Sample : 07 『縋りつく』

sample:07『縋り付く』




~用語解説~


【暴人(ぼうと)】

人間の体内に潜伏する細胞(M細胞)の爆発的な増殖により、理性を失い凶暴化した人々。その現象はしばしば「暴人化」と称される。


【M細胞】

暴人化の原因になる、人間の身体中に微量に点在している細胞。別名「潜伏性狂気細胞」。一度分裂を起こすと爆発的に増殖する性質があり、体内の細胞をも喰らい尽くしやがて死に至らしめる。分裂の原因は未だ解明されていない。


~組織・人物紹介~


✳【特殊鑑識班(とくしゅ-かんしき-はん)】✳

暴人課に所属する、暴人にまつわる鑑識や、M細胞の研究をする組織。

通称、『特鑑(トッカン)』と呼ばれている。

因みに“特殊対策班”は『特策(トクサク)』、暴人の資料を整理・管理する“特殊資料班”は『特資(トクシ)』と略されることが多い。

暴人課は、『特鑑』『特策』『特資』の三つの組織で構成されている。



【真実也 基 (まみや はじめ) 巡査】

警視庁公安部 暴人課 特殊対策班の新米警官。好きなおにぎりの具は鮭。


【蛭間 要(ひるま かなめ)警部補】

蛭間特殊対策班 班長。物腰柔らかで掴みどころのない性格。塩むすび派。


【花園 みちる(はなぞの みちる)巡査】

蛭間特殊対策班の新米警官。お洒落と可愛いものが好きな今どきのギャルで射撃の名手。好きなおにぎりの具はツナマヨ。


【ノト特任警部】

蛭間特殊対策班 班員。暴人課の特任警部である無口な少女。のり○まのおにぎりが好き。


【ミフネ特任警部補佐】

蛭間特殊対策班 班員。ノトのバディであり、世話係もこなす長身で紳士的なの男。好きなおにぎりの具は梅。


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早朝5時32分、西区繁華街に無数に存在する路地裏の一角。強い死臭と無数の蝿が、初夏の風にまとわりついて辺りに充満する。現場付近には取り囲むようにデジタルの規制線が貼られおり、警察関係者が通過する度に、グラフィックが小さく揺れた。

ぐったりと横たわった赤黒い死体。コンクリートのブロック塀に書き殴られた、黒い血文字。鑑識が焚いたカメラのフラッシュに驚いた蝿たちは、喧しい羽音を立てて餌から飛び去った。


リビングデッド連続殺人事件及び、西区繁華街 女子中学生惨殺事件。


「こりゃ百目鬼の野郎が見たら気絶するな。……ったく、でもなんでよりにもよってまた俺たちなんだよ」


黒いスーツの上からアースグリーンの作業服を身に纏う男。安田整一は、頭を掻きながら呟いた。更に短く息を吐きながら、「気が滅入るね」と愚痴をこぼす。


「安田さぁーん。安田さん安田さん、安田さんっ」

「うるせぇなぁ、なんだよ」


安田特殊対策班・新米警官。能木一七子(のぎ ひなこ)は人懐こい笑みを浮かべながら、行き交う鑑識の隙間を縫って安田の元へずんずんと歩み寄った。艶やかに切りそろえられた黒髪が揺れる。


「ウーッ。臭ぇ〜!」

「あんだけ言ったのにマスク忘れたお前が悪い。で、何の用だ」

「あ〜そうそうそう、繁華街での例の不審火!ただの煙花火だったみたいですけど、ノト特任警部殿の言った通り、そのすぐ近くで“竹串”が見つかりましたぁ。あとなんか鑑識の人が、串の先っちょに真っ黒墨色の血が付いてる〜って騒いでました」

「なんだって!?」

「いや、ですから……繁華街での例の─」


最初から繰り返そうとする能木の口を塞ぎながら、安田は考え込む。動揺で視線がちらつき、額にじっとりとかいた汗は、きっと気温のせいではない。死体の寄りかかるブロック塀に走り書きされた黒い血文字を睨んだ後、「……こりゃ会議が長引きやがるな」と力なくまた愚痴をこぼした。







『BLACK OUT~蛭間特殊対策班~』



Sample:07



『縋りつく』








「なんという事だ」


AM6:20、特殊対策班班長会議室。巨体を蹲らせながら号泣するのは、百目鬼特殊対策班班長・百目鬼徳間(どうめき とくま)である。


「蛭間、お前という優秀な警官がついていながら……」

「言い返す言葉もありませんねぇ」


大きな円卓を囲んで百目鬼の向かいに座る蛭間要は、椅子に深く寄りかかり、足を組み直した。

百目鬼の左隣に座る男警官、印南特殊対策班班長・印南寛人(いなみ ひろと)は、ミントグリーンの瞳に同情の念を浮かべながら、机に突っ伏す百目鬼を慰めるように穏やかに語りかけた。


「百目鬼。僕にも娘がいるから今回の事件がショックなのは分かるけど、だからといって蛭間を責めるのは違うんじゃないか。特殊対策班である僕達が今することは、蛭間を責めることでも、犯人を捕まえることでもない。リビングデッド連続殺人事件と暴人の関連性の有無を追及することだ。そうだろう?」

「その通り」


百目鬼の代わりに返答するように、一人の人物が会議室の扉を開けて入って来た。班長一同は血相を変えて起立し、敬礼する。


「鳳堂警視正」

「前の会議が長引いてしまった、待たせてすまない。皆座ってくれ」


暴人課課長、鳳堂 霞(ほうどう かすみ)警視正は、手のひらを上下に振り「座れ」のハンドサインを送った。一同は敬礼を止め、促されるまま座り直す。


「現場の担当は安田班か」

「はい。事件の概要の共有をさせていただきます」


鳳堂警視正と視線が合う前に立ち上がった安田は、マイクと大型スクリーンのリモコンを手に取った。会議室の壁に設置されたスクリーンに、様々な画角で撮影された、少女の遺体の写真が映し出される。


「19日未明。西区繁華街の路地裏にて、少女の遺体を地元の交番警察が発見。遺体は18日の午後から行方が分からなくなっていた、大月 春名(おおつき はるな)さん14歳であることが、行方不明当時の服装との一致で明らかになりました。遺体は腹部から頭部にかけて……刃物のようなもので滅多刺し。そして、遺体が発見された近くのブロック塀に、黒い液体で書かれた“LIVING DEAD”のメッセージを発見。鑑定の結果、この黒い液体は血液と判明してます」


一段落言い終わると、鳳堂警視正はふむ、と顎に手を添えた。会議室の空気は一段と張り詰めている。安田は資料に目を落とし、静かに息を吸って続けた。


「18日午後3時頃、西区の繁華街で市民が暴人化する事件が起きています。暴人の女性は間もなく、ミフネ特任警部補佐により“解放”。西区の繁華街へ遊びに来ていた春名さんとそのご友人は、暴人化事件の現場に遭遇。その混乱に乗じて、春名さんはご友人とはぐれてしまった。これらはすべて、春名さんのご友人の証言で明らかになってます。春名さんの遺体の死亡推定時刻から考えると、殺害されたのは18日の午後3時から4時にかけて。暴人化事件が起きてから一時間以内であることから、春名さんは友人とはぐれた後間もなく、何者かに殺害されたと考えられます」


事件の概要は以上です。そう言って、安田は顔からマイクを遠ざけた。腕を組み俯いて聴いていた鳳堂警視正は深く頷くと、安田の方に視線を向ける。銀縁の眼鏡のフレームから、グレーの瞳が覗く。


「ご苦労だった、安田警部。特殊対策班ならば普段請け負わない事件の調査……元刑事のお前に任せて正解だったな」

「……そりゃ光栄ですね」


気だるそうに無精髭をかく安田に、鳳堂警視正は静かに口角を上げた。しかし手元の資料を一枚捲ると、気になる資料に動きを止める。


「『西区繁華街の不審火』?」


この資料は一体?眼鏡を引き上げて尋ねる鳳堂警視正に、安田はああ、と思い出したようにマイクの電源を入れた。


「18日、暴人化事件と並行して不審火の通報があったんですよ。ちと見逃せないことがありまして……詳しくは、蛭間班に譲ります」


マイクの電源をブツリと切った安田は、どうぞと手で蛭間を促した。どうも、と返した蛭間は立ち上がり、抑揚の無い声で話し始めた。


「暴人化事件が起きた直後、ノト特任警部が不審な男を見かけたようで。なんでもその男、事件直後で辺りが混乱に陥っている最中に、酔っ払いの男性を路地裏に引きずり込んで行ったのだとか。すかさずノト特任警部は謎の男を追跡。追いつめた先で、酔っ払いの男性に襲いかかる男を目撃したノト特任警部は、咥えていた竹串で男を制圧しました」


「な、なんだって?」


すっかり落ち着きを取り戻した百目鬼が、素っ頓狂な声を上げた。「竹串で制圧」その単語に、会議室内にもざわめきが起きる。蛭間は笑顔を浮かべたまま、少し間を置いてから続けた。


「……ノト特任警部はちょうど、休憩がてら串団子を食べていたようです。彼女の投げた串は男の手の甲に命中した。その後、男は持っていた煙花火で姿をくらまし逃走。結局ノト特任警部は、男の顔までは確認できなかったそうです。その時男が逃走に使った煙花火の煙を、火事だと勘違いした市民が不審火の通報をした……というのが、不審火の真相になります」

「ふむ。不審火については分かった。……ノト特任警部が、串団子を食べていたのも分かった。しかし、安田警部の言う“見逃せないこと”というのは……?」


鳳堂警視正の問いかけに、蛭間は頷いた。安田に視線を移すと、安田は察したようにモニター操作用の小さなリモコンを、テーブルの上で滑らせて蛭間に渡した。「どうも」と微笑みながら小さく礼を言い、蛭間はリモコンを押す。

切り替わったモニターに映し出されたのは、薄暗い路地裏をフラッシュ撮影した写真だった。


「この写真は、不審火の通報があった現場の写真です。……六畳ほどでしょうか。少し開けた空間になっているようですね。現場には煙花火のカスと……少し離れた所で、ノト特任警部が男目掛けて投げた団子の串が見つかりました。ノト特任警部、相当な勢いで投げたのでしょう。竹串は男の手にしっかりと刺さったようで。……竹串の先端から、血液が検出されました」


もう一度リモコンのボタンを押すとモニターが切り替わり、一枚の写真が映し出された。でこぼことしたアスファルトに転がる、一本の竹串を写した一枚だ。その竹串の先端から数センチほどが黒く染まっていることに気がつくと、安田・蛭間を除いた全員の表情が一斉に強ばった。

その墨のような黒い血液は、フラッシュを焚いた光の加減でも、薄暗い路地裏の影の仕業でもない。全員がそう確信した。


「そんなことが有り得るのか……つまり、ノト特任警部は……暴人と対峙していたと?」


動揺しつつも冷静な姿勢を崩さない鳳堂警視正の言葉に、蛭間ははい、と静かに答えた。


「それだけではありません。重要なのはここからです、警視正」


円卓に手を付き、鳳堂警視正を見つめる蛭間の瞳はいつになく真剣だった。会議室中にスルメを食べ出す彼女とは別人のような堂々たる出で立ちに、鳳堂警視正の背筋は自然と伸びる。


「聞こう」

「……M細胞の研究、並びに暴人の鑑識を専門に行う暴人課・特殊鑑識班。彼らに、二つの血液のDNA鑑定を行ってもらいました。一つは、団子の串から採取した血液。もう一つは……殺害された大月 春名さんの遺体近くに残された、血文字のメッセージから採取した血液」

「おいおい、蛭間お前……いつの間に」


それは聞いてないぞと言わんばかりに、安田が身を乗り出した。


「蛭間もなかなか仕事が速いでしょう?……まあ、バケモノ並に仕事が速いのは、特殊鑑識班の皆さんですがね」

「それで……結果は出たのか?蛭間」


重厚な口調で尋ねた鳳堂警視正に、にこやかだった蛭間の表情は一変する。いつも細めている目は開かれ、金色の瞳が鈍く光った。蛭間は何も言わず、そのままゆっくりモニターに視線を移しリモコンのボタンを押した。カチリという音だけが会議室に響き渡る。


モニターに映し出された一枚の紙。DNA鑑定の結果を表しているそれに、会議室中の視線が集まった。


「“特鑑”の方々が仰っていました。『暴人化した人間のDNAは、配列がグチャグチャになる分人よりもずっと複雑になるが、それは指紋のように正確に、個人を特定する材料になり得るだろう』と」


《一致率 99.97% 以上二つのDNAは、同一のものと判断する》


空気の流れる音すら聞こえてきそうな静寂が、辺りを包み込んだ。開いた口が塞がらないといった様子でモニターを見つめる班長らは、ギギ、と音がしそうなほどぎこちない動きで鳳堂警視正に顔を向けた。

目眩がする。鳳堂警視正は自分に改めて言い聞かせるように呟いた。


「ノト特任警部が対峙した不審人物と……女子中学生を殺害し、メッセージを残した犯人は同一人物」

「……このDNAは、15日に西区繁華街で起きたホームレス殺人事件の血文字とも、一致していました」

「どちらも……同一犯による犯行か?」


恐る恐る聞いた鳳堂警視正に、蛭間は頷いた。


「残されたメッセージが、犯人自身の血液で書かれたものである可能性は極めて高いです。理性を持った暴人、“生ける屍”の存在が、かなり現実味を帯びてきている」


会議室にはもう誰も、“生ける屍”の存在を否定する者はいなかった。皆が息を飲む静寂を切るように、鳳堂警視正は口を開いた。


「……分かった。では、その“生ける屍”の捜索だが……」

「失礼。一つ思い当たる節があります」

「まだあるのか」


挙手した蛭間に、鳳堂警視正は組んでいた両手をほどき、両手で円卓をついた。辛そうに目頭を抑えてから呟いた。


「……聞こう」

「はい。大月春名さんとは別件で、1週間ほど前から行方不明になっている男性がいまして」


そう言って蛭間はリモコンを押した。モニターに大きく映し出されたのは、一人の男性の顔写真と、個人情報の載った資料である。顔写真には、眼鏡をかけた人の良さそうな印象の男が写っていた。


「河内奏太(かわち そうた)さん、22歳。都内の大学で法学を専攻する学生です。奏太さんは12日の朝に外出したきり、家族や友人と音信不通になっています」

「それが、この件と何か関係が?」

「これはまだ推理の段階ですが、彼が事件と関わっているような気がしまして。というのも、春名さんが殺害された現場付近の防犯カメラに、奏太さんらしき人物が映り込んでいるのを発見したのです。そのカメラが設置されていたのは店の裏口。人一人が通れるほどの、狭い路地です。わざわざ入り組んだ西区繁華街の路地を使って移動する大人なんていうのは、野良猫か酔っ払い、不審者ぐらいのものでしょう。そして奏太さんがカメラに映ったのは18日の午後15時30分。……春名さんが友人とはぐれ、殺害されたと考えられる時間とも重なる」


鳳堂警視正は、顎に手を当てた。


「つまりその男が酔っ払いの男を襲い、ホームレスの男と大月春名さんを殺害した張本人で、理性を持った暴人……“生ける屍”だと言いたいのか?」

「不審火が起きた現場と、大月春名さんの遺体が見つかった現場は200メートル圏内にあります。走って移動すれば十分犯行は可能です。奏太さんが行方不明になった12日以降に、立て続けにホームレスと女子中学生が殺害される事件が起きたのも、なにかの偶然ではないように思えます。それに……」


まだ何かあるのか──。既にかなり胃を痛めていた鳳堂警視正は内心うんざりとしていたが、顎に添えていた手を下ろして顔を上げた。


「河内奏太さん。ちょうど防犯カメラに映った直後の18日午後15時半頃に、うちの警官が接触しています」

「なんだと……!?」


鳳堂警視正は驚きのあまり、柄にもなく声を張り上げた。


「夕方近くで人が多かったため、私は彼の顔を確認することは出来ませんでしたが。うちの新米警官、真実也基によれば、彼は横の路地から飛び出してきたそうです。身長や顔つき、そしてこの眼鏡。行方不明の河内奏太さん本人で間違いないと、本人も言っていました」

「河内奏太……確かに彼の動向は怪しいな。事件に関わっている可能性は高いだろう。蛭間班は真実也基を同行させ、再び西区繁華街の捜査に当たってくれ」

「ちょっと待ってください、鳳堂警視正」


鳳堂警視正が言い終わった直後、一人の男が挙手をした。不満そうに眉を下げる、印南班班長、印南(いなみ)寛人であった。


「二度も同じ地域で殺人を犯しているのなら、犯人はとっくに逃亡しているのではないでしょうか。同じ西区繁華街を捜索しても、犯人が見つかるとは思えません」

「それはどうだろうな、印南警部補」

「……と、言いますと?」


鳳堂警視正は銀縁メガネのフレームを中指と親指で引き上げながら言った。


「とっくに逃亡する犯人ならば、最初にホームレスを殺害した15日時点ですでに逃亡しているはずだ。しかし犯人は逃亡せず、あろうことか同じ地域で二度目の殺人を行った。それはつまり……『逃亡できない何かしらの理由』があったんじゃないか?」

「それは……」

「私もそう思います」


いつのまにか椅子に深く寄りかかり、足を組んで座る蛭間が口を開いた。にこにこと感情の読めない笑顔を、印南に向けている。


「一体、どんな理由があるというんですか」

「それをこれから捜査しに行ってもらうんだ。蛭間と、それから……安田。頼んだぞ」

「エッ、なんでまたうちの班なんですか……!?」


すっかり気を抜いて座っていた安田は、ガタリと音を立てて座り直した。切らずに放置され影になった前髪の隙間から、うっすらと動揺の瞳が見える。


「ホームレスの殺人事件と女子中学生殺人事件の現場担当をしたのはお前の班だけだ。どうか協力してやってくれ。それにお前の班には“犯人を探すのに最適な人材”もいるからな……言っておくがこれは依頼ではなく、上官命令だ」


鳳堂警視正により釘を刺された安田は、う。と言葉を詰まらせると、観念したように返事をした。


「……はい、警視正」

「警視正!どうかこの私、百目鬼班も同行させてください!」


百目鬼徳間は、勢いをつけて立ち上がった。空気が揺れるほどの敬礼をする。彼の瞳は“生ける屍”を追う特殊対策班というよりも、娘を持つ父親としての正義感に燃えていた。


「百目鬼班、今日は日直警邏の担当日じゃないですか。デバニーランドの。どのみち無理でしょう」

「むむ……そうか……。……蛭間貴様、今“どのみち”と言ったな?どういう事だ」

「おや。言いましたか?そんなこと」

「お止めなさい。喧嘩なら会議室の外でやってちょうだい」


蛭間と百目鬼の小競り合いを一喝するように、黒川班班長、黒川椿は資料から視線を移すことなく厳しく言い放った。


「……ということだ、百目鬼班は日直警邏に当たるよう」

「……はい、警視正。……蛭間!お前は一度犯人を見過ごしている。安田警部と共に“必ず”犯人を捕まえろ。いいな?」

「まぁまぁ、百目鬼」


宥める印南も気にせず、二本指で蛭間を指差し鬼の形相で威圧する百目鬼に、蛭間はようやく左右に揺らしていた椅子の回転を止めた。

組んだ手に顎を乗せ、狐のように目を細めた笑顔で同期・百目鬼徳間を見上げた。



「何様?」





* * *





「僕だけで良いんですか?」

「君だけで十分なんだよ」


真実也基と蛭間要は、西区繁華街入口付近に立つコンビニエンスストアの喫煙所にて待機していた。煙草の煙を燻らす蛭間から逃れるため、煙の流れとは反対方向に立つ。


「蛭間班長。なぜ現地集合なのでしょうか?同じ特殊対策班なんですから、駐車場で落ち合って、車で資料を見ながら向かった方が無駄が無いと思うのですが」

「ごもっとも。私もできればそうしたかったんですけどね」

「ええと……何か問題でも?」

「見れば分かります」


蛭間の返答に首を傾げつつ、真実也は気を取り直して口を開いた。


「……それにしても、本当に犯人はまだこの繁華街にいるのでしょうか。“逃げられない理由”があるにしても、二度も犯行に及んでいますし……」

「ああっ!安田さんいましたしましたーっ発見!」


ピンと張った声が右方から聞こえ、真実也は蛭間越しに“それ”を見た。艶やかな黒髪を靡かせて全速力で走ってくる──いや、突進してくるのは、黒いパンツスーツとネクタイを身にまとった女警官だ。女はなぜかスピードを緩めることなく、二人目掛けて突っ込んでくる。


「え?うわっ!」


直前で、蛭間は一歩後退し女をひらりと避けた。自動的に標的になった真実也に、女は突進する。真実也はその勢いに押され、後ろに押し倒され尻もちをついた。勢いよく身を起こした女警官は、大きな真紅の瞳をギラギラと瞬かせている。


「苦手なんですよね、躾のなってない騒がしい犬」


煙草を咥え笑みを浮かべながら、蛭間は明らかに女警官に向けて言った。


「危ねぇなぁ。おい能木ィ。いつまで乗っかってんだ」


後ろから遅れてやってきた男により、彼女は引き剥がされた。ぼさぼさの髪とグリーンの作業服を黒いスーツの上に着た男は、尻もちをつく真実也に手を貸す。


「うちのが悪いな。怪我は無ェか」

「は、はい」


ようやく立ち上がると、能木と呼ばれた女警官はうずうずと落ち着かない様子で真実也と蛭間を交互に見ている。意外にも、人形のような端正な顔立ちをしていることに驚いたが、真実也の中での彼女の印象は「突進してくる女」から変わることはないだろう。


「“狂犬”を連れて出かけるのなら、リードくらい付けたらどうです?安田警部」

「部下を犬に例えるクセどうにかなんねぇのか。まぁ……ぶつかった件に関しては謝るが」

「どうして謝ってるんですか?」

「はァ〜っ。お前のせいだ、バカ」


安田は能木の頭を強制的に下ろし、謝らせた。未だ状況が飲み込めていない様子の真実也に、安田は首の後ろをさすりながら口を開いた。


「安田特殊対策班班長の、安田整一(やすだ せいいち)だ。こっちはお前さんと同じ新米の、能木一七子(のぎ ひなこ)巡査」

「能木です!よろしくお願いします!蛭間班の方々ですよねぇ!?背ぇおっきくてかっこいいなぁ〜!能木、憧れちゃいますっ」

「うわ……」


敬礼をしながらマシンガンのように喋り出す彼女に、真実也は困惑した。苦手なタイプである。


「悪いな、こいつは馬鹿だがすぐ慣れる」


班長・安田整一は、能木の首の後ろを掴みながら言った。







「ホームレスの殺害が行われたのは、この辺りだ。対して、不審火と女子中学生殺害が行われたのはここ。特に計画性は無ぇように思えるな」


地図で丸印がされた資料を見ながら、繁華街のメインストリートを並んで歩く蛭間と安田。その両隣には、それぞれ真実也と能木が資料をのぞき込む形で見ている。


「うっわぁ。グロいですねぇ〜!」

「吐くなら便所に行けよ、能木」


安田の資料を興味津々でのぞき込む能木は、ホームレスの遺体と、女子中学生の遺体の写真資料を見比べた。彼女の赤い瞳がぎょろぎょろと動くのが少し不気味だと、真実也は感じた。


「どっちもずたずたのボロボロですけど、なんていうか、こっちのJCのご遺体の方がヒドイっすねぇ〜」


蛭間は首を傾けて安田の資料を読み上げた。


「ホームレスの男性の遺体の刺し傷は16箇所。対して女子中学生の遺体の刺し傷は……36箇所、ですか」

「こう何度も何度も刺すってんなら、まず決まって怨恨殺人の線を疑うんだが……女子中学生を襲う前、犯人は酔っ払いの男も襲おうとした。これは結果的に未遂に終わったが、この動きは標的が定まってる奴の動きじゃねぇな。標的は無差別に決められている……となると残されてるのは……」

「快楽殺人ですか」


顎に手を添え、安田に続いてそう言った蛭間と同様に、真実也も考え込む。それ以外は考えられないのだろうが、不思議と何かが腑に落ちない。そんな気がしてならなかった。


「安田さぁん。あのぅ能木、気になったんですけど」


安田の腕に体重をかけながら、能木は遺体写真を穴のあくほど見つめている。


「おう、何だ」

「なんでしょうね〜っ、能木はこのJCのご遺体のキズには、強い“ショウドウセイ”を感じるんですが」

「……衝動性?」


話半分に聞いていた安田が、能木の方を見る。能木は瞬きをせず、ぐりぐりとした赤い瞳で女子中学生の遺体写真を見つめて言った。


「なんと言いますかぁ。まるで、ようやく獲物にありつけた獣みたいに」


細長い指の腹で女子中学生の遺体写真を囲むようになぞりながら、能木は呟いた。写真に視線を落とすことで、長いまつ毛が伏せられる。



「夢中になって……貪るように殺してる。と言いますか」



一瞬の真顔の後、能木は屈託の無い笑顔を安田に向けた。その表情に安田の表情は一瞬不快そうにたじろぐが、すぐにため息をついて顎の無精髭をかいた。


「……悪ィな。こいつ、気味悪ィ独特な感性してやがんだ」

「え?へへ!それほどでもないですよぉ!」

「褒めてねぇんだよ」


独特な空気感でやり取りをする二人を他所に、蛭間は何やら考え込んでいた。


「“貪るように殺してる”……か。真実也君。君はどう思います?」


いきなり蛭間に話を振られた真実也は、思わず背筋が伸びた。頭の中で犯人の動向を整理し直し、推理してみる。正直あまり自信は無いが、何も言わないよりはマシである。


「そ、そうですね。確かにホームレスのものと比べると、こちらの遺体の方が明らかに傷が多いです。女子中学生を襲う前に酔っ払いの男を襲い損ねていることを考えると……犯人は自分の予定を狂わされて、気が立っていた……とかでしょうか」

「気が立っていたために、その腹いせに女子中学生を滅多刺しにした。ということですか」

「そ、そういう推理もできるのではないでしょうか……確証は、持てませんが」


真実也がそう言うと、能木は目を輝かせて安田の腕から体を乗り出した。


「うおーっ、真実也氏スゴいですなぁ!能木もなんか推理したくなってきました!」

「あーあー、面倒なことになるからやめろ。それより能木、お前の仕事はコレだ」


ぴょんぴょんと飛び跳ねる能木の肩を押し込みながら落ち着かせると、安田は作業服の胸ポケットから、蓋付きの試験管を取り出した。大人の親指ほどの大きさの試験管には、黒く染まったガーゼのようなものが、筒状に収められている。常に口角が上がっている能木の表情が、一気に曇りだした。真実也は彼女の反応を不思議がりつつも、安田の手にしているそれを見て言った。


「安田警部。それはなんでしょうか?」

「犯人が現場に残した血液だ。俺はもうとっくに犯人は街を出てると思ってるが……一か八か、やってみるぞ」


安田はピンセットで試験管の中のガーゼをつまみ出すと、能木に向けた。能木は鼻をつまみ、顔をくしゃくしゃにして嫌悪感を露わにする。


「ウエーッ。暴人の血の匂いって超個人的にキライなんですよぉ!もしかして能木をここに連れてきたのって……そういうコト!?」

「それ以外ねぇだろ。さっさと嗅げ」

「イヤッ!触らないでッ」


ギャーギャーと軽い小競り合いが勃発している二人を、真実也は訳が分からないまま見ていた。


「班長……彼らは何をしているんでしょうか」


そう呟き、説明を求めるように恐る恐る蛭間の方に視線を向けると、蛭間はいつもの笑顔のまま口を開いた。


「安田特殊対策班。『狂犬』 能木一七子」

「きょ、きょうけん?」

「彼女がそう呼ばれているのは、単にヤベェ奴だからというのもありますが」


蛭間は真実也の方に首を傾け、人差し指で自身の鼻を数回つついた。


「彼女、“ここ”が犬並に良いんですよ」


小競り合いを制した能木は安田を背負い投げすると、ずんずんと蛭間の方に歩み寄った。なぜだか、相当腹を立てている様子だ。


「ちょっとちょっとぉ!いくらイケメンだからって、“狂犬”なんて呼び捨てしないでくれます!?せめて可愛く、“狂犬ちゃん”って、呼んでくださいっす!」









班長不在の、蛭間特殊対策班オフィス。みちる、ノト、ミフネの三人は、資料整理を一段落終えて小休憩をとっていた。オフィス入口から左手にある休憩スペースのテーブルには、茶や菓子が並べられていた。


「他の班も協力するって言ってたけど、ほんとに二人だけで大丈夫なのかな〜」


みちるはそう言いながら、ティースプーン一杯分の蜂蜜を入れてハーブティーをかき混ぜた。黄金色に輝く液体に、蜂蜜がとけてゆく。


「少し心配ではありますよね。優秀とはいえ、真実也君もまだまだ新人さんですから」


ミフネは白い紙ナプキンを広げると、ケーキを貪るノトの膝の上に丁寧にかけた。


「なんだか大変な事件に巻き込まれちゃったよね〜。理性を持った暴人なんて超怖いもん。ハジメちゃん、もし出くわしたらビックリして固まっちゃうかもね!」

「そうですねぇ。少し早いですが、そろそろ真実也君やみちるさんも、実際に暴人を“解放”する実践を詰んだ方が良いかもしれません」

「暴人を“解放”する実践ね〜。……って、えっ?」


ハーブティーに口をつけようとしたみちるは、ミフネの発言の違和感に気がつくと、カップを顔から離して声を上げた。レモン色の瞳を数回瞬かせる。


「暴人の“解放”なんて、私もハジメちゃんももう普通にやってるよ?」

「ハハハ。そんなぁ、ご冗談を!」


ジョークだと思ったのか、ミフネはヘラヘラと笑っている。


「そんなハズが……」


みちるはさらに、ゆっくり数回瞬きをする。ノトがケーキを貪る「もっもっ」という音と、壁掛け時計が時を刻む音だけがオフィスに響く。


「……あるの、ですか?」


ミフネの表情から徐々に、笑みが消えていった。首筋にうっすらと汗までかいている。


「そ。そんな。“もう普通に”と、仰いました?」

「えっと……うん」

「ということは、いつ頃から?」


ミフネは問い詰めるように、みちるの座っているソファに腰をかけた。ふかふかのソファに彼の体重がかかったことで、みちるの座高が少し上がる。いつになく焦っている様子だった。みちるは視線を上に泳がせた。


「ええっと……割と配属されてすぐだよ。ハジメちゃんなんかは、配属されて三日目くらいで撃つことになったんだけど、撃てなくてひるるんから異動願渡されたって。結局その二、三日後にはじめて“解放”できた……って……」

「三日目?異動願?一週間足らずで“解放”?」


わなわなと震えたミフネは、真っ青な顔で立ち上がった。その後すぐに頭を抱え、よろよろと座り込む。ノトはミフネの分のケーキにも手が伸びる。


「し、信じられない……!蛭間さんは何を……何を考えていらっしゃるんだ!?」

「わ、私も正直、早いかもな〜って思ったんだけど。それってやっぱり普通じゃないの?」


蹲るミフネの肩をつついたみちるに、ミフネはげっそりとした表情で顔を上げた。


「早い……いくらなんでも、早すぎます。暴人の“解放”は、特殊対策班の新米警官にとって最後の関門。暴人といっても人間を殺める仕事ですから、ゆっくり時間をかけて……“解放”をする先輩の背中を見ながら、感覚を掴んでいくものなのです。どんなに早くても、初めての“解放”まで一ヶ月半は要するものなのですよ」

「そ、そうだったんだ……」

「それなのに蛭間さんは、異動願まで……!これでは『特殊対策班から出ていけ』と暗に言ってるようなものです。まさに度し難いまでのパワー・ハラスメント!皆さんがご無事で、何よりです」


ケーキに夢中になっているようでいてしっかり話は聴いていたのか、ノトはミフネの言葉に同意するように何度も頷いた。


「……どんなに優秀でも、“解放”をし慣れているといっても。みちるさんや真実也君は、まだまだ蛭間特殊対策班の新米警官。出動の際は必ず我々や蛭間さんがついていますし、貴方たちの命は保証します。が……決して無理は、なさらないでくださいね」


みちるの方に向き直り、膝に手を乗せて心配そうに言うミフネに、みちるは「ありがとう」と微笑んだ。気付けば三人で決めた小休憩の時間は、とうに過ぎてしまっていた。










「どうだ?能木」

「ウゥ〜ん」



四人は能木を先頭に、気が付けばメインストリートから大きく外れた繁華街の裏通りを捜索していた。裏通りでも、行き交う人や自転車の数は多い。能木は試験管の中のガーゼの匂いを嗅いでは顔をくしゃくしゃにさせ、周囲の空気の匂いを嗅ぐ、という動作を繰り返している。


「こっち?うーんこっちかなぁ……」

「おいおいどうした、不調だな」

「不調っていうか……なんか変なんですよぉ」

「変とは?」


蛭間が尋ねると、能木は怠そうに振り返り、身振りを添えて説明しだした。


「暴人の血の匂いはするんですけど〜。したり、しなかったりなんですよぉ」

「お前……ふざけてるんじゃないだろうな」

「そういうわけじゃないですけど……血の匂いがすると思ったらパッと消えちゃって……また匂いがすると思ったら、また消えちゃって……途切れ途切れすぎて、掴みづらいですし……なんか能木、飽きちゃいましたし」

「要するにテメェのやる気の問題か。ハァ」


安田はしょうがないとばかりに溜息をつき、首の後ろを擦りながら蛭間、真実也に目配せをした。


「まぁ……お前のおかげで、この繁華街内に犯人がいるのは確かみてぇなのは分かったな。とりあえずお手軽だぞ、能木一七子巡査」

「途切れ途切れといっても、あなたはとても優秀なので、匂いが遠いか近いか、どの方角からするかは大方分かるのではないでしょうか?大体で良いので、できるだけ匂いに近づいてみてください。能木一七子巡査」

「匂いが近くなったら、周辺を手分けして探せば犯人を取り囲めるかもしれないですね!能木一七子巡査の活躍があれば」

「え……エっ?」


能木は、安田、蛭間、真実也の三人の(意図的な)期待を一身に受ける。集中力が切れて猫背気味だった背筋は伸び、曇った表情はたちまち凛とする。能木は鼻高々、興奮したようにふんぞり返った。


「まったく……もう〜っ!能木がいなきゃなぁーんにもできないんだから!しょうがないわね、能木ィ、一肌抜ぎまーす!」

「はいはい、天才天才。がんばれよー」

「いやぁさすが狂犬ちゃんですねぇ。うちの忠犬ちゃんと交換したいなぁ〜」

「よっ、能木さんかっこいい!……え?」


能木一七子は、犬並みの優れた嗅覚を持つある種優秀な警官だが、同時に極度の気分屋で、同時に単純な性格であった。三人に煽てられた能木は表情をきらきらと輝かせ、白い頬をピンク色に紅潮させる。


「えっへへ!皆さんツイてますね!!実はさっきからこの匂い、こっちに向かって来てるんすよォ〜!めっちゃ近いというかもうほらここに」

「な、なんだって?おい待て……」


高いテンションで早口でそうまくし立てた能木は、対向して走ってきた一輪の自転車が通り過ぎる直前に、その自転車の車輪を横から思い切り蹴った。


「スミマセン止まってください警察で〜す!!」

「なにやってんだ!?」


蹴られた自転車は大きくバランスを崩して横転する。近くで歩いていた歩行者は運良く避けられたのか、悲鳴を上げこそはしたものの、倒れた自転車に巻き込まれた者はいなかった。自転車のカゴから、スーパーのレジ袋と商品がぶちまけられた。倒れても尚車輪がぐるぐると回転し続ける中、自転車を倒された本人は、ゆっくりと体を起こす。


倒れていた男はマスクをしていたが、見覚えのある眼鏡姿と目が合った瞬間、真実也は確信した。あの時自分とぶつかった、あの男であると。しかしあまりに急すぎる展開に、脳みそがまだ追いついていない。


男も同様、いきなり自転車を蹴り倒されたことで混乱している様子だったが、能木の発した「警察」という単語と、警察と思しきスーツの集団、真実也の顔を確認すると、血相を変えて立ち上がり、人をかき分けて建物の隙間へ逃げて行った。


「真実也基!奴を追え!私が回り込む」


背中を押された感覚と目が覚めるような蛭間の声で我に返った真実也は、歯を食いしばり、アスファルトの地面を思い切り蹴って男を追いかけた。

残された安田は、追いかけようと駆け出そうとする能木の首根を掴んで連れ戻した。能木の頭をわしゃわしゃと雑に撫でながら、蛭間達を目で追った。


「男は蛭間たちに任せろ、俺たちは安全第一で本部に報告だ。でかしたぞ能木」







男の頭を追いながら人混みをかき分けると、すぐに建物の隙間に入った。脇にゴミ箱、室外機が取り付けられた薄暗い路地を全速力で駆けながら、真実也は男を見失うまいと必死で追いかける。


「待て!」


男は、ものやゴミが散乱している走りづらい路地を、すいすいと進んでいく。時にゴミ箱を蹴散らして後続する真実也を妨害しようとするも、真実也はそれごと飛び越えてスピードを緩めることなく追った。一瞬人の多い大通りに抜け、また狭い路地に潜っていく。それを何度か繰り返す。体力には自信がある真実也は、息を切らすことなく男の背中を追っていった。


足を進めていくと、比較的広い路地に出た。男は身の丈以上の高いフェンスを、恐ろしいほどの身体能力でよじ登り、越えてゆく。真実也も負けじとフェンスを越えるものの、地面に着地した頃には、男は曲がり角へ消えていってしまった。


「……なんて身体能力だ」


男の身体能力に動揺しつつも、逃がすまいと全速力で曲がり角を曲がった真実也は、その光景に足を止めた。



少し開けた空間。ゴミの詰まったドラム缶や、工事の機材が端に寄せられている。中央付近には先回りをした蛭間と、地面にねじ伏せられた男がいた。蛭間は真実也に背を向け、男を地面に抑えつけている。蛭間の体越しに見えた男の両手には既に、手錠がかけられていた。


「質問に答えるだけのことが、何故できない?」


蛭間に近付こうと一歩踏み出した真実也は、這うように低い蛭間の声で足を止めた。蛭間はあろうことか、男の首を強く踏みつけていた。


「だから──おれは、そんなの知らない……!俺はただ……」


必死の抵抗をする男の首に、蛭間は力を入れた。メキ、と音がしたような気がした。苦しそうに呻き声を上げる男と、今にも折れて潰れてしまいそうな首に、命の危険を感じる。唯ならぬ恐怖を感じた真実也は思わず声を上げた。


「蛭間班長!死んでしまいます!!」


真実也の声を聞いた蛭間は真実也を振り返ることなく、男の首から足を退けた。気管を踏まれた男はゼーゼーと息をし、咳き込む。真実也は蛭間に駆け寄った。男は頬に一筋の切り傷があり、隙間から黒い血液を流していた。瞳孔は瞳を黒く塗りつぶすように開かれている。


「暴人……」


思わずそう呟いた真実也に、呼吸が落ち着いた男は今にも泣きそうな声で、叫ぶように悲痛に訴えた。開かれた瞳孔の奥に恐怖が浮かぶ。


「俺は“ もう ”暴人なんかじゃない!!」

「で、でもその血は……」

「俺は“生ける屍”なんだ!!死なずに生まれ変われたんだ、あの時から俺は。なのになんでこんな目に……ああもう、最悪だ」


意味不明な言葉を並べる男に、真実也は困惑する。蛭間は男に詰め寄ると、胸ぐらを掴み、銃を横から男の喉に突き立てた。男は撃たれるものだと酷く怯えているが、真実也の目からはそれは麻酔銃だと分かる。


「“ あの時 ”?」

「暴人化しかけた、あの時!!く、薬を……薬を打たれた!!『生まれ変われる』って言われた!!紙を、渡されてそれで」


ザシュ、という鋭い音が、人のいない開けた路地に響いた。麻酔銃の引き金を引いた蛭間は男を地面に放り投げると、銃を懐にしまった。


「……この状態では話にならないな。詳しくは、署で聞くとしよう」



午前11時10分。『薬』『生まれ変われる』『渡された紙』……謎の言葉を残したその男・河内奏太は、麻酔により深い眠りにつき、その身柄は確保された。








BLACKOUT~蛭間特殊対策班~

Sample : 07 『縋りつく』


END

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