの手で失って。壊れてしまう」

「それは……“例の事件”のことですか」


 ミフネの声は、音もなくそよいだ風に乗って屋上から逃げ出していった。重く癖のあるミフネの黒髪はびくともせずに彼の右目を覆い続けているが、蛭間の前髪は風が乗った途端、いとも容易くなびいた。


「もう誰も失いたくない。決して失わせない」


 露わになった金色の双眸は、ミフネの碧い瞳を貫くように眼差した。一瞬濁ったような暗がりを見せるものの、蛭間は目を細め、誤魔化すように微笑んだ。


「遅かれ早かれ、度胸の無い人間はやっていけないからね。だから私は彼の素質を試した、それだけだよ。獅子は我が子をナントヤラ……って言うだろ」


 もう行かないと。と踵を返した蛭間は、振り返ることなく屋上を後にした。ミフネとノトは言葉を発することなく、蛭間の黒い背中が見えなくなるまで目で追い続けていた。屋上全体が薄紫色に染まった、午後6時半の出来事である。






 *





『河内奏太取調報告』


 暴人課庁舎の一角に佇む課長室。デスクに座る鳳堂警視正の手に、数枚綴りになったA4サイズの資料が手渡された。デスクの前には蛭間要、安田整一が並んでいる。鳳堂警視正は彼らと目を合わせると、長く綴られた取り調べ内容に目を通し始めた。




 ──12日朝9時頃。河内奏太は通学の為外出。通学途中に自身の体調不良を自覚し、トイレを借りるため西区真名代町のコンビニエンスストアに駆け込む。トイレの鏡から自身の瞳孔散大を確認、暴人化初期症状であると判断した彼は、コンビニエンスストアを出た後人目を避けるように、人通りの少ない場所へ移動した。(この時点で、彼は暴人化への強い恐怖からパニック状態に陥っていた)



 ──移動した先で“謎の人物”と遭遇し、首に注射器のようなものを刺される─この時、人物と遭遇した場所についての証言は得られなかった─その後、意識を失う。



 ──同日午後5時頃。目を覚ますと、手の中にメモ( ※ 資料参照 )を握っていた。この時、私物であるスマートフォンのカメラ機能で自身の目の様子を確認したところ、瞳孔散大をはじめとした症状は治まっていた。

 激しい吐き気、痙攣、動悸などの症状に襲われ、気絶を波のように繰り返す。大学や自宅に向かうことなく、その場で一夜を過ごした。




 12日の証言記録は、ここで終わっていた。鳳堂警視正は河内奏太が渡されたメモである資料を確認するために、画像資料のページを探す。紙の擦れる音が部屋に響く。


「これは……」


 見つけた資料に目を通した鳳堂警視正は訝しげに眉をひそめたあと、グレーの瞳に困惑の色を浮かばせた。



 *





《 Mの天命から逃れる機会を与えよう 君は“生ける屍”だ

 やがて君に 身が張り裂けるような殺人衝動がやってくる

 衝動を抑えれば 君は生き続けられる 抑えられなければ……



 人を殺し続け 生きるのを選ぶか 人を殺さず 苦しみ息絶えるを選ぶか 君の正義の形を問おう 前者ならば 死体の近くに その“証”を残せ



“LIVING DEAD”の証を残せ 黒く黒くあおぐろい 命の血潮で証を残せ 私はいつでも 君を見ている 》





 *




 鳳堂警視正はそれから何も言わず蛭間・安田に視線を送ると、恐る恐る視線を戻し、続きの証言記録を追った。




 ──翌日13日。前日の症状は軽くなる。しかし「積み上げられた物や集団を見ると壊して乱したくなる」などの破壊的な欲求が湧き始める。これらは当時、理性で抑えられるほどの軽度な欲求であったが、この欲求は特に人に対して強く示された。



 ──同日正午。河内奏太は、西区の繁華街に身を潜めた。(※理由として、『日中であれば人が多く常に活気づいているため、路地裏ならばもし破壊衝動で暴れてしまっても誰も気付かない、土地が入り組んでいるため気付かれてもすぐに撒けると思った』と証言している。)繁華街に移ったこの頃から既に、破壊衝動は理性でコントロールすることが困難なほど強くなっていた。衝動は日に日に強くなり、人に対する破壊衝動も強くなっていった。



 ──同日午後。再び体調に変化が現れ、人に対する強い破壊衝動に加え、体の内側が熱くなる・瞳孔散大などの暴人化初期症状にも似た症状が再び現れる。河内奏太はその症状と気絶とを繰り返すようになった。瞳孔散大などの症状は、意識を取り戻す度に一時的に治まるが、時間が経つとまた徐々に現れはじめた。



 ──14日。人のいない路地に深く潜るなどして、衝動を抑えようと試みる。しかし衝動・症状は共に悪化していき、頻度も増えていった。

 何度目かの気絶を経ると、“内側から食い破られるような強い痛みと不快感”、“頭の血管が切れそうな感覚” に襲われはじめた。また、“著しい身体能力の向上”(疲れにくくなり、気絶の際コンクリートに頭をうちつけても傷一つ負わないなど)も見られた。



 ──15日深夜。河内奏太は路地裏で眠っていたホームレスを殺害。「衝動と痛みに耐えられなくなった」「殺せばこの痛みが消えると思った」という殺害動機を挙げる。犯行直前、河内奏太は内臓や血が煮え滾るような激しい痛みに襲われていたが、ホームレス殺害後に痛みと衝動は治まった。鼻からの出血で自身の血液の色が黒であることを確認する。

 ホームレスの腕に、自身の血で“LIVING DEAD”の文字を残す。この行いに対しての詳しい動機は伺えず、「メモの言う通りにしなければいけないと必死だった」と証言。

 瞳孔の散大は、しばらくすると治まっていた。河内奏太は罪の意識と、自身が人ではない何かになった焦り、また“衝動”が湧き人を襲ってしまうのではという恐怖心から、身を隠しやすい繁華街に潜伏し続けることを決める。


 ─16日。痛みや衝動はなく、調子が良かった。食料調達などで大通りを移動する際、人と近い距離で接することで衝動が刺激されてしまうと考え、路地に放置されていた自転車を使い移動するようになる。しかしこの日、破壊衝動も体の痛みも感じなかった。


 ─17日。最初の頃のような破壊衝動が現れる。再び殺人を犯してしまうことを恐れ、河内奏太は衝動に耐えて死を選ぶこと(※メモに記された内容から)を試みた。



 ──18日。衝動と痛みに耐えようと試みるものの、耐えれば耐えるほど痛みも衝動も強くなっていった。死を恐れた彼は耐えきれず、大月春名を殺害。当初、繁華街で起こった暴人化事件の騒動に乗じて酔っ払いの男を路地裏に引き込み殺害する予定だったものの、少女(※ノト特任警部)に阻止され、ターゲットを急遽変更した。殺害後、逃げるために路地裏を移動し、スーツの男(※真実也基巡査)と接触する。犯行直後、まだ瞳孔散大が治まっていない中男に凝視されるもやり過ごす。


 長い記録を読み終えた鳳堂警視正は、資料を見たままゆっくりと姿勢を正した。


「現場に残された血文字は犯人の意思ではなく、犯人の裏にいる何者かの指示によるものだった、ということか」

「奴の証言が全て本当かどうかは、正直怪しいと思いますけどね。ただのイカれ野郎で、ぜんぶ奴の自作自演という可能性も」


 長い前髪の下から気だるそうな瞳を覗かせながら安田は言った。鳳堂警視正は少し考え込んだあと、「いや」と首を振る。


「そうであって欲しいところが……それは無いな。黒い血文字が残された殺人事件は全国で起きている。破壊衝動の証言は定かではないにしても、少なくとも犯人が誰かの指示により“LIVINGDEAD”の文字を残したという点は事実だろう。だが念のため、彼は精神鑑定にかけさせる。彼の体で今何が起こっているのか、精密検査も特鑑に依頼しよう」

「そのことですが、鳳堂警視正」


 鳳堂警視正の後に蛭間が口を開いた。鳳堂警視正は視線を安田から蛭間に移し、片方の眉をつり上げた。


「どうした、蛭間」

「彼の破壊衝動の証言が事実であるならば、衝動を抑えた後数日で再び次の衝動の波がやってくるはずです。以上を踏まえ早急な検査を要すると判断し、取調が終了後、間もなく彼を特殊鑑識班に送還しました」

「ということは、彼はすでに特鑑に引き渡されているのか。ふむ……本来このようなことは警視正の許可を経てから行うべきだが、今回においては英断だな。了解した」


 鳳堂警視正は資料を纏めて机に置くと、中指と親指で自身の銀縁眼鏡を引き上げた。


「ではこちらは新たに、特殊資料班に暴人化初期症状及び暴人化の進行を妨害する薬物の調査を要請しておこう。暴人化初期症状や暴人化の進行を副作用によって妨げる薬物……仮にそんなものが存在しているなら大問題だ……“LIVINGDEAD”の血文字を残すよう指示した謎の人物の手がかりも集めなければならないな……」



 後半はほとんど独り言のように呟き、眉間を手で抑えながら鳳堂警視正は静かに息を吐き出すと、蛭間・安田に向かって言った。気丈に振舞っているように見えるが、かなり疲労が溜まっているのだろう。


「2人とも、ご苦労だったな。改まった指示は班長会議で──いや、各班長に資料で配布する。指示が出るまで通常業務に戻ってくれ」

「はい、警視正。無理はなさらず」

「……ありがとう。心配いらない」


 蛭間と安田は軽く敬礼をすると、課長室を後にした。




 * * *




「……お前はどう思う」


 長い廊下を進む途中、安田がぼそりと呟いた。蛭間は微笑みながら首を傾げた。


「はぁ。何がでしょう」

「とぼけんな。河内奏太の証言についてだ」


 蛭間は安田睨まれても臆さず、掴みどころのない笑顔を浮かべている。前を見て歩きながら、考える素振りを見せて口を開いた。


「なんともいえませんね。ですが私が彼を捕らえた時の彼の特徴──瞳孔散大、墨色の血液、高温の体。加えて高い身体能力と、通常の拳銃を容易く弾き返す丈夫な体……理性を保っていること以外、その特徴は完全に暴人のものと一致していました」

「“理性を持つ暴人”ってやつか。暴人化初期症状を一度抱えた人間がこう何日も生きてるなんざ、聞いたこともねぇ。殺人衝動云々は知らねぇが、変な薬を打たれたってのはあながち間違いじゃねぇのかもな」


 すっかり日は暮れ、窓の外は建物がシルエットになるほど暗くなっていた。すでに点灯している街の灯りを、蛭間は歩きながら眺めていた。


「あと問題なのは、一体誰が何のために血文字を残させたのかだが……」


 首の凝りを解しながら考える安田は、前を向くや否や言葉を詰まらせた。嫌なものを見た、というような様子で「あれは……」と呟く。


 廊下を進んだ先にあるのは、暴人課の飲食スペースだ。壁沿いには電子レンジやポットが備え付けられており、壁沿いにずらりと大量に並ぶ自動販売機には、豊富な種類の飲み物の他に軽食が買えるようになっている。暴人課の食堂とも呼ばれるスペースの一つのテーブルに、長い腕を振り回して大声を張る人物がいた。


「安田さん安田さん!おかえりなさぁーーい」


 安田特殊対策班、能木一七子が、冷凍食品のパスタを口にかきこみながら笑顔で手を振っている。


「……手のかかる部下ってのも問題だな」

「ふふ。手のかかる部下は、得てして可愛いものです」

「他人事だと思いやがって」


 面倒くさいものを見るような目で彼女を見る安田に対し、蛭間は能木の向かい側に座っている部下、真実也基に気がついた。何故だかげっそりとした様子である。二人は歩行スピードを緩めることなく、二人の座っているテーブルに近づいた。


「大声出すな、共有スペースだろうが」

「すみませんでしたぁ!あとあと、安田さんからもらったお小遣いまだちょっと余ってるんで何か奢ったげますね!半分ずつっこ、しましょうよ〜」

「俺の金だろ」


 口の周りにケチャップをつけた能木は、にこにこと屈託の無い笑顔を向けながら小銭を安田に見せた。


「何が良いですか?アイスですか?能木ィ、アイスが良いなぁ!」

「ああもう、わかったから好きなの買ってこい」


 手にソースがついた能木は、そのまま自販機に走って行った。嫌な予感を察した安田も溜息をつきながらついて行くと、テーブルには真実也と蛭間が残される。蛭間は楽しそうな笑みを浮かべながら、明らかに先程より疲労困憊している真実也に目を向けた。


「おや。仲良く軽食ですか」

「僕はたまたま通りかかっただけです。……班長が来るまで寂しいから、話し相手になって欲しいと……」

「それで一緒にいてあげたんですね。なかなかお似合いじゃないですか」

「やめてください」


 真実也は勢いよく立ち上がり、余裕の無い剣幕で訴えた。






 * *





「どこに行くんですか?」

「特殊鑑識班のところに行きます。せっかくですし、君もどうです?」

「……拒否権は無いかと」


 安田班と別れたあと、二人はエレベーターに乗り込んだ。入るや否や下の階層を示すボタンを押した蛭間に気がついた真実也は、苦笑いをうかべる。


「特殊鑑識班。通称“特鑑”は、いわば暴人の研究施設のようなもの。実際特殊対策班は、暴人に関する知識をつける目的以外ではあまりお目にかかりません」

「では今回の目的は……先ほど話していた、河内奏太の精神鑑定と精密検査の件ですか」

「ええ、その通り。その件で少し心配になりまして。なにせトッカン(特鑑)の方達は、私たちとは違って戦闘はからっきしですから」


 エレベーター特有の足元が歪むような感覚に、真実也は少し目が回った。

 しばらくすると、エレベーターが停止音をたてて止まった。静かに扉が開くと、白を基調とした清潔感のある、それでいて無機質な雰囲気の廊下が続いていた。通路の脇には観葉植物や、M細胞や暴人のポスターが貼られている。


「なんだか、真っ白ですね」

「……真実也君」


 蛭間に続きエレベーターから降りた真実也が一言感想を漏らすと、前で歩いていた蛭間がピタリと足を止めた。蛭間は右手で進もうとする真実也を制し、左手の人差し指を突き立て、顔の前に持っていく。「しぃー。」と口の形だけで伝えた蛭間は、真実也の方へ体を向けたまはま、視線だけを廊下の奥へ向けた。


「なにか聞こえる」


 蛭間の言葉に、真実也は息を殺して耳をひそめた。廊下の奥が、何やら騒がしい。


 突然、廊下の突き当りから誰かが飛び出してきた。白衣を着た研究員らしき人物は、蛭間達に気がつくと叫んだ。


「ひ、蛭間さん!!」

「……押野君じゃないか」


 特殊鑑識班、押野匠(おしの たくむ)は、栗色の癖毛が特徴的な20代半ばほどの男性だった。彼は血相を変えて助けを求めるように蛭間に駆け寄ってくる。ただ事では無さそうな事態を察した蛭間と真実也は、顔を見合せるとすぐに歩み寄った。


「何があった?」

「かわ、かわわ……」

「落ち着いてくれ」


 ぜーぜーと息を切らしながら項垂れる押野を、蛭間は覗き込むように屈んで尋ねた。


「かわち、そうたが……!」


 声をふりしぼり、押野が顔を上げた直後。

 奥から一際大きな物音と悲鳴が上がった。真実也は、押野の口から河内奏太の名前を聞いた瞬間懐から愛銃を取り出す蛭間に気がついた。


「河内奏太が、暴人化しました……!ブラック・アウト(理性喪失)を起こして、暴れています」


 押野がそう言い切る前に、蛭間は鬼の形相で廊下を進んで行った。彼の放った心臓が握られるような強い殺気に押された真実也は、一呼吸遅れて蛭間について行った。



* * *




特殊鑑識班の長い廊下を突き進んだ真実也は、蛭間の背中を追いながら進んでいく。血相を変えて逃げてきた白衣姿の研究員たちと肩がぶつかりそうになるのを避けつつ、角を曲がった。真実也はプレートに『研究室-A』と書かれた両開きのドアに蛭間が入っていくのに気がつくと、対暴人用拳銃 “Matilda”を上着の下から取り出し、部屋に入っていった。



暴人は──河内奏太はどこにいる。拳銃を構えながら、広々とした研究室をぐるりと見渡す。壁際に設置された大型のモニター。山積みの資料、無数のデスク、顕微鏡に試験管。物陰に隠れる研究員。情報量の多い室内を、真実也基は心臓の鼓動を抑えながら高速で目を走らせる。目まぐるしく動く視線は中央に狙いを定めた。スーツの上着を靡かせながら研究室の真ん中を突っ切る黒い背中、班長・蛭間に目が留まる。真実也は考えるよりも先に彼の背中を追っていった。


突然、短い悲鳴と怒鳴り声が響いた。部屋の最奥、診察台のような大きなテーブルのそばに、河内奏太はいた。テーブルに取り付けられたであろう拘束具は容易く壊され、いくつかの部品が床にちらばっている。肩をいからせ白い蒸気を吐き出す河内奏太はこちらに背を向け、壁際に追いやられた女研究員に歩み寄った。逃げそびれた女研究員は腰を抜かしているのか、その場で動けず座り込んでいた。暴人化した河内奏太は、自身の体に触れた椅子や資料を蹴散らし、暴れながら研究員に近づいていく。真実也は構えた拳銃で撃とうとするも、頭を揺らしながら激しく動く河内奏太に照準が定められない。


「“まだ” 撃つな」


河内奏太が女性に向かって腕を振り回し、怒号を上げた直後。蛭間は静かなその言葉と共に、地面を蹴って体を浮かせた。右足を思いきり上げると、自身の頭ほどまで上げられた脚を振り下ろし、右上から叩きつけるように河内奏太の首を蹴った。


ゴツ、という音をたて蹴り飛ばされた河内奏太は、息が詰まるような唸り声を上げて左側に大きく転倒する。一体、何が起こった……?真実也は思わず呆気に取られ、数秒固まる。


「さ、サンプリングを……!」


ゼーゼーと息を切らしながら部屋に入ってきた研究員・押野のひ弱な声で真実也は我に返った。押野は疲れきった様子で、震える右腕を上げる。振り返った真実也は項垂れる押野を気遣いつつも、彼の言葉を聞き返した。


「サンプリング?」

「体の一部を、サンプリングしてくださいっ」


息を吐き切ると同時にそう言い切った押野は、河内奏太を指さしながらもう限界、と言わんばかりにへたり込んだ。真実也は反射的に、河内奏太の方へ視線を向ける。


蛭間の蹴りによって喉を圧迫され、呼吸を忘れた河内奏太は苦しそうに喘ぎながら横たわった。蛭間は河内奏太の上に跨ると、自身のジャケットの内側に手を忍ばせる。ガチャガチャと何かが重なる音の後、手のひらサイズのポケットナイフが取り出された。蛭間が手にしたナイフの柄は黒と赤のツートンカラーに「HS」の文字が刻まれており、真実也はすぐにこのナイフが対暴人用の武器であることを察した。


「え……」


蛭間は河内奏太の手足を固定しながら、ナイフを持った手に力を込める。真実也の理解が追いつかないうちに、河内奏太の服を剥いで生身の体にナイフを突き立てた。







暴人・河内奏太の声にならない叫び声が、研究室に空気の振動となって響き渡る。蛭間がナイフの角度を変える度に、ビリビリと空気が揺れるような気がする。耳を塞ぎたくなるのを耐えた真実也は、目を逸らしたくて堪らないにも関わらず、蛭間から目が離せなくなった。


蛭間は無駄のない手つきで、ナイフをぐるりと回転させる。空いた左手は再び上着の内側を探りはじめ、やがて小さく畳まれた小型のポリ袋を取り出した。器用に抉り取られた拳大ほどの肉片をポリ袋に入れた蛭間は、袋の口をきつく閉める。ポリ袋に入れられた肉片は、墨汁のように真っ黒な血液で満たされた。


「頼んだよ」


蛭間と目が合った瞬間、真実也の胸元に肉片の入ったポリ袋が投げ渡された。黒々とした血に濡れる肉片を受け取った真実也は、手を滑らせ落としそうになるのをすんでのところで抑える。


「冷凍保存」


蛭間は真実也の方を一瞥もせず、短く付け加えた。真実也はまだ暖かい肉片の感触に全身の身の毛がよだつのを感じつつも、振り返って研究員を探す。近くにいた押野を探し出すと、名前を呼んだ。状況を見ていなかったのだろうか、へたり込む押野に肉片を見せると、顔を見上げた彼は丸い目を更に丸め、異質なものを見るような目で真実也を見上げた。──何故僕をそんな目で見るんだ。真実也は言葉をぐっと飲み込んだ。


「ええっ、これって……?」

「さ……サンプルです!冷凍保存を……」

「サンプル??」


“ドン引き”という表現がぴったり合うような表情で、押野は後ずさり早口でまくしたてた。──だから、何故僕をそんな目で見るんだよ。真実也は今度は心の中で呟いた。


「ああ……まぁとにかくはやくしないと。とりあえず、冷凍庫へ」


起き上がった押野に手招かれ、真実也は肉片を手にしたまま冷凍ストッカーへと移動した。 移動中、押野は癖毛を揺らしながら早口で説明をはじめた。


「暴人くんは心肺機能が停止すると、その瞬間から細胞がぜんぶ死滅していっちゃうんです、だから生きてるうちに生きてる細胞を採取して冷凍保存しておく必要があるんです」

「……冷凍保存をすると、M細胞の活動が鈍くなるとか?」

「それもあるんですけど、暴人くんの肉は何より腐りやすいんですよ」


部屋の最奥からけたたましく響く河内奏太の雄叫びを聞きながら、押野は入口の壁沿いに並ぶ、数台の冷凍ストッカーの手前で立ち止まった。凍りついて固くなったストッカーの蓋を引き上げると、白い冷気が蓋の隙間から吹き上がる。真実也が手にしたサンプルをストッカーに入れると、押野はもう一度踏ん張り、ストッカーの蓋を閉めた。


バタン、と蓋の閉まる音とほぼ同時に、研究室内に鈍い銃声が響いた。直前まで雄叫びを上げていた河内奏太の声は途絶え、銃声の余韻が研究室内を満たし、物音一つ立てられない妙な静寂が走る。驚きで言葉を失う押野と顔を合わせたあと、真実也は蛭間のいる研究室の最奥へ近付いていった。


積み重なった資料や器具の乗ったデスクを通り越し奥へ進めば、その姿ははっきりと真実也の目に映る。壁や床に飛び散った黒い飛沫の中心に、暴人・河内奏太と蛭間はいた。


「蛭間さ……」


蛭間の名前を呼ぼうとした真実也はそう言いかけ、足を止めた。否、“これ以上近寄れない”とでも言うべきか。

河内奏太の上に覆い被さるような体勢で俯く蛭間の表情は、こちらからでは伺えない。輝く白金色の髪や白い肌に、先ほどの衝撃で飛散した墨色の血液が付着し、数滴滴り落ちる。垂れた血液が地面に落ちる音さえも聞こえそうな静寂の中、蛭間は何も言わずに焦点を彼に定め続けていた。俯いた際に垂れた髪の隙間から、いつも細められている彼の瞳が大きく開かれているのが分かる。



『死神』



背筋に走った言い様のない寒気に、真実也は身震いを覚えた。彼の纏う空気や佇まい、その全てが、その2文字を嫌というほど連想させられた。同時になぜ彼が警察の間で「死神」と呼ばれているのかも、真実也は今ならわかる気がしたのだった。

河内奏太の喉の奥で発砲された対暴人用短銃“Logan”は、未だバレルが見えなくなるほど彼の口内に押し込められている。はじめて“解放”を目の当たりにした時と同じ光景に、真実也の胸がざわついた。蛭間はそれをゆっくりと引き抜くと、銃を上着の内側にしまい、やがてゆらりと立ち上がった。

遺体を通り越し、壁沿いで身動きが取れなくなっている研究員の女の前まで来ると、片膝をついて目線を合わせようと試みる。


「お怪我は?」


先ほど感じた「死神」とはかけ離れた、いつもの穏やかな蛭間の声色が研究員に投げかけられた。研究員の女は怯えた表情を硬直させ、言葉を失ったまま蛭間を見上げている。研究室に充満する錆びた鉄と腐ったような匂いが、緊張が解け息を吸った真実也の鼻腔をひりひりと刺激した。




暴人、河内奏太は“解放”された。





* * *




「まさか本当に体の一部をサンプリングするなんて」

「もういいでしょう、その話は」


蛭間と真実也は、研究室の端にある休憩スペースに通された。2人分のティーカップを置いて向かい側のソファに座った押野に対し、蛭間は足を組み直す。表情こそにこやかなものの、何度も指摘をされ相当苛立っているのが真実也には分かった。


河内奏太の遺体回収後。戻ってきた研究員は荒らされた研究室の片付け、及び清掃作業に追われていた。真実也は片付けを行う研究員に目を配りながら、押野に促されるままソファに腰を沈めた。


「人の肉をナイフで切り取るなんて、そう易々とできるもんじゃないですよ」

「違うね。“暴人”の肉だ、たくみ君」

「……僕の名前はたく“む”ですけどね」

「おや。失礼」

「わざとですよね!?」


真実也は姿勢を正しながら、二人の会話を目で追う。



「それにしても美味しそうなお茶ですね。真実也君、一口頂いたらどうですか」


じとりと睨む押野を気にせず、蛭間はカップに入った茶をスプーンでかき混ぜながら真実也に話しかけた。真実也は短く返事をすると、いただきますと呟いてからカップに口を付け、間もなく吹き出した。草の煮汁の味がした。


「ということなので真実也君、以降特殊鑑識班から頂いたものには口を付けないようにしましょうね」

「ただの自家製ハーブティです!味だって、慣れればいけます」

「慣れる必要はありません」

「そもそも、特策(トクサク)の予算が多すぎるんですよ」

「茶葉を買う資金くらいは君たちにもあるはずですが」


笑顔を浮かべながら足を組みかえ寄りかかる蛭間とムキになる押野二人に視線を移し、真実也は言い合いをなだめた。しばらくすると押野は短く溜息をつき、癖のついた髪を撫でつけた。撫で付けも虚しく、瞬時に癖毛が飛び出る。


「まぁでも、暴人くん“解放”の件とサンプルの件については、素直にお礼を言います。あなた達が来てくれなかったら、今ごろ大変なことになっていたでしょうから。蛭間さんが採ってくれたサンプルがあれば、彼の体の中で何が起こっていたのかが分かるかもしれません」


押野はサンプルが保管された冷凍ストッカーに視線を向けながら言った。蛭間、続いて真実也は襟を質して立ち上がった。


「ああ、頼んだよ。……そろそろお邪魔しようか、上への報告がまた増えた」

「蛭間さん。ミフネさんに、よろしく伝えてください。元気にしていると良いのですが」


背を向けて入口へ向かう途中、蛭間の背中を見上げながら押野が言った。蛭間は足を止めると、半身を押野に向けて微笑んだ。


「心配ご無用。毎日紅茶を飲んで元気ですよ」







「蛭間さんとミフネさんは、特殊鑑識班と面識が?」

「ミフネ君は元、特鑑(トッカン)の出身です。ちょっとした確執がありまして」

「そうだったんですか」


エレベーターの開閉ボタンを押しながら、真実也は目を開いて驚いた。


「特殊鑑識班から特殊対策班への異動というのは、よくある事なのでしょうか」

「逆はありますが、あまり見ないですね。それにミフネ君の異動理由は、もともとノト特任警部の逆プロポーズなのでかなり特殊です」

「ぷ、プロポーズ?」

「私も詳しくは知りませんが」

「は、はぁ……」


エレベーターは上へ上へと登り、順当に階数を上げていく。一呼吸分の沈黙の後、エレベーターが起動する低い音を聞かながら、真実也は1、2と順番に点灯していくランプを見上げてぽつりと呟いた。


「人を殺し続けることで暴人化を防げる薬なんて……本当に存在するのでしょうか」


ゴオ、というエレベーターの音が、沈黙を割いて聞こえる。天井に取り付けられたオレンジ色の照明に、蛭間の髪が照らされる。


「暴人化のみ防げる薬ならまだしも……その代償に人を殺すだなんて……!」

「ええ、もちろん許されない。生に縋る人の気持ちを弄ぶ行為も、許されない。裏で手を引いている人間は必ず捕まえる」


エレベーターの壁によりかかる蛭間が、静かに口を開いた。ようやくフロアに到着したエレベーターは、到着のチャイムを鳴らして静かに停止した。


「……生ける屍も、一人残らず殲滅(解放)する」


エレベーターの扉が開き、特殊対策班オフィスフロアに繋がる廊下から蛍光灯の光が指してくる。蛭間は真実也に微笑みかけると、緩く弾みをつけて寄りかかっていた壁から離れた。


「うーん、今日はさすがに疲れましたね。みちるさん達を誘って、“スタバ”に寄っていきませんか」


独特な体勢で伸びをした蛭間の言葉に、真実也は「すた、ば……?」と独り言のように聞き返した。




* * *





「なんか老けた?」


都内の駅前に佇むカフェドリンクショップ『Master Bar』のテーブル席。花園みちる、ミフネ、ノトの三人は、どこかげっそりとしている真実也の顔を覗き込む。真実也の隣のソファに座っている蛭間は、マスターサイズのバニラフラッペドリンクに口をつけながら言った。


「糖分不足ですね。今日はこれを飲んで、しっかり休んでください」


真実也の前に置かれたチョコレートフラッペドリンクに視線を移した。


「確かに。今日二人めちゃくちゃハードだったよね〜。私のケーキ一口あげる」

「遠慮する」

「ダメ」


みちるはフォークを手に取り、まだ手がついていないいちごのショートケーキのイチゴだけをフォークに乗せた。テーブルから少し身を乗り出し、真実也の皿にそれを置く。


「おや。良かったですね。お礼を言いなさい」


生クリームをストローで混ぜながら言う蛭間を横目で見ながら、真実也はゆっくりと向かいの座席に座るみちるに視線を移した。みちるはリボンのピアスを揺らして満足気に微笑んでいる。


「……ありがとう」


真実也は俯き、しかしみちるに聞こえるように言った。


「ノトさん?」


隣に座るノトに気がついたミフネが、声をかけながらコーヒーのカップを置いた。ごそごそとポケットを漁りながら、ノトは椅子から飛び降りる。そのまま真実也席の近くまで移動すると、赤い目を覗かせて見上げた。少し間を置いてから、ミフネは察したように真実也に言った。


「渡したいものがあるそうですよ」

「渡したいもの?」


真実也は片手を皿のようにしてノトに差し出せば、棒付きがキャンディが手のひらに渡された。


「あっ。ありがとうございます」


飴の部分にビニールの包装が施されている棒付きキャンディは、色からしてオレンジ味である。ノトは更にもう一つ取り出すと、こんどは蛭間に差し出した。蛭間は意外そうに眉を上げると、その後丁寧に礼を言い、オレンジ味の飴を微笑みながら受け取った。そのやりとりを見守っていたミフネは、嬉しそうに笑っている。


「お二人とも、ご苦労様でした」



真実也はミフネに対して軽く会釈をした後、ドリンクに口をつけた。喉が痒くなるほど甘いチョコレートが、真実也の喉を伝って胃に流れる。疲れで凝り固まった脳みそが解されるような感覚に、肩の力が抜けた。窓の外を見ると、行き交う人の隙間から無数の車のランプとビルの灯りが、夜の闇を照らすように輝いている。

長い長い、一日が終わった。







 BLACK OUT~蛭間特殊対策班~

 Sample:08『潜伏者』


 END

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