Sample:03『ヒューリスティックが仇になる-後-』

Sample:03『ヒューリスティックが仇になる-後-』



~用語解説~


✳【欠陥者(けっかんしゃ)・欠陥品(けっかんひん)】✳

差別用語。「欠陥」と省略されることもあった。もともとは非潜伏者を差す呼称だったが、現代の教科書、一般常識では「非潜伏者」の呼び方が浸透している。時代の変化と共にかなり減ったものの、非潜伏者に対する差別意識は今もまだ根強く残っている。


【暴人(ぼうと)】

人間の体内に潜伏する細胞(M細胞)の爆発的な増殖により、理性を失い凶暴化した人々。その現象はしばしば「暴人化」と称される。


【M細胞】

暴人化の原因になる、人間の身体中に微量に点在している細胞。別名「潜伏性狂気細胞」。一度分裂を起こすと爆発的に増殖する性質があり、体内の細胞をも喰らい尽くしやがて死に至らしめる。分裂の原因は未だ解明されていない。


~組織・人物紹介~


【特殊対策班】

警視庁公安部 暴人課に属する組織。基本4~6人の班で捜査をする。暴人の周囲の人々の安全確保と共に、暴人の“解放”を目的としている。近年、とある事件がきっかけで、特殊対策班の班員は皆「非潜伏者」のみに絞るよう徹底されている。


【真実也 基 (まみや はじめ) 巡査】

警視庁公安部 暴人課 特殊対策班の新米警官。生まれつき体内にM細胞を有していない特異体質、「非潜伏者」であることもあり特殊対策班に配属される。一人暮らしを初めてから独り言が増えた。


【蛭間 要(ひるま かなめ)警部補】

蛭間特殊対策班 班長。物腰柔らかで掴みどころのない性格。目を細めて常ににこにことしている。楽器演奏がド下手。


✳【花園 みちる(はなぞの みちる)巡査】✳

蛭間特殊対策班の新米警官。非潜伏者。お洒落と可愛いものが好きな今どきのギャル。撃った弾の穴に再び撃った弾を貫通させることが出来るという射撃の名手でもある。たけのこ派。



─────────────────────


『BLACK OUT~蛭間特殊対策班~』




Sample:03


「ヒューリスティックが仇になる-後編-」



警視庁本部の屋上は夕焼けの赤に照らされていた。錆びてざらついた鉄格子に肘をつき、眩い夕陽がビルの群れの隙間に沈んでいく様子を、真実也基はぼんやりと眺めている。穏やかな風が泣き腫らした彼の瞼と短い黒髪をかき分け、額を撫でた。


 つい数時間前のできごと。暴人・佐々木樹の最期の表情と言葉を思い出す度に、真実也の胸はきつく締め付けられるように痛んだ。致命傷を負い一時的に理性を取り戻した彼の姿は、自分と何ら変わらない。震えながら発せられた声、生に縋る目、助けを乞う左手、新品のように輝く、小さなダイヤの煌めき。その全てが余すことなく、“人”だった。



『優しさが“人”を殺す。君のその良心が、何よりも彼らを苦しめる』


 あの時頭上からきこえた蛭間の言葉の一語一句が、音を立てて全身に刺さる。とどめを刺すことができなかった。死ぬ運命にある暴人──佐々木樹に、「生きたい」という希望を持たせてしまった。それがどれだけ残酷なことなのか。真実也は自身の不甲斐なさと、それでも尚付きまとう殺人への抵抗感に、思わず唇を噛み締めた。強く噛み締められた唇からは血の味がする。


「こんなところに」

「……蛭間班長」


 音もなく、ふらりと自身の右隣に現れた相手を見て真実也は呟いた。ビルの隙間に飲み込まれていく太陽を眺める、蛭間要だった。

 赤い夕陽に照らされ、二人の背後には黒い影が落とされる。二人はしばらく何も言葉を発さないまま、赤い空と黒いビルの海を眺めていた。やわらかな風が二人をすり抜けていったその後に、蛭間はため息をつくように煙草の煙を吐くと、ようやく語りかけるように口を開いた。


「先ほどは、厳しいことを言ったね」


 またしばらく沈黙が続く。蛭間の白金色の髪が風に弄ばれているのを、真実也は横目で見る。


「嫌な仕事だよ」


 真実也は意外そうに目を開き、顔を蛭間に向ける。


「班長でもそう思うんですか?」

「当然」


 蛭間はそう言って目を細めた。笑っているのか、夕日の眩しさに目を眇(すが)めているのか分からないが、依然として真実也の方を見ずに沈んでいく夕陽を眺めている。前髪の隙間から見える金色の瞳に夕陽の赤が反射するのを、真実也は盗み見る。蛭間はまた静かに口を開いた。


「殺すことを受け入れなければならない。それが特殊対策班の正義なんだ。暴人の”解放”は誰かがやらなければならない仕事だが、順応できない者は気が触れるか、死ぬか……」


 淡々と独り言のように話す蛭間の表情は、相変わらず読めない。真実也は鉄格子に置かれた自身の手の甲に点々と固まる、暴人の血の飛沫を眺める。乾いた唇の隙間から言葉を漏らした。


「暴人を”解放”する方法は、本当にそれしかないんですか?他にも、良い方法が……」

「暴人を苦しませることなく殺すこと。残念ながら、それが彼らに残されたただ一つの”救い”だよ。だから我々は殺しを躊躇してはいけないんだ」


 一呼吸置いてから、蛭間は静かに付け加えた。


「中途半端な優しさや躊躇は死に直結する。厳しいことを言うようだが、それが事実だよ」


 蛭間はそう言って上着の内ポケットからあるものを取り出した。紙が三つ折りにされたものを真実也に手渡す。受け取った紙を広げると、上中央に黒のフォントで印刷された「異動願」の3文字が真っ先に目に飛び込んできた。真実也は息を飲んで顔を上げる。


「これは」

「もちろんこれは君が望むなら、だ。明日の朝に答えを聞く。どちらになろうが、私は君の正義の形を尊重するよ。必要ないなら捨ててしまっても構わない」


 蛭間は去り際に真実也の右肩に自身の手を乗せ、耳元に顔を近づけて囁いた。


「ただし特殊対策班員としてやっていく選択をするのなら、今の君のままでは命がいくつあっても足らない。“覚悟”を持って、決めてくれ」


 吹きあがった風で蛭間の前髪が靡いた。前髪の下に隠れていた鷹のような眼光に、真実也は射止められた獲物のように動けなくなる。

 蛭間は真実也の肩に置いていた手を離し咥えていた煙草を取ると、屋上入口に向かって歩き出した。真実也が蛭間の名前を呼ぼうとするとほぼ同時に、「一つ参考までに」と蛭間は左手を上げた。彼は半身だけ振り返ると微笑みながら言った。


「自分が何のために警察官になったのかを辿れば、自ずと道が見えてくるはずだよ」


 そう言った蛭間は、お疲れ。とヒラヒラ手を振り屋上から出ていった。落ちていた太陽はいつの間にかビルの陰に完全に飲み込まれたようで、屋上は薄暗い青に染まっていた。







 暴人の血は少し特殊で、ぬるま湯や水ではなく、氷水でないと落ちない。帰宅した直後に自身の腹部辺りに飛び散った暴人の血に気が付いた真実也は、上着とシャツを脱いで脱衣所に移動した。水を半分入れた洗面器に水面が隠れるほどの氷を浮かべ、血の付着したシャツを浸す。数回生地を氷ごと揉むと、徐々に黒が抜けていくのが分かった。冷たい氷水に手を浸し続けたことで手が赤らんで痛む。しかし真実也は構わず、何かに取り憑かれたようにシャツを擦り続けた。なにか作業をして気を紛らわしていたかったのだ。


「……よし」


 十五分もすれば、墨色に濁った氷水と引替えにシャツは元通りの白さを取り戻していた。真実也はシャツを絞り、洗濯機に入れる。脱いだ上着に手をかけようとすると、上着の内ポケットからはみ出たハンカチに気が付いた。蛭間から借りている白いシンプルなハンカチを手に取ると、想像以上に血が付着してしまっていたのがわかる。自身の顔を拭いた覚えはないにも関わらず、布には黒いぼんやりとしたシミがいくつかついている。手に取った時に着いてしまったのと、汚れたスーツに擦れてついてしまったのだろう。真実也は洗面器の水を入れ替え、ハンカチを洗うことにした。


  しかし今度は先ほどのように無心にはなれず、ハンカチの生地を一揉みするたびに仕事のことばかり思い出してしまう。その内容は専ら、去り際に蛭間が言った言葉についてだった。



「何のために警察官になったかって……?」



 思わず独り言を漏らしつつ、冷たさで痛む手に顔をしかめながら手を休めることなくハンカチを擦る。水に浮かぶ氷のガラゴロという音が、脱衣所に響き渡る。


「そんなの、決まってるじゃないか」


 ハンカチに染み付いた血がじんわりと水に溶けて浮いてくる。


「僕は」


 答えはすぐ出てくるものだと思っていた。しかし、真実也の手はそこで止まった。そこから先の言葉がどうしても出てこなかったのである。真実也は目を数回瞬かせ、額から狼狽の汗を一筋流した。時が止まったような感覚を得る。


「……僕は何のために、警察官になったんだ……?」


 特殊対策班になってから一度も考えることはなかった。適応することに手一杯だった毎日を繰り返していた真実也は、その間に何か大切なものをどこかに置いてきてしまったような、どうしようもない喪失感を覚えていた。


 血を洗い終えて食事とシャワーを適当に済ませた真実也は、ベッドに仰向けに寝そべり天井を眺めていた。視線を机の上に移すと、ペンを文鎮代わりに折り目のついた異動願の紙が置かれている。


「……ダメだ、このままじゃ」


 真実也の体は想像以上に疲弊していた。暴人・佐々木を“解放”したのが数日前のことのように感じる。ボロボロになった体が布団に沈み込み、真実也の意識は徐々に遠のいていった。




* * *



 どこからか、声が聞こえる。


─『知ってるか?非潜伏者は悪魔なんだぜ』


 小学生くらいの子どもの声だ。


─『ちがう!』


 それに反抗するように、一人の少年が一際大きな声で言い返した。霧がかったような視界が鮮明になっていくと、そこには複数人の少年たちと、その反対側に一人の短髪の少年が対立するように向き合っている。真実也はその短髪の少年をどこかで見た事がある気がした。少年グループの一人が、リーダー格であろう少年の背後から顔を出しながら言った。


─『非潜伏者は暴人にならないけど、そのかわり生まれつき凶暴な奴が多いんだって。犯罪者が多いって、父ちゃんも言ってた。“欠陥品”なんだよ、お前』

─『ちがう、そんなのウソだ!』

─『うるさい!』


 短髪の少年がリーダー格の少年に掴みかかろうとするも、自分よりも体格の良い相手に適わず勢いよく突き飛ばされてしまった。真実也はすぐに制止に入ろうと声を出そうとしたが声は出ず、傍観しているのに近寄ることが出来なかった。短髪の少年は突き飛ばされた勢いで倒れ込み、ランドセルの中身が地面にばらまかれた。


─『ほら、やっぱり凶暴だ』


 少年グループは声を上げて笑うと、そのうち一人がランドセルから出た一冊の本を手にした。表紙には敬礼した警察官の写真が印刷されており、『警察官のしごと』というタイトルが、子どもにも分かる振り仮名付きで記されていた。


─『げっ!こいつ、警察官になりたいのかよ』

─『やめろ、返せっ』


 立ち上がった短髪の少年は本を取り戻そうと手を伸ばすが、背の高い少年が本を頭上高く上げたことで取り返すことが出来ない。リーダー格の少年が意地悪そうに顔を歪めて短髪の少年に言い放った。


─『人を救う警察官になんて、お前なんかがなれっこないね』



『だってお前、“欠陥品”なんだから』



 少年の言葉が頭の中で一際大きく響いた。その瞬間、ノイズの様なものがやかましく視界を遮り、急降下するような浮遊感に包まれ、真実也は苦しさで目を瞑った。


─『怪我はなかった?』


 ドスン、と椅子に座らされたような衝撃を覚えた真実也が目を開けると、ノイズは晴れ、場面が変わっていた。土手のような場所に、先ほどの短髪の少年と一人のスーツ姿の男が座っていた。男の顔は靄がかかっていてよく見えない。男の問いかけに、少年は静かに頷いた。


─『さっきの奴らに何か言われた?』

─『……非潜伏者は警察官になれないって。僕は欠陥品だから』

─『おお、酷いな』

─『非潜伏者は生まれつき、凶暴なんだって。だから人は救えないって』

─『……そんなの、暴人にならない非潜伏者を僻んだ奴が流したデタラメだよ。気にするな、少数派を叩きたいだけなんだから』


 俯いて涙を流す少年の頭を、男は慰めるように撫でた。


─『……おれはむしろ、君みたいな非潜伏者が警察官になったらすごく心強いけどな』

─『え?』

─『だって、暴人になる可能性が無いんだろ?おれの働いてるところは暴人を……』


 そう言いかけたところで、男はなにかに気づいて握りこぶしを作り、大げさに咳払いをして誤魔化した。


─『……ちょっと言えないところなんだけど。とにかく、非潜伏者にはうってつけなんだ』

─『お兄さん、警察官なの!?』

─『ん、言ってなかったっけ』

─『しらない!すごい!』

─『君声大きいなぁ、はは』


 興奮して目を輝かせる少年を見た男は頭をかいて、困ったように笑った(表情は見えないのだが、そんな気がした)。その後真剣な表情になると、視線を落として言った。


─『おれは潜伏者だから、いつ暴人化してもおかしくない。警察官なんて人を救う仕事をしておきながら、いつ自分が仲間や大切な誰かを傷つけるか分からない怖さと常に闘ってるんだ。仲間がもし、自分の目の前で暴人化したら……っていう怖さと同時にね』


 男は顔を上げて少年に向き直った。それでも顔はよく見えない。


─『でも非潜伏者なら……君なら、その心配がないんじゃないかって。確かに、身内が暴人化する怖さは変わらずあるだろうけど、自分が暴人化して人を傷つけることはないんだろ?ちょっと大袈裟かもしれないけど、人は誰しも誰かを傷つける素質を持って生まれてくる中で、君は誰かを救いつづける素質を持ってるんだよ』

─『ええっ、僕が?』

─『そうだよ。人を救えないだなんてとんでもない。君のその素質が必要とされる時代は必ず来る。君は生まれながらのヒーローだからね』


 男はそう言って、片目を閉じてウインクをした。


─『僕が、ヒーロー……』

ー『うん、おれが保証するよ』

ー『それほんと?嘘じゃない?』

ー『少なくともおれはそう思ってる』


 話を聞いていた少年の顔はみるみるうちに喜びで満たされ、興奮で頬を紅潮させていた。男は笑顔で頷くと、言いづらそうに人差し指で頬をかいた。


─『……と、こんなこと言っておいてなんだけど、おれのいる部署はとんでもなくハードだから、あまりおすすめはしないかな……』

─『なんていうところ?』

─『ん、ちょっと言えないなぁ』

─『じゃあお兄さんの名前は?』

─『おっ、それは言える。──……──』

─『なにそれ、…どっち?』

─『はは、よく言われる。君の─……名前は?』

─『僕はね……



真実也 基』


 少年の口から名前を聞いた瞬間、少年の周りにかかっていた靄が晴れた。黒い短髪、黒目がちで少しつり上がった目。いつも泣き腫らしていた顔。

 強い風が吹いて真実也の髪を揺らした。そうだ、あれは自分だ。これは幼き日の思い出だ。何かの周波数がバチリ、と勢いを持って合ったように、真実也は衝撃を受ける。すると直後に、先ほどの場面で走ったノイズと同じものが再び真実也の視界を埋めつくしていった。


 けたたましいノイズの音と背中から吸い込まれて落下するような衝撃に、真実也は飛び起きた。そこは夢の中ではなく、ベッドの上だった。カーテンの隙間から覗く控えめな青が日の出前を感じさせる。肩で息をし、額を伝う汗と鳴り止まない心音を真実也は半身を起こした状態で押え、呼吸を整えた。視線を移すと、机の上には例の異動願が昨晩と姿を変えずに置かれている。


『何のために警察官になったのかを考えれば、自ずと君の進む答えが見えてくるはずだ』


 耳元で囁かれた蛭間の言葉を思い出す。頭の中で次々と光景が浮かび、言葉がフラッシュバックする。俯き、知らぬ間に握りしめていたベッドシーツを見る。



─『人を救う警察官になんて、お前なんかがなれっこないね』

─『君は誰かを救いつづける素質を持っている』


─『だってお前、“欠陥品”なんだから』

─『君は生まれながらの、ヒーローだからね』


「そうだ」


 真実也は静かにベッドから降りると、寝起きでふらつく体に構うことなく机に向かって歩みを進めた。未だ白紙の紙を手に取る。


「僕はその“誰か”を救いつづけたくて。ヒーローになりたくて」


─警察官になったんだ。


 彼の中できつく結ばれたものが解けていくような気がした。カーテンの隙間から徐々に光が差し込んでゆき、太陽は薄暗い室内に朝を告げた。





「おはようございます!蛭間班長」

「おお。どこぞのハチ公かと思いましたよ」


 朝の班長会議を終えた蛭間がオフィスに向かった頃には、真実也基が入口で正座をして待っていた。蛭間に気がつくと勢いよく立ち上がり、敬礼をする。昨日とは明らかに違う光を放つ彼の瞳を見た瞬間、蛭間は悟ったように目を細めて笑った。


「答えが出たみたいで良かったです」

「はい」

「紙、きちんとリサイクルに出しましたか?」

「もちろんです」

「よしよし、よくできました」


 そう言ってオフィスに入っていく蛭間に、真実也もついて行く。班長デスクに腰をかけると、蛭間はタバコの煙に火を点けながら言った。


「……“覚悟”を持ったということで、いいんだね?」


 真実也は未だに、いきなり変わる蛭間の低い声色と雰囲気に慣れずにいた。背筋が自然と余計に伸びるのを感じる。しかし煙を吐きながら視線をこちらに向ける蛭間に怖気付くことなく、真実也は彼から視線を逸らさない。真実也基はビシ、と音が鳴るほどの敬礼をし、大きく息を吸った。


「特殊対策班としての私の仕事は、暴人の“解放”です。たとえ救える手段が一つだとしても……それが自己の正義に反するものだとしても。その行為が彼らにとっての救いとなり、“解放”に繋がるのなら、私は“私の正義”を捨てる、その覚悟を持ちます。」


 真実也はつかつかと蛭間に歩み寄り、蛭間の咥えていた煙草をひったくった。傍に置いてある灰皿に煙草を押し付けて消すと、懐から真っ白のハンカチを取り出して蛭間に差し出した。


「もう一度僕に、“解放”のチャンスを頂けませんか」


 蛭間は表情の読み取れない顔で真実也を見つめると、静かに立ち上がった。


「真実也君、知ってるかい。人が人を殺すと地獄に落ちるらしいよ」

「地獄に落ちるつもりです」


 数センチ高い目線から真実也を見下ろす彼は金色の目を細めて不敵に微笑むと、ハンカチを受け取った。


「改めて受け入れよう。真実也 基巡査」


 蛭間はこの時に初めて、真実也に向かって敬礼を返したのだった。





* * *





 真実也基が“覚悟”を表明した二日後──蛭間特殊対策班に一件の出動要請が出た。


「通報は3区から。田口 苑(たぐち その)、八十三歳に暴人化の疑い。彼女の自宅付近を通りがかった地域住民が騒音に気付き、室内で暴れる田口氏と損傷した建物、墨色の血液を目撃し通報。田口氏は長らく一人暮らしであることから、同居人がいる可能性は薄い」

「は、八十三歳……」


 特殊対策班の車内で、読み上げた蛭間の後に真実也は思わず目を瞬かせた。


「お年寄りだからといって暴人を甘く見てはいけませんよ。彼らは君より遥か上の身体能力を持つ」

「はい」

「高齢者はM細胞の侵食スピードが若者に比べて遅いので、長期に渡って苦しむことになります。……発見次第、直ちに“解放”するように」

「はい!」


 真実也は自信を奮い立たせるように返事をした。


「蛭間班長はどこに?」

「おや、私がいないと寂しいのかい?」

「そ、そうではなく!」


 真実也は頬が熱くなるのを感じつつ必死で弁解した。蛭間は愉快そうに笑うと、人差し指を立てた。


「心配しなくとも、私は君の後ろについているよ。何かあった時に部下の命を守るのも班長の務めだからね」

「そ、そうですか……というか、車内で喫煙はやめてください」


 蛭間は目を細めてにこにこと微笑んでいる。


「これは煙草ではなく棒付きキャンディです。残念でしたね真実也君。一ついかがですか」


 真実也は蛭間が差し出した数種類の棒付きキャンディを見ると反射的に断ろうとしたが、少し間を開けると観念したように、真ん中の赤い棒付きキャンディを取った。


「……いただきます」

「ふふ、素直でよろしい」


 トンネルを抜けて、車内に外の光がいっぱいに差し込んだ。



* * *



 通報のあった古民家は、一人暮らしとは思えないほど立派な家だった。しかし窓は割られ、叩き割られた障子が倒れている。室内のどこからか、何かを叩きつけるような音やものが倒れる音が聞こえてくる。暴人は屋内にいる。真実也は後ろに立っている蛭間に目配せをし、懐から“マチルダ”を取り出しながら開け放たれた縁側に足をかけて中に入っていった。


 室内に入った途端、錆びた鉄と腐ったような強烈な匂いが鼻についた。暴人の血の匂いである。一部が割れた柱や畳の上には、墨色の血液がべったりと付着している。広々とした和室は酷く荒らされ、棚の上の置物やタンスの中身がぶちまけられていた。ふと目に入った家族写真には、海を背景に幸せそうに笑う、三十代くらいの夫婦と二人の幼い子どもの姿が映っていた。見なければ良かったと、真実也は少し後悔をする。

 

「班長」


「奥の部屋から一瞬ガリ、と音が聞こえたのを真実也は聞き逃さなかった。家族写真から目を離して、奥から感じる気配を察知し耳を澄ませる。


「奥にいます」

「急に物音がしなくなった。暴れて自傷行為を繰り返し、理性を取り戻してる可能性がある」


 真実也の後ろを付いてきた蛭間は、真実也の肩に手を置いて語りかけた。真実也は怯むことなく蛭間の目を見て頷くと、“マチルダ”をしっかり握り直して部屋の奥へと進んだ。


 いくつかの荒らされた部屋を乗り越えて奥へ進むと、先ほどより一回り広い和室にたどり着いた。血の匂いが一層濃く、真実也は思わず手の甲で鼻を覆った。墨のような黒い血が、畳や襖に飛び散っている。血のついた包丁が畳に垂直に刺さっているのに気づくと同時に、真実也は部屋の隅に背中を丸めて居座る、一人の老婆に気が付いた。老婆はこちらに気づいていない様子で、ぶつぶつと無心に何かを唱え続けている。着ている割烹着はボロボロで、彼女のものと思われる血が流れ出していた。高音になった体温からは、蒸気が音を立てて放出されてゆく。


 真実也はさらに近づく。耳を済ませてよく聴くと、老婆は手をすり合わせて念仏のようなものを唱えていることに気がついた。もう一歩、と真実也が足を踏み出したところで、老婆はゆっくりと振り返った。所作からして、理性を取り戻しているようだった。


「誰……」


 老婆は視線を上げて真実也たちを眩しそうに見ると、しょぼくれた皺の多い瞼を開いて、唐突に声上げて泣き出した。歓喜しているようなその声に、真実也は一瞬たじろぐ。老婆は「仏様」と縋るように言い放つと、ありがとうございます、ありがとうございますと何度も呟いて手をすり合わせた。


「ああ苦しい、苦しい。はやく楽にしてくださいな、ようやくお迎えが来てくだすった、これで……よ……やく私もけ……さんのとこ………に」


 どくどくと速まっていく鼓動を落ち着かせるために、真実也は口から息を吐いた。真実也は息を吐ききると、肩の力を抜く。鼻から自然と肺へ空気が入ってくるのが分かる。真実也の足に縋り掴む老婆の手に力が入る。


「田口苑さん」


 部屋は不気味なほど静かになり、真実也の声だけが響く。真実也を見上げる老婆の瞳孔は開ききり、ギギギ、という不気味な呻き声をあげていた。


「あなたを、“解放”します」


 いつの間にか目に浮かんでいた涙が頬を伝うと同時に、真実也は“マチルダ”の引き金に力を入れて一発撃った。額を撃たれた衝撃で後ろに飛ばされた老婆は「あ……」と呻いたが、間髪入れずに真実也が二発目の引き金を引いた。銃弾は老婆の胸の中央に直撃する。襖にぐったりと寄りかかった老婆はもう動かず、体の下からじんわりと墨色の血が流れ出した。血の飛沫が目に入った真実也は、流れた涙と一緒にそれを拭った。


「お見事」


 銃声の余韻が止んだ頃、蛭間要は静かに言い放った。



「こちら蛭間特殊対策班、班長 蛭間要。十時四十三分、真実也基巡査により、ターゲット田口苑を無事“解放”した。新規負傷者はゼロ、回収班は直ちに暴人の回収を」


 通信機器を懐にしまった蛭間はぐるりと部屋を見渡し、仏間に座り両手を合わせている真実也を見つけた。蛭間は仏間に近付く。


「不思議なこともあるものだね」


 蛭間はそう言ってしゃがんだ。容赦無く荒らされた部屋の中で唯一、この仏間だけは荒らされずに整然と佇んでいた。綺麗に手入れされた仏間に視線を向けると、六十代ほどの男性が笑顔で写っている遺影に目が留まる。


「時に、生き続けることは死ぬことよりも辛く厳しい。彼女は生を全うした。君の“解放”は立派だったよ」


 隣で涙を流しながら手を合わせる真実也の頭に、蛭間は自身の手を乗せて撫でた。


「君は優しいね。そして強い」


 暴人、田口苑は“解放”された。



* * *



「ハジメちゃん、ずっと泣いてたでしょ〜目真っ赤だもん」

「ずっとは泣いてない」

「ずっと泣いてましたよ」


 仕事終わりの蛭間特殊対策班のオフィス。「はじめちゃん はじめてのかいほう」というタイトルが綴られた紙の横断幕と、みちるによって室内は華やかに飾り付けられていた。目を赤く腫らした真実也はデスクに座らされ、みちるに強制装着されたフラワーレイを首から下げている。


「みんなが帰ってくる間に待機のみちるちゃんがこんなに頑張ったんだから、もうちょっと喜んでくれてもよくない〜?ねぇひるるん」


 みちるは頬をふくらませて拗ねているが、どこか楽しそうな様子である。


「そうですね、ちるちるにはお礼を言わなくては。ありがとうございます」


 班長デスクで足を組んで座る蛭間は目を細めてにこりと笑った。真実也は蛭間に習い、にこにこと得意げに返事を待つみちるに咳払いをしてから礼を言った。


「あ、ありがとう」

「ん、なに〜?聞こえない」

「あっ、ありがとうって言ったんだ!!」

「急に大声出さないでよ〜」


 じゃれ合う部下二人を笑顔で見守る蛭間は、デスクの上の報告書に判子を押した。



【蛭間特殊対策班 真実也 基巡査(非)】

『体力、身体能力、学力共に優秀。適性検査において精神面の脆弱性が危惧されたが、短期間で“解放”の克服を果たす。情緒の乱れはあるものの、攻撃性は見られない。


引き続き、非潜伏者である彼の指導と監視を続ける。

班長 蛭間要警部補』





BLACK OUT~蛭間特殊対策班~

Sample:03『ヒューリスティックが仇になる-後-』



END.






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